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レイニィレイディ

作者: 風間ゆうき

 

 雨が降っている。ざあざあとアスファルトを叩く六月の雨。排水溝に流れ込むはずが、車道に出来上がった歪みに滞留して、所々に即席の小池を形成している。しばしば通り過ぎる自動車が、そこから不定期かつ断続的に水滴を蹴り上げていた。一瞬の枯渇と一瞬の再生。


 水溜まりにどことなく輪廻性を感じる。


 その脇、縁石に区切られた歩道の路傍で、僕はふとそんなことを思った。溜め込んだ水を失い、瞬く間に同じだけを湛える雨の日の水溜まり。その様に不変的既視的なループを感じた。デジャヴの仕組みを見た気がした。


 雨の日はループに満ちている。渇いては満ちる水溜まりのループ。フロントガラスを行き来するワイパーのループ。畳まれ、開かれ、また畳まれる傘のループ。ざあざあ、ぱらぱら、しとしとと耳で捉える音すらが奏でる擬音のループ。

 雨の日にだけ現れるそんな日常のループに紛れて、もう一つ。雨の日にだけ現れる事象が、近頃の僕は気になって仕方がなかった。


 ──いた。


 車道を挟んで向こう側の歩道の路傍。腰まで届こうかという長い黒髪が印象的な女性が佇んでいた。傘も差さず、ただただ上空に横たわる雨雲を眺めながら、ひたすらに佇んでいた。


 日曜日だ。


 今日の僕は、彼女に気を取られながらもここを通り過ぎる必要はないのだ。それに、そもそも用事などなかった。僕は今日、外に雨を認めたその瞬間から、彼女に会いに行くことを決意したのだから。


 その女性を最初に見つけた日を僕は覚えていない。ある日デジャヴのような感覚と共に気づいたのだ。まただ──と。雨の日に、また彼女がいる──と。それに気づいて以来、僕は密かに検証を開始した。雨の日は、必ずこの道を通ることにしたのだ。

 そして知った。


 雨が降ると、彼女は決まってそこで雨雲を見上げていることに。傘も差さず、長い黒髪を雨に濡らしながら、ひたすらに佇んでいることに。


 雨のループに紛れて立ち尽くすその女性は、流れる日常から取り残されたみたいだった。いつもいつも雨の日にだけ、彼女は路傍の石を演じるのだ。そして今日も……。


 僕はいつしか、彼女に話しかけるチャンスを探るようになっていた。気にかかっていたから。もしも彼女が佇む理由がわからぬまま、いつの間にか彼女が佇むのをやめてしまったら、この内側にこびり付く彼女という存在への興味に収まりが付かなくなってしまいそうだから。

 本日、良き日に雨は降った。


 よし。


 決意を一つ。それを胸に僕は、二人を隔てる車道を横切った。




 ──あの……、すみません。


 どきどきしながら声をかけた。部屋着みたいに飾り気のない彼女のシャツは、ぐっしょりと濡れて肌に張り付き、下着のラインがくっきりと浮かび上がっている。


「え……? 何か御用でしょうか?」


 振り向きはせず、しかし幾分か驚いたように彼女は応えた。透き通った声。初めて聞いた彼女の声は、予想以上に綺麗に澄んでいた。


 ──傘、ささないんですか?


「はい。傘をさしては意味がありませんから。」


 ──意味?


「はい。雨に打たれなければ、意味がないんです。私にとっては。」


 ──どうして……?


「それは内緒です。」


 切れ長の目は空を見上げたままで、唇の前に人差し指を添えて秘匿の仕草。ずぶ濡れで不可思議な印象ばかりだったが、その動きは少女のようで可愛らしかった。




 ──雨が好きなんですか?


「うーん……、どうだろう……? そんなの考えた事もなかったな。」


 ──そうなんですか? それは少し意外ですね。


「そう? じゃああなたは? 雨好きですか?」


 問い掛けの時すら瞳は雨雲。まるで空に語りかけるように、彼女は言葉を紡ぎ出す。


 ──僕は……。


 どうだろうか? さした傘を叩く雨音を聞きながら少し考えてみる。答えはすぐに思いついた。


 ──嫌いじゃないですね。音も好きですし、ワイパーが水滴を払って視界がひらける瞬間とか、部活も雨だと早めに終わりますし。


「そうですか。」 


 ──はい。


 と。そこで一旦会話が途切れた。


 僕の位置からでは彼女の横顔しか見えないけれど、それだけでも凄い綺麗な人だと僕は思った。遠くからじゃなくて、こうして間近で見る彼女は、雨濡れする姿が色っぽくて、華奢な体でそうしているのが危うくも感じて……。


 雨止みの気配はない。彼女はいつまでその肢体を雨水に晒すつもりなのだろうか。


 ──風邪、ひきますよ?


「心配してくれるんですか? ふふ、優しいんですね。」


 横顔でにっこりと破顔する。優しげに細められる目と、緩む頬。美しい微笑に僕の鼓動が不意に高鳴った。


「でも大丈夫ですよ。ありがとうございます。」 それよりも、と彼女は付け足した。


「私なんかに構っていたら、あなたこそ風邪をひいてしまいますよ?」


 ──いえ、それこそ無用な心配です。僕は傘をさしていますし、服も濡れていませんから。


「おや、そうですか。うーん……、でも、やっぱりダメですよ。こんな雨の日に雨晒しなんて。私じゃないんですから。本当に、私なら大丈夫ですから。行ってください。」


 優しい声色で、だけどはっきりと僕の干渉を拒む感じだった。だから僕はそれ以上の会話を諦めた。


 ──じゃあ、僕行きますね。


「はい。お気をつけて。」


 別れを交わして、彼女を通り過ぎる。一歩二歩三歩と遠ざかり、八歩目で一度だけ振り返ってみた。ざあざあと雨粒が降り注ぐ中、依然として彼女は雨雲を眺めていた。






 翌日、月曜日。まだ雨は降り続いていた。学校に行くまでの道の途中、あの場所によると遠回り。立ち寄るならば下校時だなと、朝方の曇り空を眺めながら考える。


 ──雨よ止むな。


 空に向けて呟いて、僕は足早に学校を目指した。

  

 帰り道、晴れの日は通らない道筋をたどりながら、僕は歩いていた。傘をさしている。アスファルトに音が響いている。続いてくれた雨のループ。昨日と同じく、僕は彼女へと歩を刻んでいた。会いに行って、別れて、また会いに行く。これもまた、雨の日のループか。


 ──こんにちは。


 間もなくして、そこに到着した。


「え……? はい。こんにちは。」


 やはりいた彼女。昨日とは違う服だ。ちゃんと着替えているんだと思うと、少しだけ安心した。でも、ずぶ濡れなのと、振り向きすらしないのは、昨日と同じだった。


 ──今日もいい天気ですね。


「ふふ、なかなか皮肉なご挨拶ですね。今日も何か御用ですか?」


 ──どうして雨の日はこの場所に来るんですか?


「うーん……、それはちょっと違います。雨の日に私がここに来るんじゃなくて、私がここに来ると雨が降るんです。……だから、雨の日を選ぶんです。」


 ふと、真剣そうに雨雲を睨む。


「私、雨女ですから。」


 彼女はその目で何を見ているのだろうか。雨雲ではない、雨粒でもない、もっと別で、もっと重要なものを見つめている気がする。


 ──じゃあどうして、この場所に来るんですか?


「それは……、内緒です」


 ──そうですか。


「はい。」


 と、会話が一区切り。そう感じた矢先に。


「あなたは……」


 と、彼女から予期せぬ二の句が零れた。


「あなたはどうして、私に構うんですか?」


 不機嫌の表象ではなく、純粋で素朴な疑問のようだった。横顔が少しだけ思考の色を映し出している。 


 ──それは、何というか……。


 ちょっと恥ずかしさがあった。“気になってたから”と言うと別の意味に捉えられてしまいそうで。しかしそれ以外の理由も思い付かない。


「何というか?」


 促される。僕はそうされると少し焦ってしまうたちで、頭に浮かんでいた本音がついもれてしまった。


 ──その、何ていうか……、気になってたから。雨になるといつもいるし、いつも傘さしてないし。その、身体とか大丈夫なのかなって。何でそうしてるんだろう──って。


「そうなんですか。ふふふ、やはり優しいですね。」


 ──いえ、そんな。そんなこと。


「そんなことありますよ。私なんかを構いに二日もなんて。優しさじゃないなら酔狂ですよ。」


 ──それは、ええと……。


「思うのですが、もし、明日も雨で明後日も雨で、雨で雨で雨で、毎日が雨になっちゃったら、あなたどうするんですか? 毎日ここに来るんですか?」


 ──それは……、そうですね。来ますよ。毎日。


「ほら。」


 ──え?


 一瞬、その弾むような声とともに、彼女がこちら側に振り返るのではないかと期待してしまう。


「やっぱり優しい。」


 しかし、あははっと横顔で可笑しそうに相好を崩しただけで、彼女の眼差しがそこから動くことはなかった。本当にずっと、彼女は空を眺めている。首がその位置で固まっているみたいに。ずっと。その視線の先に何があるというのだろうか?


 興味に導かれるまま、僕は彼女に倣って空を仰いでみた。厚い灰色が一面に広がっている。ぴしゃぴしゃと無数の水滴が僕の顔を打つ。


 冷たいな。と僕は思った。こんなところに佇む彼女の身体は、きっと冷えきっているんだろうな、と。


「風邪、ひきますよ?」


 ──あなたこそ。


「ふふ、心配ご無用ですよ。」


 お互いに雨雲を見ながらの会話。そんなやりとりをして、この日の僕は家路についた。

  



     × × ×




 それから、2ヶ月ほどの月日が経った。梅雨も明けて、なかなか雨も降らなくなったが、時折、天気雨とか俄雨とか、翠雨なんかになると、やはり彼女は決まってそこに佇んでいた。特に天気雨の彼女は凄く綺麗で、黒髪に輝く水玉や、陽光を受ける相貌が、いつも暗く陰っている彼女とは全然違って、僕の目を惹いた。


 ──家、近いんですか?


 ある日、僕は訊いた。


「そこそこですね。深空ヶ原の端のあたりなので。」


 空に向かって、彼女は答えた。


 ──へぇ。深空ヶ原。


 深空ヶ原と言えば交通の便も良く、高価な物件がひしめいている事で有名だ。この坂上市随一の繁華街。その端のあたりといえば、この場所から徒歩で20分といったところか。僕らが佇む路上の向こうを見れば、急に建物たちの背が高くなっているのが分かる。あそこがちょうど深空ヶ原だ。なるほど確かにそこそこの距離。


 ──じゃあお金持ちなんですね。


「それはまあ、そうですかね。お金だけは、確かに……。」


 ふと彼女の横顔が曇った。


「お金だけは、注がれていますよね。私は。」


 ──お金だけ?


「ええ、お金だけは……、ふふ。」


 不思議な感覚だった。ふふ、と。いつもと同じはずの彼女の微笑が、とても自嘲めいているような気がして。不思議だった。夏のぬるい雨に濡れたいつもの微笑が、どうしても哀しげに見えて。


 不思議だった……。


 その日、雨は止まなかった。



  台風の接近を知ったのは、その昨日のことだった。久々に見た天気予報の内容は、渦巻く雨雲の事でもちきりだった。


 僕は台風なんてどうせ逸れるんだろうと高をくくっていたのだが、彼女の微笑に違和感を覚えたその日の深夜──厳密には翌日午前4時、うるさく騒ぎ立てる戸窓の音で、それが直撃したことを思い知った。

 がちゃがちゃ、だんだん、がたがたと、騒がしさを増す擬音のループ。荒々しく雄々しく騒々しい。


 がちゃがちゃ、だんだん、がたがた──。


 ──うるさいな。


 ひとりごちる。そうしてみたところで、雨のループが途切れるわけではないのに。どうしてか、声が漏れた。騒音に追い立てられるような、恐怖にも似た不安感を誤魔化すためかもしれない。

  


 がちゃがちゃ、だんだん、がたがた──。


 依然としてがなりたてる風雨の声は、必死な訴えのようにも聞こえて、それはなんとなく悲痛な叫びなのではないかと思った。よくホラー映画なんかに出てくるような、女性が許しを請う声。助けて、助けて、と──。


 そこまで考えてふと『あれ?』と思った。女性の声が聞き覚えのある誰かの声で再生されていたからだ。雨音がばらばらと乱暴に家屋を殴りつけている。音に沈む部屋の中で、頭を掠めたさきの引っ掛かりが、僕は気になっていた。


 ──雨だ。


 呟き。引っ掛かりの正体。脳裏によぎるホラー映画の女性に、昼間の“彼女”が重なった。

 嵐吹き荒れる中、ひたすらに佇む黒髪の麗人。呆然と黒雲を眺めながら、傘も差さず、打ちつける水弾に為すすべもなく蹂躙をゆるす彼女の姿。助けて、助けて、と。天に語り続ける雨女。


 いや、そんなわけない。


 思わず浮かび出た映像を振り払うように、僕はかぶりを振った。


 台風だ。もはや避けようのない直撃なのだ。街には暴風注意報。明日には警報に切り替わるであろう状況で、そんなわけがない。そんなわけが。


 がばりと布団を頭までかぶる。騒音を防音して、予感を楽観する。眠りに落ち、楽になろうと睡魔を求めた。


 ……でも、眠れるわけがなかった。


 騒音のせいで、雑念のせいで、一睡もせぬまま、朝はきたのだ。 


 翌日──相変わらずの嵐だった。坂上市を含む一体はやはり暴風警報が発令され、登校日の今日、それが中止にされた。もちろん部活もなし。学生にとっては朗報となる連絡が回ってきたその時も、僕は彼女が気にかかって仕方がなかった。

 そして、強風の中、共働きの両親がそろって愚痴をこぼしながら職場へと出かけた後──昼間にさしかかった頃、ついに僕はいてもたってもいられなくなった。傘も持たずに嵐の中へと飛び出したのだ。


 寝間着にスニーカー、ばしゃばしゃと滞留する雨水を蹴り上げ、ずぶ濡れでわき目もふらず、ひたすらに……。ひたすらに彼女が佇んでいたあの場所へ、僕は駆けた。


 横から吹き付ける暴風を切り裂くように、力強く。前へ前へ。傾く街路樹の脇を懸命に駆け抜ける。飛来しては身を打つ水滴を砕き、雨粒に滲む世界を、僕の体が一直線に穿つ。


 一蹴二蹴三蹴。回る脚。


 まさかまさかまさか。回らない頭。


 身体を動かす焦燥感が僕の思考を過熱する。熱い息と鼓動が加速していく。疾駆する我が身が深空ヶ原へ続く道に入り、それを右へと向けた瞬間だった。横風が追い風に変わった刹那だった。


 いた!


 いつもと同じ場所、同じ佇み方で、やはりぼうっと空を見上げている。傘も差さずひたすらに。昨日の彼女と寸分違わぬ姿で。まるで変わらない昨日の彼女がそこにいる。


 ──なんで!?


 駆けながら思わず絶叫があがった。


 昨日のまま……、昨日のままじゃないか!


 彼女は着替えていなかった。おそらくはずっと、昨日僕と話してから、ずっとあそこで。


 ──どうして?


 今まででも連日の雨は何度かあった。その時はちゃんと、違う服だったのに、今日に限って、なんで……、


 ──何で帰ってないんだよ!


 一言を吼えたところで、僕の最後の一歩。疾走を終えて、ついに彼女の傍らにたどり着いた。 


 ──こんな嵐の時にまで、どうしてそうしているんですか、あなたは!


 横顔に怒鳴りつける。声が、僅かにその瞳を揺らした気がした。


 バケツをひっくり返したような、瀑布のさなかにいるような、そんな雨の中で、彼女は僕の声を噛みしめるように、少しの逡巡の色をその横顔に映した。


「待っているんです。」


 ポツリと、


「ずっと、待っているんです。」


 僕に一瞥もくれず、彼女は空へと語りだした。その声をどこへ届けようというのか、虚空に向かって一人ごちる。


 ──待ってる? ずっと……?


 僕はぜいぜいと息を荒げるばかりで、そのオウム返しの文句を紡ぐことしかできなかった。


「はい。私を捨てた両親をずっと待っているんです。」


 ──えっ……。


 虚を突かれた。絶句し、ハッとしたように僕の瞳が震えた。


「あの日──捨てられた時。その日も、ひどい嵐でした。ごうごうと雨が降り注ぐ、今日みたいな豪雨の朝。泣き虫の私は、この場所に捨てられました。捨てられた理由はよく分かりません。でも、両親には『泣くな』とよく叱られていたので、きっとそのせいなんだと思います。『ここで待っていなさい』。そう言って二人は何処かへ行ってしまいました。」


 帰ってなんて、きませんでした。


 淡々と、天へ。彼女が紡ぐ言の葉はひらりひらりと、羽のように中に舞い上がっていく。行き着く先には何がいるんだろうと、荒れる街の中で一瞬思考した。


「無理心中したんだそうです。私は保護された先の警察署で知らされました。それからの私は独り身で、親元からは関わるなと言わんばかりに毎月大金が送られるようになりました。」


 でも。


「待つことをやめることが、私にはできませんでした。いつか空から、光と一緒に二人が迎えに来るんじゃないかって、子ども心に描いた夢みたいな空想が、私の根幹にこびり付いて拭いきれなかったのです。そしてもしその時、私がべそをかいていたら、両親は呆れて帰ってしまうんだろうなって。でも……、でも、ここにいたら、必ず私は泣いてしまうから……。」


 だから、


「涙が二人にばれないように……、私は、ずっと雨の日を選んでいたんです。空を見て、割れた雲間から二人が迎えに来るのを待っていたのです。ずっと、悲しかった。」 


 ──どうして、僕に? それは内緒の話でしょう?


「ええ、ずっとそうでした。待っている人が来るまでは、誰にも言わないと心に誓った話、でした。」


 ──でした?


 過去形ばかりが連なる彼女の語り。


「ずうっと待っているうちに、段々と少しずつ、誰を待っているか分からなくなってきたのです。来て欲しいと願う人が、いつの間にか両親ではなくなっていることに、私は気付いたのです。あの二人じゃない。もっと別の人。それは、私なんかを心配してくれる優しい男の子。目も合わせないような私なんかに、いつも会いに来てくれる雨の日の男の子。青い傘と、私の近くまで来ると早足になる靴音と、澄んだ声の……、そう。」


 そこで初めて、彼女は僕の方に振り向いた。ゆっくりと柔らかに、体ごと僕の方へ。


 瞬間──。


 突如としてガッと天上から光が降り注いだ。豪雨が嘘みたいに収まり、さんさんと日が照りつける。それが台風の目なんだと気付くには、あまりにも神々しい現象で、僕は息を呑んで、輝く笑みを僕に向ける彼女に見とれていた。そして。


「私が待っているのは……、」


 それは、


「あなただったのです!」


 これ以上ないくらいの幸せそうな笑顔で、声で、力強くそう断言したのだ。きらきらと煌めく水滴に、ぐっしょりと濡れた衣服。いつもの彼女と変わらないはずなのに、全然違って映るのは、彼女が僕を見ているから、彼女が満面の笑みを湛えているから、今の彼女が泣いてなんかいないから、きっとそうなんだからだと、僕は思う。


「待っていました。あなたをずっと。そしてあなたは、やっぱり来てくれました。こんなに風が吹き付けているのに、危険かもしれなかったのに。雨の日の私に、会いに来てくれました!」


 雨の日はループに満ちている。


 雨音のループ、水溜まりのループ、傘のループ。延々と繰り返される雨のループ。それは不快ではないし、愉快でもないのだけれど、一つだけ。巡るからこそ、不意に起こるこの奇跡みたいな断絶の一瞬に、いつも見ているはずの日常の一コマが、いかに輝かしい光を放ってるのかを知らしめてくれるのだろう。


 彼女の暖かな笑みに包まれながら、僕は何となく、そんなことを考えていた。


     × × ×



  

 ──いい天気ですね。


「はい。」


 ──行きましょう。風邪、ひきますよ。


「ふふ、優しいんですね。」


 ──おだてないで下さいよ。照れますから。


「あの……。」


 ──はい?


「手を、繋いでいただけませんか……?」


 ──もちろん!











【おしまい】

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