あなたと私と見知らぬ誰か
「な、何!?」
思わず振り向いたが、そこには何もいなかった。
しかし。
『酷いことするよね。いくらなんでもさ、やり過ぎじゃないの?』
『信じらんないわ。まともじゃない』
『あーあ、こりゃもうどうしようもないね』
『足元見てごらんよ、ほら』
『頭に血が上ったからって……ここまでやるなんて』
『狂ってる』
『おかしいよ』
『まともじゃない』
『信じらんない』
『だから君は』
『捨てられたのかね』
声が、する。
一瞬で、同時に何事かをどこかから囁かれた。
どれもが同じ声色なのに、全てが別人のような響きを伴っていて、大きいのか小さいのかすら漠然として……常軌を逸している、そんな曖昧な感想しか持てない。
聞き取れないようで、どれもが刹那に頭に無理矢理刷り込まれる。
これは、何?
『ソプラノ・プラム』
『骨格、肌、顔及び声質から見て……十六、七歳ってとこかな』
『さっきから敬語、ところどころ忘れてるよ』
『いやまあ、元々僕に使う必要なんかなかったけどさ』
『そこらへんからして、ブレてるんだよね、君』
私に今話しかけているのは、誰?
『殺すなら、殺す。殺さないなら、殺さない』
『はっきりするのは良いけどさ』
『やり方が不味いよね』
『プロ意識が足んないっていうかさ』
『殺しなんか、楽しんじゃあいけないよ』
『仕事なんでしょ? 公私の区別はつけなきゃねえ』
あちこちから響くようで、ただ脳内に収束するような、不明な声。
……私の聴覚は、人の域どころか魔族をすら上回る。
あらゆる物質に同調する振動数も把握しているし、魔力を使えば指向性のあるだけじゃなく、程度はあるが一定のダメージを見込める「音」を、離れ、障害物に遮られた相手にぶつけることも可能だ。
故に、ニーニーナ先輩の助けを借りたとはいえ、城外からの精密音波で、部屋にいたガロン・ヴァーミリオンを仕留められた。
……そんな私の優れた耳が、今捕えている音。それは一体、どこからなのか。
『エリート意識の塊……』
『いいや違う。コンプレックスだよ、これはきっとね』
『慇懃でいれば、見下してる相手にも鷹揚な印象を与えられる』
『少なくとも、面倒は避けられる』
『ガキの考えそうなことだなあ。プライドの守り方が幼いこと拙いこと』
『それだけじゃないな。本当は、この娘』
『間違いない。さみしんぼだよ』
「は、はあ!?」
だ、誰がさみしんぼうだって!?
『さみしんぼ……やっぱり食いついた』
『凡人にも食いついたよね』
『一番それが、気に食わなかったみたいだよね』
『的外れなら、怒る必要ないよね』
「的外れの極みです! 私のどこが、凡人だと……!?」
『いやまあ』
『能力はあるんじゃない?』
『僕が言ってんのは』
『こころ』
『こころさ』
『精神の、ありよう』
「鬱陶しい……! どこにいるんです! 姿をさっさと……」
『自分は、人とは違う』
『ありそうなことだ。誰だってそんな時期はある』
『周囲に理解者がいない奴に限ってさ』
『自分の価値観の特異性を、優越感にすり替えたがるんだから』
『正直見てられないよお、恥ずかちい』
「いい加減にしてください! 死に損ないの芋虫め、まだ喋るのか!」
そう叫び、もう一度足元の亡骸を踏みつける。
先ほど以上に抵抗なく、ぐしゃりと嫌な感触が、靴を介して伝わった。
良い気味だ、死人に口なし、これでもう黙る筈。
『芋虫とはご無体な』
『せめて、蛇と呼んでほしいなあ』
『これにはティア様もご立腹』
「黙れ!」
ぐしゃり。
もう一度、踏みつける。今度こそ。
『黙らない黙らない』
『凡人が凡人見下してさあ、楽しい?』
『ほーれほれ、君の根っこ、ちょっと見てみよっか』
――だれも、わたしとあそんでくれないの。
わたしも、うるさいって、言っちゃうの。
だって、耳がいたい。
みんなの声、こどもの声はキンキンしてて、わたしもいっしょに、虫取りにいきたかったのに。
おうたのときだって、みんながじょうずにうたえるようにっておもったのに。
おしえてあげても、ナマイキだって、向こうでうたおうぜ、って。
みんなわたしのこと、なかまはずれにするの。
おかあさんも、わたしがせっかく、とりさんのこえがきれいだよっておしえてあげたのに、ぶったの。
おしごとのじゃまだって。
おとうさんは、あんなできそこないがうまれたのは、おまえのおなかがわるかった、っておかあさんに……。
わたし、いらないこだったの……?
ねえ、わたし、なにかそんなにわるいことしたのかな……――?
頭に響く声は、聞きおぼえがあった。
いや、直接は聞いたことはないが、間違いない、これは……私? 昔の、私の声?
「な……なに、なんですか、これは……?」
『かーわいい』
『そりゃあさみしいわな。かーわいそ』
『鋭敏過ぎる五感って、確かに普段は邪魔でしかないよね。覚えがある』
『環境が悪いっていうより、運が悪いよこれは』
『凡人でいたかったのに、君の才能はそれを許さなかった』
『私はあいつらとは違うから、ってか……いい逃げ場を見つけたね』
『妥当だね』
「や……やめなさい。どこにいる、どこにいるの!?」
『君がどこにいるのさ』
『そんな若くして、使徒だなんだと』
『必要としてもらえるのって、確かに嬉しいよね、きっとさ』
『でも、ほんとうは』
『故郷で、ゆっくりのんびり、血生臭いことなんかせず』
『暮らしていきたかったんだもんねえ』
『……わかるよ』
「もういい! 失せろ! なんで死なないの! なんで!」
『蛇は脱皮するもんですし』
『ところで君、使徒になって欲しかったものは手に入った?』
『地位』
『名声』
『金銭』
『能力』
『うふ、ふふふ……』
『信頼?』
「うる、さいっ! 背信者が、もういい、失せろっ!」
そう言って、最早この声をかき消すためだけに、私は。
全身全霊、全方位に向けて、最大出力の音の結界を張り巡らせるために、思いっきり息を吸い込んだ。
ずぶり。
「……え?」
阿呆みたいに、声が漏れた。
まず気付いたのは、視界が妙に低いこと。
それから、足が妙に動かしづらいこと。というより、胸から下が動かない。
……あ、慌てない。
大丈夫、痛みはほとんどない、大丈夫。
呼吸を整え、ゆっくり下を見る。最悪の事態、考えたくもない最悪の事態……昔本で読んだ、下半身を失った人の体験、そんな、まさか、嘘でしょ……?
……下半身を失うことは避けられたらしいが、状況は最悪の一歩手前だった。
凍りついた大地、そこに、すっぽりと半身が埋まっている。
理解不能だ。
なんだこれは。
「おーさむ。もうちょっとで思わず冬眠しちゃいそうだった」
そんな声を上げながら、目の前に、男が這い出してきた。
凍った土の中から、這い出してきたのだ。
「あ、あなた……」
「種明かししちゃおっか。さっき、放り投げた飾りあるでしょ?」
……まだ、抵抗は可能だ。自分の武器は声。
内臓が圧迫されているが、時間があれば、攻撃出来る程度に呼吸は練れる。
「……ええ」
「あれね、僕。スリみたいな品のない真似はしないさ、ぼかぁ。さっきも言ったけど、蛇って脱皮するでしょう? そうしないと大きい傷って治せないんだよね」
その言葉を受けて思わず視線を散らす。広がった法衣に目をやれば、確かにどの飾りも欠けてはいなかった。
目の前の男が先ほど……コイツの言を信じるなら変身した姿、その放り投げられた場所を見れば、確かに不自然に掘られたような穴が見える。
さっきは、影武者にこちらの目を引き付けさせていたのか。
先ほどまで踏みつけていた残骸をよく見れば、血こそ出ているが、確かに中身は空洞で。
しくじった、何故自分は気づかなかった、こんな、こんな入れ替わりに……! いや、でも!
あんな怪我が、そう簡単に治るわけない、何より鼓膜はどうしたのか。再生するにしても、こんな早く出来る筈がない。
目の前には、でもまだこれ痛いよやっぱり、そんなことを呑気に言いながら、耳の中を小指でほじくっている、男。
変身に治癒だなんて、しかもかなり高度な魔術? でも、使えないって聞いていたのに! マナだって乱れてない。つまり、魔術は使われていないのに……。
何より、あんな小さなものに変身するだなんて……!
「さてさて、なんでこんなこと、君に言うと思う?」
「……さ、さあ」
「蛇さんってさ、手も足もないでしょう?」
「え、ええ。そうですね」
「なんでだと思う?」
「はあ?」
「なんでだと思う? 言ってみて?」
なんとかして時間を稼ごう、そう覚悟した時。不意に妙な質問をぶつけられた。
変に幼げな男の、その雰囲気を受けて、思わず相手の目を見る。
そして気づいた。
コイツは。
「ねえ」
震えが止まらない。
だってコイツは。
「ねえってば」
コイツは。
「……無視かい。まあいいや、正解はね……?」
うふふふふ、と気色悪く笑う男を見て、確信した。
私の勘は正しかった。やっぱりコイツ、人間なんかじゃない。
コイツは、コイツは……!
「全てを手に入れているからさ。そりゃあ手なんかいらないよねえ……ティア様?」
そういって舌舐めずりをする、瞳孔の割れた真っ黒い眼を持つ男。
コイツは、蛇だ。
全てを喰らう、蛇。
この世で最も邪悪な怪物。
私の目の前に、それがいた。
――とはいえ、と。そいつは言った。
「人の身をかたどる以上、欲する者……足りない者であるのは、必然っちゃあ必然でしてね。何せティア様でさえ、足はなくとも手はあるわけで」
そう口にし、男はこちらに向けてしゃがみ込んできた。
「……分かります? 僕が今欲しいものが、一体何か」
そして、じいっと、あの気持ち悪い眼で首をかしげながら覗き込んでくる。
先ほどまで貼り付けていた笑顔は最早なく、能面のような表情で。
こてり、こてりと二度三度、首の角度を変えながら執拗に。
こちらの目を、その奥を看破しようと、ただそれだけの機械のように。
「ひ……!」
思わず目をそらす。まともに見ることなんてできない。
コイツの目は、毒だ。間違いなく人間にとって、致命的な毒。
……そして、そんな態度をとってしまう自分がどうしようもなく惨めで、みっともなく感じて、気づく。
この感情は、随分忘れていたものだ。
私が、怯えている……なんて、嘘だそんなの。嘘よ。
ありえないし、あってはならない。
だって私は、使徒なのに。英雄、なのに……。
思わず胸元に目をやってしまう。
イヴ先輩の術が込められた魔石は、この極寒の中でも体温を保たせてくれる、命綱と言ってもよいものだ。
この凍土に埋め込まれてなお、寒気を遮ってくれているそれを、私は大事に懐に縫い付けていた。
何より、あのヴァーミリオンを束縛し続けている拘束術式の源泉でもある。
事ここに至って、私は思わずその命綱に一瞬縋るような感情を向けてしまった。
所詮は道具、決められた仕事以外は果たせない。そんなことは分かっていても、いつも冷静なイヴ先輩の恩恵を受けたいと、助力がありはしないかと、祈ってしまった。
けれど。
「……」
男は無言で、その祈りをむしり取った。ゆっくりとのばされた、左手。人間の形をした、人でない者のその手で。
それが丁寧に、寸分たがわず私の胸元に潜り込み、一瞬で私から奪い取っていった。
口にこそされなかったが、明らかにこちらを小馬鹿にするような視線を受けて、自分の失策を悟る。
この期に及んで私は、一番やってはいけないことをやったんだ。
今の自分が最後にすがるのが何か、コイツはこの上なく冷静に、観察をしていたんだ。
これだけは、奪われてはいけなかったのに。
「……」
男は何も言わない。ただ左手で、取り上げた魔石を矯めつ眇めつ、物珍しそうに眺めている。
ちらり、と目線を再びよこされると同時に、思わず肩を竦めてしまった。
とがめられている、そんな気分になってしまった。
それでも、私は安堵してしまう。
その男の表情が、感情が少しでも感じられることに、安心してしまう。
だって、ほんとに何もなかった。
そいつの顔、こちらを凝視していた時の顔は、あんなものは人間がしていい顔じゃない。
生きている人間の顔じゃない。
あれは、死体の顔だ。
だから安心した。
その男の感情を受けて、私はほっとした。
私は死者を相手取っていたわけじゃなくて、ここはまだ、自分の知っている現世だったと確認することができたから。
「……ダンスの」
「え……?」
「先ほどのお誘い、受けてはいただけないっぽいですね。残念なことに」
そう言って、そいつは目線を下げ、こちらの埋まりこんだ半身を見やる。
男がわざとらしく眉尻を下げて、みっともない表情を形作るのを見て、鳥肌が立つ。
もうコイツの一挙手一投足どころか、表情筋の動き一つが私にとって恐怖の対象であることを、もう隠せない。
怖い。
この人、怖い。
怖いよ。
「ガタガタ震えちゃってさ……別にそんなに怖がんなくてもいいよ」
無理だ。
こんな奴知らない。私の人生には、こんな人いなかった。
いてたまるか。
「もう怖がる必要はないよ。人間、みんな平等さ。平等に、平等なことが起きる。君にも」
こ、怖がる必要、必要とか、そんな話じゃない。
私は、あなたが怖いの。
「……色々吐いてもらいたかったけど、時間切れかな。ま、しゃーない。正直趣味じゃないんだ、こういうの」
「え……?」
どういうこと?
まさか、まさかとは思うけど、解放してくれるの?
許して、くれる、の?
「もちろんさ」
そう言って、そいつは踵を返す。
意味が、分からない。
分からないけど、なんでもいい。こちらが許しを乞うてしまったことなど、恥だが、もういい。
それを何故か知られたことも、もういい。頭を覗かれようが、もういい。
とにかくコイツが目の前からいなくなれば、それでいい。
それでいい。
それでいい。
それでいいから。
早く、目の前から消えて……!
「……僕もね、君とおんなじさ。故郷は、恋しい……恋しかった……」
じゃあね、と。
背中を向けたままソイツはそう言って歩き出す。
それを見て、私はようやく強張りきった肩の力が抜けていくのを感じた。
どうしよう、このままじゃ術が切れちゃうし、凍え死んじゃう。
そう思った時、ふと思い出した。
魔石は、もう手元にないんだった。
ああ、なら、もう。
「後はガロンさんにおまかせするよ。恨み骨髄だろうから」
そして、洞窟の中で震え始めたマナと、咆哮。それに気付いたときに、ようやく私は理解した。
私の死は、もう確定していたことに。




