ナルシシズム
夕食時まで、僕は行動を起こすのを待っていた。
というのも、ガロンさんの部屋に行くのは無論禁じられていたので、パパママとお話しする機会がそのタイミング以外に無かったからだ。
こっそり警戒を潜って行こうだなんてのは、人狼の鼻を過小評価した行いである。出来なくはないかもしれないが、ご両親のいるお家で娘さんに夜這いじみたことをするのは何となく憚られたのだ。
やるなら堂々とさ。
ね? そだよね?
……んくふひひ、後ろめたいことなんか、数え切れないほどあるんだから、こんな道理を持ち出すのは、今更ではあるけれど、ねえ。
しかし、ともあれ、そのように僕自身の好みによって、ガロンさんとお話しするのは夕食後と勝手に決めていた訳だ。
その間、結局部屋に戻ってきた後も、ずうっとモジモジしていたピュリアさんを眺めながら時間が過ぎるのを待っていたのであった。
されど無論空気の読める男でありたい僕なので、様子のおかしいピュリアさんに対して「もしかして、もしかしてだけど、ガロンさんと喧嘩しちゃったの?」とか、「またお手洗いですか? ちょっとおトイレ近すぎません? そう言やハーピーって鳥みたいに総排泄孔あるの? こないだちゃんと見とけば良かったにゃあ」とか、そんなデリカシーのない言葉は口にしなかった。
実は聞きたかったけど聞かなかった。
まったくもって、警戒心が薄かった時にじっくりまるっと見とけば良かった。
閑話休題。
すなわち現在、夕食時である。
なんか居心地悪そうにもそもそとご飯を啄ばんでいるピュリアさんに、ママンが声を掛けたのを、最早机も与えられず、床に座って食べる僕の耳が捉えた。
「ところで、娘の事なのだけどね」
まさしく切って落とされる火蓋の具合だ。
「結局、態々城から迎えに来て貰った貴女には無駄足を踏ませてしまった形になって申し訳ないけれど、家に残すわ」
「はあ」
気の抜けたピュリアさんの返事を受けて、ママンが続ける。
「手続きとかは後でサジェスタ家のご令嬢とやり取りするから、貴女は特に心配しないで。貴女の話を聞いた上でこちらが判断したことですし、彼女には貴女がちゃんとお仕事をしてくれたことを伝えておきます」
「いえ、そんな。お気遣い無く」
……くひ、くふひひん。
「……それにしても、寒波が来る前に話がついてよかったのかも知れないわね。まだ今の時期なら、城に戻るのもそこまで苦じゃないでしょう?」
「ええ、さいですね」
ここに来る時も十分危険でしたけど。
「まあ、今日はゆっくりなさい。送迎が出来ないのは心苦しいけれど、明日の朝は天気も良さそうだし、是非うちの領土を空からじっくり楽しんでもらえれば」
そろそろ待ったをかけないと不味そうだ。怖いけど、やらざるを得んだろう。
「すいまっせェん」
そう、声をかけた瞬間である。
ある程度の予想でもあったんだろうか。今まで沈黙を保ったまま食事をかき込んでいたパパン……ヴァーミリオン卿が、即座にこちらに視線を向けてきた。
全く剣呑な気配を漏らしつつ、だ。
やめて欲しい。漏らしそう。
僕は小心な男なんですよ。
そんな目を向けられると、このお高そうな椅子にマーキングしちゃいますよ。
「テメェに発言を許した覚えはねえぜ。飯と屋根があることに感謝して、とっとと上にあがって寝ろ。明日お前は面見せねえで良いから、とっとと失せろ」
冷たいでやーんの。
しかしこんな事態は予測済みである。
僕は、彼を怒らすであろう言葉を伝える為に、口を開いた。
……まあ、この後のやり取りは省こう。愉快な話じゃないし。
ただ、熱意をもってお話したところ、ガロンさんと「お別れ」をする時間はくれるとのこと。
……最期のお別れだってさ。ガロンさんとのお話が終わったら、散々無礼を働いた罰に、明日の食卓にあげられてしまうらしい。
無論、僕が。
へーん、だ。何が無礼さ、身に覚えなんざないっつーの。
そんなもんシカトだい。ガロンさんとピュリアさんと、僕は無事にお城に帰るのだ。
そうホイホイと人間が死んでられるかっての。そんなことは一度でいいのだ。
結局こんなんはまあ、どうでもいい話。
これらのやり取りの中で一番心に残しておくべきは、ピュリアさんの僕の助命嘆願の必死さだけですぅーっと。
……ああ、小鳥さん。小鳥さん、かわいかったよう。
それこそホントの小鳥みたいにピーピーと泣き喚いて、許してやってください、許してやってくださいって。
しまいにゃ、不意打ち一発。
黙らせる為にママンが魔法で眠らせちゃった。人狼は割と魔法が苦手って聞いてたけど、優秀な人らしいからね。前にガロンさんがそんなこと言ってた。
でもさ、あん時のピュリアさん、すんごくかーわいいの。かわいかった。僕のためになりふり構わないって様子がまた、ほんとにさ。
もし、万が一貴女にパパンママンが乱暴を働いちゃったら、大惨事になっちゃうから、ヒヤヒヤしながら見てたけどさ。
大丈夫だよ。人間死にゃあしないよ、そんな簡単に。いやまあ、殺されちゃうってなら話は別か。
殺されちゃっても。殺させないように。
……殺伐としてるなあ、殺す、殺す、殺す、か。
気安いこと。随分命ってなあ軽いもんだね。他人のそれなんてさ。
いや、人間の、か。
剣呑、剣呑。
……でもねえ、小鳥さん。貴女の言葉、嬉しかったけどさ。
許して、やって、ください……ってよ。
誰が僕を許せるんだろね。
僕は未だに、結局、だぁれも許せていないのにさ。
まあいっか。
諸々含めて、「まあいっか」の一言で状況を整理し、僕はガロン母さんの部屋の前に立った。
与えられた時間は、十五分。
たったの十五分。
この十五分で、彼女を僕のモノにしよう。
完膚なきまでに。
――いつもどおりに、ノックを三回。
コンコン、少し空けて、もう一回、コン。
城でガロンさんと会うときに、僕がいつからか一方的に作り出して、彼女に受け入れてもらっていた、暗黙の了解。
僕と彼女の、絆の一つである。
「…………」
返事はない。これは、いつもと違うところ。
彼女はいつだって、僕がこの合図をすると、ぶっきらぼうに「入れ」と言ったものだった。そこで僕が恐る恐る扉を開けると、腕を組んでそっぽを向いていて。
それでいながら、尻尾をゆっくり左右に振って、内心を教えてくれていた。
いつもと違う場所、いつもと違う状況で。
そんなことを思い返しながら返事を待つが、やはり彼女は沈黙を守り続けた。
いつも来ていた返事が、今日は来ない。それは、少しだけ残念な気分だった。
扉の向こうで、今ガロンさんは、いったいどんな顔をしているんだろうか。
推測はできる。
得意分野だから。
自分のそんな、他人を推量してやり過ごす卑屈さこそが、僕を今まで生かしてきた能力だからこそ、それを恥じる気は毛頭ない。
でも、推測はどこまでいっても真実にはなりえない。だから人はいつだって、それを追い求める。
特に誰かとの関係性においては、自分の小心を、不甲斐なさを、厭らしさを、内心で弁護しながら、保証と、それに担保された安心を求めるのだ。
自分は悪くない、自分には知る権利がある、この行為は正当である、そう繰り返して、他人の聖域に土足で踏み入る。
そして、そんなことを思う僕も所詮は人間、つまり例外ではなく自己中心的な存在なので、入りますよ、と声を掛けて戸を押し開いた。
……鍵はかかっていなかった。
初めて入ったガロンさんの部屋の中は、暗かった。
彼女の無言の抗議だろうか、あるいは察しろという意思表示か、それとも甘ったれていることを、看破してほしいのか。
まあ、どれでも構わないのだ。やることは決めている。
今日、彼女を僕のものにするだけだ。
後、十二分で。
「何しに来やがった」
「何しに来たんだと思います?」
第一声が、そんな言葉だったものだから、思わず僕も鸚鵡返しである。
無論彼女は、そんな僕の返事に苛立ちを見せて、こう続けた。
「もう顔を見せんなって言っただろ」
ベッドの上で、三角座り。
膝に顔をうずめたまんま、彼女はぼそぼそとそう言った。
「そんな言葉は、顔を上げてから言ってほしいなあ。お美しい顔が見れなくて寂ちいなあ」
「うるせえよ」
「そんなお下品な言葉ばっかし使ってぇ。そんなんじゃ、いつまでたっても淑女には程遠いですよん」
「……るっせえ」
……ふむん?
「パパンが貴女のこと、ちゃんと娘として見てくんなかったの、今みたいな貴女の頑固さにあるんじゃないの?」
「……」
「親だって、貴女の気持ちなんか分からないよ。言葉にしない限りはさ。本当は、可愛いお嫁さんに憧れてたんだろう?」
「……黙れって」
「貴女は気づいてないかも知れないけどね。自分の内心を分かってくれって、割と無茶な相談なんですよ。世の中のほとんどの生き物はね、泣いて騒いで、恥も外聞もなく喚いて、自分の意見を伝える努力はしてるんですよ」
貴女は強くて、誇り高いから、そんなことが出来なかったんだろうけどね。
でも、いつか限界は来る。
そして、当然それが来た。
たまたまそれが、今だったってだけの話。なんにもおかしなことはない。
ガロン・ヴァーミリオン。遅れてきた反抗期の娘っこやい。
今こそ君、一番みっともない姿を晒してることに、自覚はあるかい?
「……」
ここまで言っても何にも言わないガロンさん。
……『彼女らしくない』。それが嘘偽りない本音だけれど、彼女は先日この言葉に過剰に反応した。つまり、コンプレックスがそこにあるのだ。
……つっつくしかないよね。彼女を僕のものにしようというのなら、そういった部分こそ、ぺろりと受け入れてあげねばね。
でもなあ、ほんとのことって、他人に口に出されるのって、結構不愉快なもんだよねえ。
……人の嫌がること、僕は、嫌いなんだけどさ。
あーやだねやだやだひひひ。
よっしゃ、やんべ。
「ねえ、諦めんの? そこでそんな陰気な面して引きこもってたって、肥えたおっさんしか貴女を貰ってくれませんよ? お家の小道具に使われるの、貴女が一番嫌がってたことじゃないですか」
「…………!」
「王子様待ちのサンドリヨン気取りかい、お母さん。あんまり愉快な真似するもんじゃないよ。笑っちゃいますぜ、貴女らしくない」
言っちゃった。
俯いたままの彼女は、予想通り、彼女はこの言葉に反応して、毛を逆立てた。
思わず、彼女に聞こえない程度に、笑いが漏れた。
――――――――――
「オレ、らしくぅ……?」
――そう、ポツリと呟いて、ゆっくりと、ガロンはようやっと顔を上げた。
「お前がオレの何を知ってるってんだよ」
「何って、そりゃあ……」
そう言って、ガロンの眼前に立つ人間は、言葉を切って俯いた。
その様に、苛立ちを隠さずに人狼は言葉を繋いだ。
「……考えてみりゃ、元々おかしかったんだ。そうさ、おかしな話だった」
「何がさ」
顔を下に向けたまま、だが思いのほか素っ気なく帰ってきたその返事に、ガロンは声を荒げぬよう、しかし悪意を隠さずに続ける。
「なんでオレが、人間なんかと馴れあってたのかってことだよ」
「今更何を仰いますのん」
今更。
そう、こんな疑問は、もっと早くに持っておくべきものだった。
何故自分は、人狼のガロン・ヴァーミリオンは、この人間に固執していたのか。
……何故ガロンという女が、ナインという男に執着していたのか。
こう言い換えるのは、場に相応しくもなく、現在にそぐわない感情を呼び覚ましそうなので、敢えて意識から外した。
疑問……そう、疑問の話。人狼が、人間を、ええと、大事にするなど。
常識的に、あり得ないはず。そんな当然の疑問を、自分は最初にきちんと持っていた筈だった。
……初めて会った時には、すぐ死ぬと思っていた。いやな臭いがする、とも。
次に会った時は、エルに嬲られて、今日死ぬと。
アロマに教育係を押し付けられて、その時は、ひどく気に入らなくて。
それから……それから。
妙に馴れ馴れしくて、苛立って、「先生」だなんて呼んでご機嫌取りしやがって、それが意外と悪くなくて。
……後ろから、声をかけた時だ。「母さん」だなんて、言い間違いだったのかもしんないけど、その響きが存外悪くなかったなんて、ああ、それの所為もあったんだろうか、初めてこいつに童話を読み聞かせた、あの恥ずかしかった行為が、夜、寝床で何度も自分を苛んだ。
恥ずかしかったのに、悪くないだなんて、そんな。
……みっともない格好をして、傷だらけの体を晒していたコイツに上着をくれてやった時は、自分のことを良い匂いだなんてぬかしやがって。
自分のことを何故恐れないのか少しだけ気になって、でもなめられるのは我慢がならなくて、殺そうとした。
なのにこいつは投げやりで、折角こっちが時間をとって色々教えてやってんのに、自分は死んでもいいなんて言うから、腹立たしくなって。
ああ、それから、それからも色々あったが、それでもコイツとの付き合いは、そこまで長いわけじゃない。
ならば、そう、またあの疑問の話だ、違和感と言ってもいい。
人間、人間……この生き物に対する憎悪、それをどこで自分は手放したのか。
……そこまでは、覚えていない。
思考が及ばないのか、覚えていないのか、考えたくないのか。
あるいは、それ以外か。
ぼんやりと、思考の一部がその疑問を繰り返し己自身に問い続けるのを自覚しながら、意識的に目の前の男のことを思惟している。
意識的に、睨みつける。
……そう、経緯は別に、そこまで重要でもないのだった。
それこそが、本当に、今更の話なのだから。
「元々がおかしかったんだ。だから、ここで元に戻す。オレは、ガロン・ヴァーミリオンに立ち返る」
「……貴女以外に、ガロンさんはいませんよ?」
ほら、こんな言葉、平気で、平気で口にしてさあ。
恥ずかしげもなく言いやがってさあ。
……短い付き合いだったが、ナインは、オレのらしさをきっと、知っていてくれたんだ。
……けれど。
重要なのは、今、自分がコイツの傍にいてはならないと、あの気に食わない鳥娘の発言に自分は納得してしまったと、そういう話なのだから。
自分は、コイツと別れねばならない。
だって自分はもう、コイツに死んでほしくないから。
そんな風になってしまったから。
「本質の話だ。オレは人間を殺す人狼で、お前ら人間は殺される餌だ。オレはここで、ヴァーミリオン家の者として、務めを果たす」
「……好きでもない男の子供を産んで、ここで一生を終えるの? それが、母さんの望みなの?」
「……! 黙れ! オレは、もうお前なんざどうでもいいんだ!」
たとえ目の届かない所であっても、死んでほしくないから。
「オレはな、人間。お前の面なんかもう一秒たりとも見たくない」
短慮な自分には、コイツを護る力なんか、もう、ないから。
「今度こそママゴトは終わりさ。もう二度と会うこともねえ。精々お嬢に尻尾振って、長生きするがいいさ」
たとえそれが、自己矛盾で、同一性の乖離で、無為そのものであって、馬鹿な行為であっても、自分にはもうこれしか。
これしか残ってない。
ヴァーミリオンを捨てたら、自分にはもう、何も残ってない。
だから自分は、こうするしかない。
結局、そういう話なのだ。
……ただ一つ、たった一つだけ恨み事を言うなら。
「話は終わりだ。殺されたくねえなら、とっとと失せろ」
オレが、オレらしくなくなっちまったのは、きっとお前の所為なんだよ、ナイン。




