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ソプラノ・プラム

 ――走った。

 久しぶりに、走る。そう、こんな風に必死で足を動かすのは、一体どれほどぶりだろうか。

 呼吸は乱さないのが、自分の流儀であった。それは、ある種ローグ・アグニスより徹底していた、自分の誇りの一環だ。


 躓いた。

 一瞬、そんな現象がこの身に起こったことが信じられなかった。躓くという行為がこの世に存在していたことすら、忘れて久しい。こんなのは、焦る必要のある凡俗の所業だろう。

 

 私は怒りを感じている。自分に対しても、そんな状況に陥らせた、男に対しても、自分は怒りを覚えている。まさか、自分が焦っているわけでもあるまいに。ある筈ない。


 私は使徒だ。

 使徒なのだ。

 人よりすぐれた人、それが故の称号。

 まさしくそれこそが、使徒と呼ばれるものなのだ。

 神に近しく、神に愛され、神を愛し、恩恵を受ける者。

 それが私たちの筈ではないか。


 何故。

 何故私が走っている?

 走る必要が、あるのだろうか。


 ……心肺能力は、当然鍛えている。それこそ一般人では及びもつかぬほどに、鍛えぬいた。

 古今東西、ありとあらゆる呼吸法を身に付けた。声、音、それを扱うに相応しいほど、私は若年にして極めている。


 何故、私は今走っている? まるで、凡俗のように。

 まるで、何かから逃げるかのように……?


 ――あらら。


 そんな呆れたような声が、どこかから聞こえた気がした。

 まさか、私を見下しているんじゃないだろうな。

 私を見下すな。私を見下していいのは、神様か、私と同じ恩恵を受けた、先輩たちだけだ。


 私は博愛主義者だ。

 およそ大体の生き物は、私より劣っている。経験則だ、間違いない。

 だから私は、いつだって余裕を持った生き方ができるのだ。だからこそ、神の教えに則って、全ての者に優しく接することができる。自分より優れた使徒の先輩の教えを、素直に受け入れることもできる。

 だって、私だって優秀だから。

 他の人だって、私の実力を認めてくれているのを知っているから。

 私だって、他の使徒が望んでも得られないギフトを持っているから。

 私だけの。私だけ、私だけの力。


 温かみのある、そんな色が暗がりに差し込み、そして広がった。

 ……もうすぐ日の入り。そんな、昼間より随分大きく見える夕陽が目に入り、その橙色がいやに優しく感じた。外に出たことに、そこで初めて気づいた。

 ……短い時間だった。当然だ、この洞窟はさして奥まったものでもなく、私が全力で走れば、僅かな時間で外にたどり着くのは、それこそ当然。

 私は一つ、息を大きく吐く。


 呼吸は乱れていない。当然だ。これくらいで乱れてたまるか。

 これは私の流儀だ。死の際まで、私は自分の呼吸を律することができよう。

 呼吸は心を表す。私は平静、平常心である。

 ……多少肌寒さを感じるのは、ここが極寒の地だからだ。イヴ先輩の術といえど、全ての寒気を遮るのは難しいだろう。

 そう、私はいつもどおり、いつもどおりのパフォーマンスを保っている。


 ……だけど、未だに振り向けない理由はなんだろう。


 私はソプラノ。ソプラノ・プラム。

 かの魔王の矛、ヴァーミリオンすら拿捕した、優秀な人間。これで私の評価は一段と上がるのは間違いない。


 ……その美味しい獲物をほっぽって、私は何のために今ここに?


「もう、逃げるのはおしまい? 鬼ごっこは、おしまいでよろしいのかい?」


 逃げるだと。この私が? 馬鹿言うな。


「冗談を言わないで。返り血を浴びたくなかっただけです……薄汚い、魔族に与したあなたの血を」


 振りむけば、そこには一人の男がいた。

 ナイン。そう呼ばれている、裏切り者で背信者。

 当り前の話だ。私が逃げるはずないだろう。この男、既に満身創痍なのだ。事実、肩でぜえぜえと息をして、見苦しいったらない。


「んー、んー、失礼。なんか言いましたかね。生憎耳がこのザマでね、聞こえませんで」

「ここで死ね、それだけです……聞こえようが聞こえまいが、関係ない」


 再び私は、神から与えられたギフト、それを発動させるために両手を広げる。


「汚れた魂を持つ罪人よ、私が疾く浄化してさしあげます」


 先ほどの狂行・・……自分を傷つけるその覚悟は中々のものでも、所詮は無能力者。魔術も使えず、イヴ先輩の軛もいまだ解けていないことは、周囲のマナの残滓で分かっている。

 ヴァーミリオンにかけた枷をコイツ程度が解ける筈がないからこそ、私は態々ここまでコイツをおびき寄せたのだ。


「嘘だね」


 ……今こそ直接、身体を破壊する周波数の音をぶつけようと考えた時、一言だけ男はポツリと呟いた。


 ……構わず私は、こいつを四散させるために、最大出力で声を発そうと息を吸い込み、練りあげる。


「君、うん、ソプラノちゃん。嘘吐きだよね」


 ……練り上げる。


「僕が、怖いんだろさ。正直になんなって」


 ……戯言を無視して、練り上げる。


「お尻振り振り必死こいて逃げちゃってさ。僕がお願いしたのは上品なダンスのお相手で、エロい奴じゃあないんだよ。誘ってんの?」


 そう言って、そいつは、こちらに何かを放り投げた。


「……!」


 思わず集中が乱れる。そいつが紙くずをゴミ箱か何かに放るかのように投げつけたそれは、私の法衣の裾飾り。

 使徒の称号を受けて授かってからずっと大事にしていた、私の誇りの一つ。


 ふわり、と宙に浮かび、そして宝石が夕陽を反射しきらめいて、まっすぐ地に落ちた。

 当然拾うような隙は見せないが……殺すのに躊躇しない理由が増えた。


「僕は嘘吐きが嫌いなんだよ。まるで自分を見ているようでさあ。正直な方が人生楽しいのにね、なんで嘘なんか吐くのかね、人間ってやつは」


 へらへら、にやにや。

 自嘲しているようで、いいや違う、間違いなくこちらを馬鹿にしきったその顔。

 気に入らない。


「……いつ、奪ったんです」


 耳が聞こえない相手に思わず問いかけてしまい、自分の短慮を恥じた。

 しかし。


「君がビビって逃げ出したと同時にさ」


 さも会話が通じているかのように、その男は言葉を返してきた。

 ……いや、ただ単にこちらの言葉を予測しただけだろう。これ以上相手のペースに乗る必要なんかない。こいつはこっちを惑わそうとしているだけだ。

 ほんの一瞬、こちらがこいつの気味悪さに気を取られて、油断しただけ。命は取られてない、飾りはすぐに、コイツに触られたのを消毒して元通り、コイツを殺して、それで終わりだ。

 むしろコイツは、私に知られずに済んだ手癖の悪さを披露しただけ。

 ローグ先輩だって、どうせそれとコイツの虚言に付きあった所為でドジを踏んだに違いない。


「外に出る意味なんか無かったでしょ。ガロンさんを人質に取らなくてよかったの?」

「……あなた程度に、そんなことをする必要性を感じられません」


 つい、また言葉を発してしまったが、別に聞かれなくてもよかった。

 気に入らなかったのだ。今から死ぬ分際で、怯えの一つも見せずにこちらに妄言を吐くこの男に、正直腹が立った。

 もちろん殺す。殺してやるが、私の誇りを僅かでも傷つけるなら、万倍の恐怖を与えてやる。


「……君さ、初体験まだでしょ」

「なっ」

「ああ、勘違いしないでね。男と寝た回数なんか知らんさね、僕だって童貞だしそんなの分かんない」


 何を言い出すのか。

 いや、関係ない。もういい、できるだけ痛めつけて、痛めつけて……!


「ほら、もうブレてる。最初は一刻も早く殺す。次は苦しめて殺す。また、速攻で殺す。そして今は、痛めつけて殺す……」


 ひひひひひ、と。そう言って、そいつはいやらしく笑って、そして一瞬痛そうに耳を押さえた。


「君にゃ、魔族は殺せても人間は殺せないよ。多分、これから一生ね」

「……!」

「見りゃわかる。君は凡人だよ……勘違いしないでほしいけど、これは褒め言葉」


「なん、ですって……!」


「いいのいいの。人間を殺すなんて、それこそ畜生か魔族のやるこったね。君はまだお子ちゃまじゃない。お酒も飲めないお年でしょ? まあ、僕も苦手だけどさ」


 汚れ仕事は、他の人に任せてさ。

 おうちに帰って、ねんねしな。

 ――お嬢ちゃん。



 そんな言葉を、耳にして。


 私は生まれて初めて、目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚えた。




 ――殺意、それは余り自分の人生にとって近しいものではなかった。


 単純に、血が好きではないというのもある。

 しかし、そんな感情を与える環境が、これまで自分の周囲に無かったというのが一番大きな要素だと思うのだ。


 ……思い出すのは、幼いころの記憶。

 退屈な記憶だ。


 フォルクスの片田舎で、私は生まれた。村の名前は……もう忘れたけど。

 

 父も母も、親戚も、兄弟もいたが、顔もあまり覚えてはいない。

 彼らに一番感じた情念は、良く覚えている。

 鬱陶しかったのだ、彼らは。


 だって、誰も彼も気づかない。日々の貧乏暮しに追われて、気づかない。


 自分たちがどんな音を発して、それがどんな響きをもって、どれほど自然のハーモニーを阻害しているのか。

 ……私は自然の声が好きだった。歌が好きだった。けれど、彼らの歌う頓珍漢で音っぱずれな歌は、大嫌いだった。


 両親は、そんな私を喜ばそうとしてくれたのか、偶々近くに布教(と言っても、既に村人たちは改宗していたから、お布施を集めにきたのだろう)に来た聖歌隊のところに連れて行ってくれた。


 無口な私が、ぼんやりと彼らの歌声を聞いていたのを見て、両親は嬉しそうだった。


 でも、私が次に口にした言葉で、顔面を蒼白にした。


「下手糞だね、あの人たち」



 ……不敬、背信、それこそ色々な罵倒の中、私は彼らの前に進み出て、同じ歌を、同じように……いや。

 比べようがないほど、完璧に歌い上げた。


 それが、サリア教団に拾われた始まり。


 私にあったのは、憎悪でもない。殺意なんかでもない。倦怠だった。


 ……本当は、みんなと仲良くしたかったけど。

 不快な音を作り出す彼らとは、どうしても一緒に居られなかった。

 だって、誰にもわかるまい。歌の音程が半音ずれるだけで、木々のざわめきをはしゃぎ声で消すだけで、私は頭をかきむしりたくなるほどに苛々していたのだ。


 音と、そしてその調和。あれほど偉大なのに、みんなきっと、生涯そのことを分かってくれはしないだろう。


 誰も私と同じ世界を分かち合ってはくれるまい。そんなことを、教団に拾われて聖歌隊の筆頭となりながらも、考えていた。


 そんな中、神様は私に語りかけてくれた。


『正しく響かせよ』


 それからだ。私の声に、歌に、魔力がこもるようになったのは。


 私が歌えば、人はうっとりと聞き惚れる。

 私が叫べば、魔族は苦しみぬいて死ぬ。


 私は力を手に入れた。神様に、選ばれた。私は間違ってなんかなかったんだ。


 いつしか私は、自分の耳に入る音すら選別し、精神状態を平常に保つ技術すら身につけた。


 そして今、優秀な仲間とともに、世界を救う剣となり、今まで接することもなかった無辜の人々にも感謝され、充実した人生を送っている。


 ……そう、私は生まれながらに神様にだって目を向けられていた、優秀な存在なのに。


 言うに事欠いて、ねんねしろ? お嬢、ちゃん? 凡人……だって……?


「ふ、ふざ……っけるなァっ!」


 刹那で周囲の空気を吸い上げ、舞っていた葉が真空の影響で断ち切られる。

 そうして得た肺を満たして得た私の武器、全身全霊の音弾をぶつける。破壊を目的とした、自分の技の中でも最も単純な攻撃。

 それでいて、並の魔族であれば四肢が爆ぜるほどの威力を込めた、殺害魔術。最も使い勝手が良く、だからこそ使用を戒めていた、切り札の一つ。


 まさに音の速さで眼前の男にそれは到達し……その右腕を吹き飛ばした・・・・・・


「うぎ……!」


 重心が狂いバランスを崩したその男は、だらしなくふらついて、地面に崩れ落ちる。

 良いザマだ! でもまだ、まだ足りない! もっと、もっと!


「もういっぺん言ってみなさいよ、誰が、お嬢ちゃんですって!?」


 もう一撃。

 今度は、左腕。


「ぐううっ」


「あなたごとき下衆が、この私にっ!」


 もう一撃。

 今度は、右脚。


「が、ひいいいいっ!」


「なんて言ったか、もう一度、言えるもんなら……!」


 更に、一撃。

 これで、こいつは最早。


「ぎゃあああっ……!」


「言ってみろおっ! この、雑魚がっ!」


 最早、芋虫同然。

 完膚なきまでに、私の勝ちだ。


「……ふ、ふふっ。良い姿ですね! あなたには相応しいじゃあないですか!」


 そう言って、私は一歩踏み出す。まだ息がある筈だ。絶対、絶対にあんな口を利いたことを後悔させてやる。

 凍った地面を苛立ち混じりに爪先で弾きながら、一歩、もう一歩と男に近づく。

 芋虫が。背信者には、まさに相応しい姿だ。


「ほら、さっきまでの威勢はどうしました? 言ってみなさいよ、言ってみてくださいよ。私、それが聞きたくて聞きたくて、態々まだ生かしてあげてるんですから!」


 そうして、私は残酷な喜びを噛みしめる。そして自分がこんなに残酷になれるという事に初めて気づいたことすらその喜びのスパイスにして震えながら、右脚を持ち上げる。


「この、神に選ばれたソプラノを、凡人だの何だのと……!」


 優しく、そう、出来るだけ屈辱を与えるように、ふわりとそいつのこめかみに爪先を到達させて、触れた瞬間。

 自分の中で暴れ狂っていた、赫怒を爆発させた。


「もういっぺん言ってみなさいよっ! 裏切り者っ!」


 こいつから与えられた鬱憤を全て、この一撃に込めようと、頭を踏みつける。



 ……ぐしゃり。




「えっ」


 えっ。

 嘘。

 まさか。

 私に今付加されている筋力強化魔術は、それほど強いものではない。

 防衛魔術に比べれば雀の涙ほどのものだ。

 元々がサポート専門と言うのもあるが、基本的に敵から姿を隠して戦うのが私の本来のスタイルだから。


 予定が狂って……それこそ、この点についてはニーニーナ先輩を恨んでも良いとは思うが、最終的には収まるべきところに収まったから良しとするか……?

 何よ、人を殺せないだなんて。ふふ、そんな甘ったれな訳ないじゃないの……。

 ……いや、おかしい。

 私の力で、人間の頭を踏み砕くなんて、そんなことはできない。

 狂人め、まさか、頭が比喩でなく空っぽだなんてことはないでしょうね……?


 おそるおそる下に目を向けた。



「やっぱり凡人だね君は。ローグ君ほどじゃないや」



 虚ろに声が響いたかと思うと。



 後ろから、何かが纏わりついてきた。


 それは、とても冷たくて、とても、とても冷えていて。


 地獄から来た温度が私を捕まえたのだと直感すると同時に。


 自分の口から意識もせずに、この上なく無様な悲鳴が漏れた。

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