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濡れ衣のまま婚約破棄、一週間後には国外追放だそうです。……わたくしに時間を与えたこと、後悔なさいませ

作者: 雨夜
掲載日:2026/09/03

「エレナ・アストレア公爵令嬢との婚約を破棄する」


広間に響いたその言葉を、わたくしは静かに聞いていた。


目の前には、婚約者であるヴァルター殿下。その隣には、妹のリゼットが立っている。


リゼットは俯き、肩を震わせていた。


「お姉様に、ずっと虐められていたのです」


か細い声が広間に落ちる。


「私が殿下とお話しするようになってから、お姉様は私を憎むようになりました。人前では優しく振る舞っていましたけれど、二人きりになると……」


そこで言葉を止め、リゼットは涙を拭った。


周囲からは、同情するような声が聞こえる。わたくしは聞こえないふりをして、妹を見つめた。


そう。昔から、リゼットは泣くのが上手な子だった。


転んで膝を擦りむいたときも、母に叱られたときも、あの子はいつも同じように目に涙を浮かべた。


そのたびに、わたくしは妹の頭を撫でた。


だから、今も目の前の涙が本物なのかどうか、見れば分かると思っていた。


けれど、今のわたくしには、それすら分からなかった。


「それは、いつのお話かしら?」


「え……?」


「わたくしがあなたを虐めたという、その日のことです」


リゼットの顔がわずかに強張る。けれど、すぐに涙を浮かべた。


「そんなことまで覚えていません……。怖くて、必死だったもの」


「そう」


わたくしはヴァルター殿下へ視線を移す。

その顔を見ても、何も読み取れなかった。


朝の執務室で眠そうに書類を眺める顔も、難しい案件を前に眉を寄せる顔も、何度も見てきた。


けれど今、そこにあるのは、わたくしの知らない人の顔だった。


「殿下は、この話を信じていらっしゃるのですね」


「リゼットが嘘をつく理由などない」


迷いのない返答だった。


その言葉が胸に落ちたとき、わたくしは何かを期待していた自分に気づいた。


ほんの少しだけ。


殿下なら、わたくしの話にも耳を傾けてくれるのではないかと。


けれど、その期待は今、音もなく消えた。


「それに、お前にはもう一つ罪がある」


殿下が手にしていた書類を掲げる。


「王太子である私の名を使い、王家の資金を不正に動かしていたな」


「身に覚えがありません」


「証拠ならここにある」


書類には確かに、わたくしの署名があった。

けれど、その署名を見た瞬間、わたくしには分かった。


これは偽物だ、と。


わたくしが王家の政務に携わるようになってから、署名を必要とする書類には必ず印章と照合記録を添えてきた。


この書類には、それがない。


「殿下。その書類だけでは、わたくしが不正を行った証拠にはなりません」


「まだ言い逃れをするのか!」


殿下の怒声が響く。


わたくしは黙った。

これ以上、何を言っても無駄だと悟ったから。


殿下はもう、真実を求めていない。

信じたいものだけを信じている。


そして、その隣でリゼットは小さく俯いている。

その唇には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。


あの笑みを、わたくしは知っている。


子供の頃、わたくしからお菓子を隠したあとにも、リゼットは同じ顔をしていた。


けれど、あの頃は悪戯だった。


今は違う。


わたくしの人生を壊そうとしている。


ああ、そういうことなのね。


わたくしはようやく理解した。


これは、最初から決められていたのだ。


「エレナ・アストレア」


殿下が冷たく告げる。


「お前との婚約を破棄する。そして、国外追放を命じる」


広間がざわめいた。


「執行は一週間後だ。それまでに身辺を整理しろ」


その言葉を聞いても、わたくしは驚かない。


ただ一つだけ尋ねた。


「承知しました。では、一週間後まで、これまで通り王宮へ出入りしてもよろしいのでしょうか?」


「……何?」


「身辺整理だけでなく、わたくしがこれまで担当していた政務の引き継ぎが必要ですもの」


殿下は一瞬、黙った。


「好きにしろ」


「ありがとうございます」


頭を下げ、わたくしは広間を出た。


背中にいくつもの視線を感じた。


誰も呼び止めなかった。


十年以上通い続けた王宮なのに、その廊下が今日はひどく広く感じられる。


屋敷へ戻る馬車の中でも、涙は出なかった。


悲しくないわけではない。


十年以上、わたくしはヴァルター殿下を支えてきた。


王太子として必要な政務を整理し、各地から届く報告書に目を通し、殿下が判断しやすいように必要な情報をまとめてきた。


婚約者としてではない。

未来の王を支える者として。


朝早く王宮へ向かい、夜遅くまで書類を整理したこともあった。


殿下が困らないように。

王国が滞らないように。


それが当たり前だと思っていた。


馬車の揺れに身を任せながら、窓の外を眺める。


見慣れた街並みだった。

何度もこの道を通った。


殿下の政務を手伝いに向かうときも、帰るときも。


この道の先に王宮がある。


明日も、そこへ向かうのだと思っていた。


それが今日、最後になるかもしれない。


そう思ったとき、ようやく胸の奥が少しだけ痛んだ。


今日、すべてが否定されたのだと。


けれど。


わたくしは窓の外を眺めた。


「一週間、ですか」


国外へ出るまで、一週間。


ふと、笑みがこぼれた。


「……長すぎますわね」


その言葉を口にした瞬間、不思議と胸の奥が軽くなった。


悲しんでいる時間はある。

けれど、悲しんでいるだけで一週間を終えるつもりはない。


わたくしには、殿下たちが知らないことがある。


これまで殿下を支えるため、わたくしが目を通してきた書類。その中には、殿下自身も把握していない不正がいくつもあった。


そして、それを誰が行ったのかも、わたくしは知っている。


けれど、これまでは黙っていた。


王太子の名誉を守るため。


王国を守るため。


ヴァルター殿下を、未来の国王として支えるため。


その必要が、もうなくなった。


わたくしは鞄から一枚の書類を取り出した。


そこには、王家の資金が不自然な経路で流れていた記録が残されている。


何度も目にした記録だった。


今までなら、この書類を見つけても、まず殿下に報告する方法を考えていた。


誰にも知られないように処理できないか。

王家の名を傷つけずに済む方法はないか。


けれど、もう違う。


その行き先は、リゼットの母方の実家。


そして、その資金を動かすために使われたのは、ヴァルター殿下の承認だった。


わたくしは書類を見つめた。


「わたくしを捨てたことを、後悔なさいませ」


その日から、わたくしの最後の一週間が始まった。





翌朝ーー


わたくしは王宮へ向かった。いつもと同じ道。

けれど、昨日までとは違う気持ちで馬車に揺られていた。


これが最後になる。


そう思うと、見慣れた王宮の門さえ、少し違って見えた。


最初に訪れたのは、財務を監査する宰相補佐の執務室。


「エレナ公爵令嬢……?」


「こちらをお預けします」


差し出した封筒を、彼は怪訝そうに受け取った。

しかし中身を確認した途端、その表情が変わった。


「これは……」


「王家の資金について、わたくしがこれまで保管していた記録です」


「ですが、これが事実なら……」


「わたくしの国外追放が決まりました。もう、殿下のために隠しておく必要はございません」


「すぐに確認いたします」


「お願いいたします」


それだけ告げて、わたくしは執務室を出た。


次に向かったのは、王宮の記録保管室。


過去一年分の来訪記録を確認する。


紙をめくる音だけが、静かな部屋に響いていた。


リゼットがわたくしから虐待を受けていたという証言。


その中には、わたくしとリゼットが二人きりだったとされる日時がいくつもあった。


けれど、そのすべてに共通していることがある。


その時間、リゼットは王宮にいない。


記録が残っている。


わたくしは写しを取った。


さらに、リゼットが証言した内容を一つずつ書き出した。


「ここね」


一枚の紙に目を止めた。


リゼットは、この日にわたくしから部屋へ閉じ込められたと言っている。


けれど、その日は王宮の茶会に出席していた。

しかも、参加者の名簿にはリゼット本人の署名まである。


紙の上に残った妹の名前を見つめる。


嘘は、こうして形になる。

口から出た言葉だけなら、いくらでも否定できる、と。


けれど、記録は違う。


時間も、場所も、人の名前も残っている。


そしてこれだけではない。

別の日も、その次の日も同じだった。


わたくしは、写しを司法を預かる人物へ送った。





二日目ーー


王宮から呼び出しがあった。


「エレナ公爵令嬢。昨日提出された資料について、確認したいことがあります」


「何でしょう?」


「あなたは、この記録をすべて把握していたのですか?」


「ええ」


「なぜ今まで黙っていたのです?」


そう聞かれて、少しだけ考えた。


昨日までなら当たり前だった答えが、今日は少し遠く感じられる。


なぜ黙っていたのか。


殿下のため。王国のため。


それ以外に理由などない。


昨日までなら。


「ヴァルター殿下を、王太子として支えるためです」


「……」


「ですが、わたくしはもう、その役目を解かれました」


口にしてみると、それは思っていた以上に寂しい言葉だった。


けれど、もう撤回するつもりはない。

だからそれ以上、何も言わなかった。


その日の午後、わたくしは王宮を訪れた別の人物と話をした。


王太子の政務を長く見てきた文官だ。


彼は、殿下が承認した書類の中に不自然なものがあることを以前から知っていた。


「ですが、殿下の命令だと思っておりました」


「その承認記録を、見せていただけますか?」


文官はしばらく迷った。


その表情を見て、わたくしは少しだけ昔を思い出した。


殿下を疑うことは、この宮廷では簡単なことではない。たとえ疑問を抱いていても、口にする者はいなかった。


わたくし自身も、そうしてきたのだから。


けれど、今は違う。


わたくしが口を開けば、この人は真実を話せる。


そう思った。


わたくしが差し出した財務記録を見ると、彼は静かに頷いた。


「……これなら、私も証言できます」


わたくしは頭を下げた。


これで一つ、繋がった。





三日目ーー


ヴァルター殿下から呼び出しがあった。


「なぜ、私の執務室にあるはずの書類がなくなっている?」


「わたくしが整理したからです」


「勝手なことをするな!」


「一週間後には国外へ出る身です。殿下のお仕事を整理しておくのは、最後の務めだと思いました」


「余計なことをするな!」


殿下は苛立ったように机を叩いた。


「これくらい、私一人でできる!」


その言葉を聞いて、わたくしは殿下の執務室を見回した。


机の上に積まれた書類。整理されていない報告書。

殿下が今まで気にも留めなかった細かな案件。


十年間、わたくしはこれを一つずつ片付けてきた。


殿下が王太子として恥をかかないように。


王国の政務が滞らないように。


それを今、殿下自身が「一人でできる」と言った。


ならば。わたくしが口を挟む必要はない。


すっと殿下を見つめた。


「そうですか」


「何だ、その顔は」


「いえ。これで安心いたしました」


「……?」


「これまでわたくしが処理していた仕事は、すべて正式な担当者へ引き継ぎます」


「好きにしろ!」


「承知しました」


わたくしは深く頭を下げた。


その瞬間、胸の中にあった最後のためらいが消えた気がした。


その日の午後から、王太子の執務は目に見えて滞り始めた。


今までなら、わたくしが先に問題を見つけ、必要な資料を揃え、関係者への連絡まで済ませていた。


それが、すべてなくなったのだから。





四日目ーー


リゼットが、わたくしの屋敷へやってきた。


「お姉様」


「何かしら?」


「どうして、こんなことをするの?」


「こんなこと?」


「私たちに恥をかかせるような真似をして」


わたくしは首を傾げた。


「わたくしは何もしていません」


「嘘よ!」


リゼットの声が震える。


「お姉様が私を恨んでいることくらい分かっているわ!」


「恨む?」


「だって、殿下を奪ったのは私でしょう?」


その言葉を聞いて、わたくしは初めて笑った。


妹の顔を見ながら、ふと思う。


昔、この子がわたくしの手を握って離さなかったことがあった。


怖い夢を見た夜だった。


わたくしが隣で眠るまで、リゼットは手を離さなかった。


あの頃の妹と、目の前の妹。


同じ顔なのに、もう別人のように思えた。


「あなた、勘違いしているのね」


「何がよ」


「わたくしは殿下を奪われたとは思っていません」


リゼットが黙る。


「あなたが欲しがったのは、わたくしがこれまで支えてきた殿下でしょう。でも、それはもうあなたのものです」


「……何を言っているの?」


「これから、あなたが支えて差し上げればよろしいのです」


リゼットの顔から血の気が引いた。


その表情を見て、わたくしはようやく気づいた。


この子は、本当に知らないのだ。


殿下の政務がどれほど多いのか。


何を見て、何を判断し、誰と話さなければならないのか。


わたくしが今まで当たり前のようにしてきたことを、この子は何一つ知らない。


「お姉様……」


「わたくしは一週間後には、この国を出ます」


「だったら、どうしてこんなことを……」


「何のことでしょう?」


わたくしは微笑んだ。


「わたくしは、ただ何もせずに国外へ出るだけです」


リゼットは何も言い返せなかった。

   




五日目ーー


財務監査の結果が出た。


王家の資金が不正に流用されていたこと。


その承認に使われた印章が、ヴァルター殿下の管理するものだったこと。


そして、その資金の一部がリゼットの母方の実家へ流れていたこと。


すべてが明らかになった。


その報告を聞きながら、わたくしは不思議な気持ちになっていた。


ずっと知っていたことなのに。


自分の中にしまっていた事実が、今は他人の手によって明らかにされていく。


これまで守っていたものが、崩れていく。


けれど、止めようとは思わなかった。


しかし当然、殿下は否定した。


「私は知らない!」


けれど、その言葉を証明することはできない。


なぜなら、これまで資金の管理を実質的に任されていたのは、わたくしだったから。


そして、わたくしは知っている。


どの書類が殿下の手を通り、どこへ流れていたのかを。


さらに、婚約破棄の場で提示されたわたくしの署名についても調査が始まった。


署名だけではない。


印章の使用記録にも不自然な点が見つかった。


調べれば調べるほど、最初に用意された「証拠」の方が疑わしくなっていった。





六日目ーー


司法の場で、リゼットの証言が再確認された。


「お姉様は私を部屋に閉じ込めました」


「その日は、何月何日ですか?」


「……覚えていません」


「では、こちらをご覧ください」


記録係が一枚の書類を示す。


その日、リゼットは王宮で開かれた茶会に参加していた。


しかも、その場には大勢の貴族がいた。


わたくしと二人きりになることなど不可能だった。


「違うの! その記録が間違っているの!」


「では、こちらは?」


次の記録が出される。


また違う日。


そしてまた同じ結果。


リゼットは言葉を失った。


わたくしは妹を見ていた。


以前なら、あの子がこんなふうに追い詰められている姿を見れば、助けようとしたかもしれない。


けれど今は、何も思わなかった。


冷たいのかもしれない。


そう思う自分もいた。


けれど、それでも構わない。


わたくしはもう、この子の姉であることを理由に、自分を犠牲にするつもりはなかった。


「ですが……」


記録係が続ける。


「この証言だけではありません」


さらに別の書類が出された。


「婚約破棄の場で提示されたエレナ公爵令嬢の署名についても、偽造の疑いが確認されました」


ヴァルター殿下が立ち上がった。


「待て! それはエレナが自分で署名したものだ!」


「殿下」


わたくしは静かに口を挟んだ。


「その書類に添えられている印章の照合記録をご覧ください」


殿下の顔が強張る。


「その印章が使用された日時、殿下はどちらにいらっしゃいましたか?」


「……」


「わたくしは存じ上げております」


わたくしは一枚の記録を取り出した。


「その時間、殿下はリゼット嬢と共に王宮を離れておられましたね」


広間がざわめいた。


リゼットが息を呑む。


「ち、違うわ!」


「では、こちらの証言は?」


二日前に話をした文官が、静かに前へ出た。


「私は、殿下が管理されている印章の使用記録を確認したことがあります。その記録には、確かに不自然な点がございました」


ヴァルター殿下が文官を睨みつける。


「お前まで私を疑うのか!」


「疑っているのではありません」


文官は首を横に振った。


「事実を申し上げているだけです」


その瞬間、すべてが繋がった。


偽造された署名。


改竄された印章の記録。


王家の資金。


リゼットの母方の実家。


そして、二人が隠していた関係。


一つ一つは小さな疑いでも、すべてを重ねれば逃げ道はなかった。





七日目ーー


わたくしの国外追放の日。


王宮の広間には、あの日と同じように多くの貴族が集まっていた。


ヴァルター殿下もいる。


けれど、あの日とは違う。


殿下の隣にリゼットはいなかった。


彼女はすでに拘束されている。


あの日、あの場所でわたくしを見ていた妹の姿を思い出す。


あのときは、ここから追い出されるのが怖かった。


今は違う。


ここに残ることの方が、もう苦痛だった。


「エレナ・アストレア」


殿下がわたくしを睨む。


「今日をもって、お前は国外へ追放される」


「承知しております」


「……それだけか?」


「はい」


そのときだった。


広間の扉が開いた。


宰相が入ってくる。


「殿下。追放の執行を、そのまま行うことはできません」


「何だと?」


「エレナ公爵令嬢から提出された資料について、調査が完了しました」


広間がざわめく。


宰相は淡々と告げた。


「王家の資金不正流用。その資金の一部を受け取っていたリゼット嬢の実家。さらに、エレナ公爵令嬢を罪に問うために提出された証拠の改竄」


ヴァルター殿下の顔が青ざめた。


「待て。それは……」


「すべて、証明されております」


わたくしは静かに殿下を見た。


この人の隣に立つことを夢見ていた時期もあった。


この人が立派な王になれるようにと、そう願っていた。


そのためなら、自分の時間も、自由も惜しくなかった。


けれど今、その人が目の前で崩れていくのを見ても、もう手を差し伸べたいとは思わなかった。


それが少しだけ寂しくて。


同時に、これでいいのだと思った。


「なぜだ……」


殿下が呟く。


「なぜ、お前はここまで……」


「殿下」


わたくしは遮った。


「わたくしを追放したのは、殿下です」


「……」


「そして、一週間という時間をくださったのも殿下」


殿下の顔が歪んだ。


「わたくしは、その時間を無駄にはいたしませんでした」


「エレナ……」


「もう一つだけ、お伝えしておきます」


わたくしは、最後の書類を取り出した。


「殿下がわたくしを追放すると決めたあの日、殿下は『王太子としての政務は問題なく続けられる』とお考えでしたね」


「……」


「でしたら、これからもご自分でなさればよろしいのです」


ヴァルター殿下は何も言えなかった。


わたくしは深く頭を下げる。


「それでは、失礼いたします」


「待て!」


背後から声がした。


「エレナ! 国外へ行く必要などない! 婚約破棄も撤回する!」


わたくしは足を止めた。


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、遠い昔の記憶が浮かびはしたけれど。


でも、振り返らなかった。


「もう遅いのです」


「私が間違っていた!」


「ええ」


「頼む、戻ってきてくれ!」


その言葉に、わたくしはようやく振り返る。


殿下の顔を見つめた。

かつて、あれほど大切だった人の顔を。


「お断りいたします」


殿下が息を呑む。


「わたくしは、あなたのために生きることをやめました」


その言葉を口にした瞬間、不思議なほど心が静かになった。


悲しみが消えたわけではない。


十年分の時間が、たった一言でなくなるわけでもない。


それでも。


これから先は、自分で決めていい。


そのことだけは、迷わなかった。


ヴァルター殿下は、その場に立ち尽くしていた。



その後、殿下は王太子の地位を失った。


リゼットもまた、その罪を裁かれることになった。


二人を庇っていた者たちも、当然のように相応の責任を負うことに。


そしてわたくしは、一人、国境へ向かう馬車に乗った。


窓の外に、王都が遠ざかっていく。


あの場所で、わたくしはすべてを失った。


けれど今は違う。


窓の外に広がる景色を眺めながら、これから先のことを考える。


何をするのか。


どこで暮らすのか。


まだ何も決まっていない。


それでも、不思議と怖くはなかった。


わたくしは、自分からすべてを手放したのだ。


誰かのためでもない。


王国のためでもない。


王太子のためでもない。


これからは、わたくし自身のために。


馬車が国境を越える。


わたくしは、もう後ろを振り返らなかった。

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