火蓋
……どうでもいいけれど。
一番澄んだ眼をしているのは、ガロンさんだと思う。
無論、僕の知っている魔族の同朋の話である。
他のみんなは、色々自分なりの思想なり経験なりの色があって、それもまた美しく、目の向け甲斐はあるんだけど、でもそれは一種の純粋性を損ねているとも言える。
そんな中、ガロンさんだけは、透明さが失われていない。
それは、単純さもあり、今まで自分の中で物事を考えず、与えられた価値観だけを良しとしてきた幼さ、あるいは彼女の本性が持つ小娘らしさでもあって。
でも、存外僕は、彼女のそんな青臭さが気に入っていた。
もとよりそんな相手だからこそ、僕は、彼女をお母さんにしたわけだし。
した、わけだ。お母さんに。
……お母さん。いやいや、したんじゃあない。彼女は、そう、元々僕のお母さんだった。母親ってのは、なるものじゃない。元来あるべきものだった。勘違い。
もとい。
……なんにせよ、僕は彼女の純粋性を好んでいて、だけど、それが僕とかかわった所為で段々と変わっていくのを見るのも、やっぱり好きだった。
言ってしまえば、僕にとって都合のいい存在に、僕に情を向けてくれる存在にじわじわ染まっていってしまう様は、何ともいえぬ恍惚感と罪悪感をもたらしてくれたのだ。
この後ろめたい快感から、僕はどうも逃れたくないもので、だから彼女を必死こいてこんなところまで追いかけてきたわけだ。
いや、つまり。
僕は滑稽だなあ、なんて、そんなことを単に考えるについて、つらつらと自分の行動に理由づけしてみたかっただけの話。
……ニーニーナに遮られて、なかなか合わせられなかったガロンさんとの目線。合えば直ぐに、まっすぐ、まっすぐに、僕の目を睨み付けたガロンさん。
以前の覇気が戻ったようで。それでも以前とは違う、それこそ初対面の時のようなこちらに対する明確な悪意を取り繕った感情が、その瞳には浮かび上がってきていた。
だから、つい、格好つけた言葉をぶつけて泣かせた。
逃げろって?
ねえ、ガロンさん。
僕が、母さんを置いて、逃げるって?
そーんなわけないじゃーん。
だって僕、ナインなんだもん。
もう、泣き虫のままの僕じゃあ、ないんだもん。
ガロンさんが涙目で俯いちゃってからニーニーナが、口を開くまで、僕はそんな詮無いことを考えていた。
「お喋りは、そこまでにしてね」
……予定調和というか。
場に相応しく、陳腐な台詞をいただけたもんだ。思わず素直に頷きかけたのもむべなるかな。
「本当に、なんというかさ。馬鹿なのか、期待を裏切らないって言うか……褒めてあげたいくらい面倒な男だわね」
「恐縮です」
「皮肉よ、お馬鹿」
「知ってます」
ニーニーナは、肩までかかったその髪をかき上げて、ため息をひとつ零した。
「……まあ、ね。うん。アタシにも立場というか、後輩の手前、これ以上の譲歩は無理なわけ。言いたいこと、分かる?」
「はてさて。お隣のお嬢さんが、僕のハートをヒートさせそうな位睨みつけてるのしか分かりませんな。ちびりそうですわ」
「……本当に、残念よ。ここでこのワンコロを見逃すようなら、改めてお迎えにいくつもりだったのに。本当よ?」
「……僕も残念です。貴女は結構、話の分かりそうな気がしてたんですが」
「交渉、決裂と。人間裏切って、そっちに付くかあ。『無限』のお姫様の、何がそんなに君の琴線に触れたかね」
「あの方も、存外可愛いところありまっせ。軽い覚悟で宗旨替えするほど、僕は尻軽じゃあないんです。僕はもう、ディアボロの一員のつもりですよ」
その一言で、空気が変わった。
「異端の宣言を確認。使徒が一人、第八位のソプラノ・プラム。教義に基づき、殺害します」
ソプラノと呼ばれた娘。
今まで殺気を向けながらこちらを窺っていた彼女は、その言葉の直後、胸の前で両手をゆっくり広げはじめた。
「……さよなら、坊や。本当に、残念だわ」
そう言って、ニーニーナは相変わらず唐突に、コマ落としのように姿を消した。
それが合図で、終わりだった。
がく、と揺れるような感覚。地面が近づく、違和感。
体が壁、いや地面に叩きつけられる衝撃で、初めて自分が倒れていることに気がついた。
ニーニーナの気配は消えている。アイツじゃない。
なら、この現象を起こしているのは間違いなく、もう一人。
ソプラノ。この女だ。
顔を上げてみる。首は動くが、視界が利かない。ほの暗かった洞窟内が、グルグルと回っていて、洒落にならない嘔吐感が襲ってきた。
目が……使えない。切り替える。
仮想ピット器官による熱源探知を開始。
……ティア様の恩恵……蛇に属するその機能によれば、ソプラノ、ガロンさん、自分。三人の位置関係が変わっていないことが分かる。
つまり、自分は散々偉そうなこと言っておきながら、指一本触れられずに、無様に這いつくばったわけだ。
瞬きする間もなく、あの十字架を模したような変なポーズをとったまま僕をはたき倒したとかでなければ。
流石僕だ。雑魚過ぎる。
いや、冗談じゃないぞ。
嘔吐感、頭痛、それらが交互に苛み、耐えがたい。気持ち悪い。
「う、ゲェっ! ぐ、ご、おごっ」
吐いた。
吐いても、気持ち悪い。拷問だこりゃ。
脳みそがクラクラする。なのに、なんで止めを刺しに来ない。
なんで来ない。隙だらけだろうが。
近づいてこいよ。そうすりゃ、やりようもあるのに。
この現象の原因は何だ。
何故一歩も近づいてこない。
隙がない。
吐き気をこらえながら、輪郭がぽやんとした熱源としての視界と、普段の視界を並行して使用する。
あいかわらず渦巻いている、馬鹿になった視界の方に集中すると、ソプラノお嬢さんは相変わらず両腕を広げて、こっちを見下しているのが分かった。
だが、それだけだ。それ以外のことは、していない。
ただ虫けらを殺すかのように、さっさと僕を殺したいとそんな感情がありありと窺えて、思わず背筋が冷えた。
なんだ、こいつ。
僕は何をされている。
やっべ。
どうしよう。
――がんがん、ぐらぐら、げろげーろ。
ここまで気持ち悪いのは初めてだ。ビビる。
……冷静な振りでもしてなきゃ正味な話やってられない、そんなあまりと言えばあんまりな不快さ。
そんな呑気さを、脳みその一部に無理矢理装わせながらも、身体は正直なもので、また吐いた。
吐瀉物に血が混じっているのを見て、精神的にも中々キて、冷や汗が出る。
未だにソプラノは、あの珍妙きわまるポーズ……いや、サリア教のシンボルでも模しているのか、いずれにせよヘンテコな格好で、こちらを見下ろしている。
その瞳は胡乱気で、けれど確実にこちらをゴキブリ扱いしているような視線であるのは疑いがない。
口は軽く開閉を繰り返し、何事かを呟いている……何かの魔術? であるとしても、こんな状態を引き起こすような変化は分からない。
そもそも、洞窟内で大掛かりな魔術など出来ようもない。単純な衝撃、熱、他の一般的な魔術に照らして考えれば、自分に被害が及びうる狭い場所での詠唱は賢いとは言えないだろう。
なら、一般的でない魔術なのだろう。そこまでは分かる。
そこまでしか分からないから、それがクソの役にも立たずに現状、僕は這いつくばっているのだ。腹立たしい。
「…………」
ソプラノの声は、聞こえない。詠唱であるなら、マナに、すなわち世界と繋がる必要がある。もっと大きい発声が要るはずだ。
つまり、もそもそ小声で訴えたって、世界は聞き入れてくれやしない。
ローグのように、呼吸で特異な魔術を編んでいるのだろうか。
「うえっ」
ビシャビシャと、吐くものも無くなった僕の口から、水っぽいものが飛び散った。
血。
先ほどのゲロに混ざっていた、濁りのあるそれと違い鮮血と呼ぶに相応しい色味は、それが肺から零れた喀血であることを示していた。
身体へのダメージが蓄積している。
「…………!!」
ガロンさんが、こちらに向かって何事か叫んでいるのは分かるが、聞こえない。
ぐらぐら、ぐらぐら。頭の中身が揺さぶられている。その感覚が、彼女の声を聞くのを、邪魔しているのか。
とりあえず、僕よりかは断然元気そうな事が分かった。
ホッとは、しない。したら、気絶しそう。そして恐らく、そのまま死ぬだろう。
……ティア様の力は、そこまで都合良くはない。そうなれば、ただ僕は、無様にまさしく死ぬだけ。
……ソプラノは、未だに近づいてこない。
何故。
どうして。
『疑問と回答を繰り返すことで、真実に近づくことができる』。
これが自分の出発点だ。
理解しろ。自分は今、何をされている?
「……! ……!!」
ガロンさんの叫び。空気が、震える。
でも僕は、彼女の声を聞く事が出来ない。
ガロンさんが、縛られたまま、必死にこちらに近寄ろうともがいている。
ああ、貴女はそんなことをしてはいけない。
無様に這い回ってはいけない。
そんなことは、僕の仕事なのに。
持ち上げる神輿が汚れてしまっては、祭りの民は興ざめじゃないか。
僕が愛するに相応しい、あの誇り高さ。娘らしさ。愛らしさ。優しさ、厳しさ。純粋さ。美しさ。
ああ、泥にまみれても美しいからこそ、そんな目にあわせたくなかったのに。
君らは、魔族達は美しくて。
目が焼かれそうな位に美しくて。
何故、貴女たちは美しい。
何故、今、僕は彼女の美しさを損ねている。
何故、今、僕は彼女の美しい声を耳に入れる事が出来ない。
ひひひひひ。関係ない?
いーや関係なくはない。
彼女たち、僕、魔族、使徒、美、惨め、不快感、嘔吐。
時間、匂い、空間、振動、熱。
味、距離、夢、詠唱、音。
痛み、圧迫、マナ、数、質、教育。
過去、現在、未来。
全部、全部は因果性だ。一があって、二ができる。それからはじめて三になる。
今僕が考えている散乱した思考だって、理由がある。きっとある。そうでなければ、死に瀕している僕の脳みそはいざって時にまったく使えない奴になってしまう。
僕自身に分からないから真実ではないなんて、神様しか言えやしない。
そして僕は神様が嫌いだから、僕に物申せるのなんて一人もいない。
僕は疑わしい僕を信用しないが、使用する。
僕に分かることだけで、僕の世界は僕の前にある。
僕に分かる情報だけで、僕はこの現状を打破できる。
ほーら、僕。考えてみろ。
……詠唱の可能性は、消えていない。むしろ高い。
理由の一。皮膚に地面以外の接触はない。不可視の武器の可能性は極めて低い。
理由の二。内臓は走査済み。毒の可能性はない。
理由の三。止めを刺しに来てない。今なら確実に殺せる。僕はもう、立つこともできない。集中を要する魔術なら、この状況はあり得る。
……こんなふざけた現象は、きっと魔術か、それに類するもの。つーか時間がない、死にそう。
とりあえずこれで仮定する。外れたら諦めよう。次。
魔術に必須なはずの、詠唱が聞こえない理由は?
仮説の一。そもそも詠唱してない。ローグのように、詠唱以外を触媒として魔術を使用? そもそもが非常識な前提だが、不明。前例はあれど、可能性低。
仮説の二。詠唱しているが、聞こえていない。あるいは詠唱そのものが……。
……あ、これかな。
となると、聴覚へのアプローチ?
ガロンさんの声が聞こえていないのも、これ?
三半規管は……あ、ダメージおっきい。仮説の二を支持。
……ティア様。内耳付近の精密検査お願いします。
……あ、やっぱり? 耳から入った魔力で、乱されているっぽい? 微小精密な、魔力による振動操作?
つまり、音か。かあ、えぐい技使うもんだ。
……音、つまり、空気の振動……広域魔術の一種だが、エネルギーが小さいからかな、指向性を持たせることもできるのか。洞窟内だからこそかも。
どのみち最初の仮定、詠唱じゃあないってのに捕われてたら、ヤバかった。
ガロンさんを攻撃してない理由は……人質だから?
僕に対しての人質か、それとも元々彼女を攫ったのには、命以外が目的だから、生かしておく必要がある?
……いいや。そこらへんは、じっくり吐いてもらおう。
僕だって散々げろげろ吐いたんだ。でないと不公平である。
「うべっ」
口の中の汚物をひとはき、霞がかった視界の中、もう一度全力を振り絞る。
ようやく捕食者から敵に変わった、ソプラノを、重くなった頭を持ち上げて、見上げる。
目の前の男がただの被食者だと、未だに獲物のままだと信じている小娘を見上げる。
畜生、まだ見下してやがった。
何が使徒だ、御大層な名前しやがって。その不遜なツラ、表情を塗り替えてやる。
僕は男女平等主義者だぞ。
見てやがれ。
……きっと聞こえなかっただろうが、僕はぼそりと呟いて。
……南無三、やっぱり痛いのはやだなあと思いながら、両耳に人指し指を突っ込んだ。
指が、本来届くはずのない耳の奥、そのまた奥。
耳掃除をする時でさえ到達しない、ある種未開の部分。
少し耳かきを差し込み過ぎた時でさえ鳥肌が立つというのに、こんなことをする羽目になるなんて。
デリケートで、人の五感の一つを司る重要な器官。
それを自分で蹂躙する羽目になるだなんて。
……ああ、痛みはまだこない。先ほどまであった嘔吐感が吹き飛ぶ、空白の時間。
やがて襲い来る痛みに対しての覚悟を決めるために与えられた、僅かな時間。
じんわりと、血液の集まっている頭部特有の温かさが、両人差し指にじわじわと伝わってきて、それに気付くと同時、心臓の音がとくん、どくんと自己主張してくる。
ただ、悪口雑言の類なら無視すれば良かった。
でも、鼓膜を震わせることがこの魔術を媒介しているのなら、僕に取れる手段は限られている。何より、選択肢を探す時間すらもう無かった。
ぬるり、とした感覚が、爪の根元に到達したのを感じる。
畜生、くそう、みっともない姿は出来れば見せたくない。ガロンさんにも、……目の前にいる女にも。
でも、駄目だ。
この感覚、ああ、襲ってくる、痛みが、耐えきれないのが、来る……!
直前、出来る限り痛みをかき消せる叫びをあげようと、横隔膜が自然に動くのを感じた。
「ぐ、があああああああああっ!」
こんな目にあわせやがって。
許さねえ。
声だけでなく、体も拒否反応を示しているのか、鼻水が止まらない。
じんじん、じんじんと熱と痛みが、脳の横を暴れまわっている。
「ぐ、があ、はあ、はああああ、はあっ! はあっ! あーあぁぁ……!」
いてえ。奴隷時代にもこの手の痛みは味わったことがない。
こいつ、許さねえ。
――眼下の男を、ソプラノはじっと見る。
正直に言うなら。
他の使徒の持つ能力……ギフトに比べれば、自分に与えられたそれ、この魔術の殺傷力など比べるべくもなく弱い。それは知っている、気づいている。
ローグ先輩のように、圧倒的な殲滅力を持つ単純な熱による広範囲の焦土化。
ココ先輩のように、一か八かといえど、格上、あるいは多人数、そういったものに関係なく殺害できる恐怖の術。
イヴ先輩のように、人の域を超えた汎用性を持つ、ある種不敬と取られかねないが神様に近づきうるような、そんな異能。
そんなものは、自分にはない。
だけど、音とは。
剣より早く届き、鞭より遠くまで至る。
自分の武器は、単純にしてシンプルだ。
何より、分かったところで対抗手段がないからこそ、優れた攻撃手段と言える……と、自分はそう思っていた。
他の使徒と組んでの戦闘サポートなら、自分の魔術は誰よりも優秀だと思っている。
戦っている途中に耳をふさいで、そいつは一体何ができるというのか。
ニーニーナ先輩が意図して時間稼ぎをしていたかどうかは知らないが、この男と話している間に、既に詠唱の準備は済ませていた。
音が自分の攻撃手段。
それが知られるのは、構わなかった。そんなことは、タフな魔族を相手取る時はしょっちゅうだ。
だけど人より優れた聴覚を持つものが多いあいつらは、その自らの丈夫さを恨むだけで、長く苦しむのみ。
私の術だって、神様からのプレゼント。
たかが普通の人間が抗えるものではない。
本当は、もっと単純な攻撃手段を使うべきだったかもしれない。人間の体ほどもろければ、単純な振動だけで破壊することも、無理ではない。
でも、その選択肢を選ばなかったのは。
魔族に対するように、まず徹底的な弱体化、あわよくばそれにより苦しみ悶えて死んでほしいと、実際趣味に合わない残酷な手段を選んだのは。
目の前の男から聞こえる、不快な音。その所為だ。
ニーニーナ先輩は、気づかなかったって言った。
ローグ先輩も気づかなかったらしい。彼はそもそも、リリィ先輩に怒られて、本気で暴れられなかったのが敗因だろうけど、でも、きっとこいつの本当の異常性に気づいてない。
だって。
だってこいつからは、人間の音がしないのだ。
だから、ほら。
「があああああああああああっ!」
人間が、こんな手段を取る筈がないじゃない。
「はあっ、はあ……、うう、うー……!」
ナイン、この男の、先ほどまでの狂乱めいた悲鳴も鳴りを潜めて、そこで私は自分の体が僅かに震えたことに気づく。
もう、音による身体内部への攻撃は、届かない。媒介手段がなくなった。
まずは距離を。自分の有利、射程の長さを活かすために……!
そう思い、一歩後ずさった瞬間。
その音が最早聞こえるはずもないのに、耳から血を流し、下を向いたままのナインが、顔を。
その両眼を、こちらに向けた。
「……ねえ、踊りましょ?」
「……は、あ?」
「ダンスのお相手、お願いね? ソプラノ、ちゃあん……?」
その、おぞましいほど優しげで、切れ切れな猫なで声を聞いた瞬間。
自分の体は勝手に、全力で、そいつから離れた洞窟の壁際から外に向けて駈け出していた。