駐車場
行列に混じってから、既に二十分が経過している。あれから百メートルぐらいは進歩しただろうか。五、六名の学生の集団が、自家用車のすぐ横の歩道を、苦もなく追い抜いていく。笑い声が閉め切った車内にまで響いてくる。
前の車のブレーキランプが消え、ほんの二メートルほど進んで、またもや点灯する。私もそれに合わせて差を詰める。後続の車にも連鎖していく。
前方は登り坂になっており、目指す図書館は小高く盛り上がった丘の頂点に位置している。道路は丘の手前付近でわずかに左にカーブし、数本の銀杏の大木に覆われて、現在の位置からでは建物の欠片すら見ることができない。そこから数珠繋ぎになった自動車の列は、推定三百メートルは続いている。
何だって、毎回同じ苦労を強いられるんだ。
幾度と無く反芻された不満が、またもや脳内に涎のように湧き出てくる。
だいたい、駐車場が狭すぎるんだよ。百台も収納できないじゃないか。いったい、一日何人の人間が図書館を利用するのか、その辺りをちゃんと想定した設計をしたのだろうか。役所はこの行列を見て見ぬふりをしている。いつまでたっても、道路の増幅工事すら着工しないじゃないか。
私は道路脇を横目で見る。道路は土手の稜線に沿って舗装されており、土手の斜面にはブラシの針のように突き立てられた竹林が視界を阻んでいる。切り落とされた路肩を見れば、増幅が困難であることは一目瞭然だった。
ずっと聴いていた音楽CDが、最初に戻って同じ曲を繰り返し始める。
オートエアコンが作動したタイミングで、油量の指針が一目盛分減る。
猛スピードで対向車がすれ違い、撒き散らされた粉塵がフロントガラスに付着する。
尿意の前兆を感じる。
喉の奥が粘っこくなる。
ブレーキを踏む右足に痺れが走る。
前の車が進み出した。ブレーキを外し、抑え込んでいたオートマチックギアを解き放つ。
ノロノロと前の車との差を詰める。
すぐにテールランプが赤く点る。
車を止める。
痒くなった右耳の上を掻く。
コンタクトレンズの隙間にゴミが入り、涙で視界がぼやける。
まばたきを数回繰り返した後、痛みは取れる。
散々見飽きた前車のテールランプから視点を外し、サイドミラーに移す。
歩道が写っている。
自転車に乗った女学生が二人横に並んで、こちらに向かってくる。
あっという間に、私を追い越していく。
思わずステアリングの縁を拳骨で打つ。
気分転換に窓を開ける。緩い風が楓の枝を揺らす音が入ってくる。しばし、私は楓の枝の動きに目を奪われる。密生した枝葉の隙間から、かすかに灰色の地が見え隠れしている。
はて、あれは舗装路だろうか。こんな竹林の中を道路が走っているとは知らなかった。
後部座席に置いてあった道路地図を取って調べてみたが、そんな道路など載っていない。
林の向こう側は広大な敷地になっていて、たった一本の道路がその敷地に侵入できるように伸びている。その道路というのは、現在地から転回して最初の信号交差点を右折し、次の交差点を更に右折した延長線にある。
もしかしたら、あの敷地は駐車場ではないのか。
もしかしたら、図書館利用者のために第二の駐車場かもしれない。
後車からクラクションが鳴る。いつの間にか、前方が十メートルほど進んでいる。
私は自動車を左側ぎりぎりに寄せ、対向車が来ないことを確認した後、道路幅一杯を使って転回させる。自動車の行列は、ずらりと私の後にも数百メートルは続いている。
ドライバー達の視線が私に集まってくるのを感じる。私はアクセルを踏み、スピードを上げる。開け放たれた窓から、気持ちの良い風が吹き込んでくる。
信号交差点が見えてくる。行列は交差点を越えても尚、向こう側へ最後尾が見えないくらい続いている。更には、他方面から図書館方面への道路に合流しようとしている自動車群もまた、長い長い行列を作っている。
私は、中央部がポッカリと空いた交差点を右折する。最初の交差点までは五、六十メートルほどだった。
行列の切れ目をくぐって、もう一度右折する。ここからは一台の自動車も見当たらない。最近、舗装されたばかりなのか、道路は漆塗りされたようにピカピカ光っていて、車線も真新しく汚れのない白色を輝かせている。歩道も煉瓦色のタイルで敷き詰められ、車道との間をブロンズ色のガードレールで保護された立派な造りだった。ただ、綺麗な道路も、歩道にも、利用者は誰も見当たらなかった。白地に青い文字の案内板が車の上を通り過ぎる。『県立図書館第二駐車場』と掲げてあった。そして、目の前に広がる広大な駐車場にも、人気は無かった。
私は駐車場に白塗りされた区画など無視し、敷地を対角線に突っ切って、図書館の建物にもっとも近い場所に車を停めた。いつもの道路だと大きな銀杏の木に遮られて見えなかった図書館の建物が、この位置からだとはっきりと見える。
階段を上がり、オレンジ色のタイル敷きの小路が、図書館の正面入口に向かって、まっすぐ伸びている。まるで玉座に向かう絨毯のようだった。小路の両脇に等間隔に立つ外灯は、ラッパを吹き鳴らす兵隊達だ。私は口笛を吹きながら、大股で小路を歩く。
その日以来、私は第二駐車場を利用するようになった。いつ来ても、駐車場には一台の車も置かれていなかった。長い行列を乗り越え、疲れた顔で館内に足を運んでくる利用客達に労いの視線を向けたくなる。
優越感と背中合わせに、なぜ、誰もあの駐車場を利用しないのだろうかという疑問も付きまとっている。誰もあそこの存在を知らない、というのも考えにくい。図書館の敷地から、あそこは丸見えなのだし、専用の道路に、案内標識まで出ているというのに、ただの一人も利用していないというのは、どう考えたって変だ。
そう考えると、何だか恐ろしく思えてくる。このまま、あそこを利用し続けて良いものなのだろうか。もしかしたら、嘲り笑われているのは、私の方ではないのか。私はいつの間にかモルモットにされているのではないか。優越感という餌を与え、喜び勇んでむさぼり食う私を、グルリと和を囲んで観察しているのだ。私の行動は、随時記録され、ファイルに保管されている。とある書庫の棚には、私に関するファイルがずらりと並んでいて、誰でも自由に閲覧が可能で、私だけがその権利を持ってない。実験目的も、記録の詳細も、書庫の所在も知らされていない。私のことを最も知らない者は、実はこの私自身であったりする。
私は読んでいた本を閉じる。何も頭に入っていなかった。借りる予定で積み上げていた本を元の棚に戻した。
外へ出た。日中は日照り続きで、むっとくるような暑さに覆われていたが、首筋には冷たい汗の感触があった。
家に帰ろうと思った。皆とは違う駐車場を目指すのが、妙に後ろめたかった。
背後に人気を感じ、私は立ち止まる。二人連れの男達が、会話を交わしながら、ゆっくりと私を追い抜いていく。
「あそこに見える駐車場ってさ」
片方の男がそう話すのが聞こえる。私は、はっとして耳を傾ける。
「いつも、がら空きみたいだけど、どうして誰も使わねぇんだ?」
「何だ、お前、知らねぇのか」
もう一人は、知ってて当然のように得意げに言う。
「あそこはな……」
その時、私の頭上に設置されていたスピーカーから、大音響で正午を知らせるチャイムが数秒間鳴り響く。
「ふーん。なるほどねぇ」
質問した側の男は納得した顔で頷きながら、私の方をチラリと見る。二人は私から遠ざかっていく。
会話の重要部分は聞き取れなかったが、これではっきりしたのは、あそこが決して秘境の地ではないということだ。確かに、皆はあそこの存在を知っており、何らかの理由があって利用を避けているのだ。私だけが、それを知らないのだ。
私は、それっきり、あの駐車場を利用するのをやめた。再び長い行列に悩まされるが、得体の知れない後ろめたさを背負い込むよりは、皆と同じ手順を踏んでいた方が遥かに安心できるし、快適に読書を楽しむことができる。
ある日、私は妻の睦美を連れて、図書館を訪れた。長い行列に睦美は愚痴の連続で、やっとの思いで館内にたどり着けた後も、まだ愚痴っている。私は苦笑を浮かべながら聞き流す。
不意に、睦美が人差し指をさす。その先には、あの駐車場が写っている。相変わらず、がら空きで、ただ一台、オレンジ色のスポーツカーが下り階段の根元に、淋しげに停められている。
「あそこも図書館の駐車場なんじゃないの。ガラガラみたいだね」
その時、そばにいた若い男が私たちの会話に敏感に反応を示す。
「ああ。あの駐車場か。あそこはね……」
その時、正午を知らせるチャイムが鳴り響く。私は、男をチラリと見た。
(了)