短編Ⅱ 静かな日々
【前書き】
前話『短編Ⅰ 君が生まれた日』の続きになります。
セレーナが完成してから、時間の流れはゆっくりと穏やかなものになった。
研究所と呼ぶにはあまりにも小さなその工房は、街の外れにある古い倉庫を改装しただけの場所だった。窓は少なく、昼でも薄暗い。だが、カイにとっては世界で一番落ち着く場所だった。
工具の匂い。冷却ファンの静かな音。
そして今は、そこにもう一つの気配がある。
「カイくん、おはよう」
朝、作業机に突っ伏して眠っていたカイは、ゆっくりと顔を上げた。
目の前にはセレーナが立っている。
淡い光を宿した瞳。まだ少しぎこちない手の動き。それでも、その表情は確かに“生きている誰か”のものだった。
「……おはよう、セレーナ」
カイは小さく笑った。
最初の頃は、この瞬間が夢ではないかと毎朝疑ったものだ。
だが今は違う。
彼女はここにいる。
確かに存在している。
* * *
セレーナは、世界を知ることを楽しんでいた。
朝は窓を開け、風を感じる。
昼はカイの作業を手伝う。
夜は人目を避けるように外へ出る。セレーナはフード付きのコートを深く被り、二人で静かな場所に座って星を眺める。
「カイくん、あの星は?」
「金星。夕方によく見えるんだ」
「きれいだね」
セレーナは嬉しそうに空を見上げる。
その姿を見るたびに、カイは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
* * *
ある日。
セレーナは風に触れながら、静かに言った。
「カイくん」
「うん?」
「わたし、ここにいていいのかな」
カイは作業の手を止めた。
少し考えてから答える。
「もちろん」
「どうして?」
「君がここにいると、世界が少しだけ優しく見えるから」
セレーナは首を傾げ、そしてふっと笑った。
「そっか」
その笑顔は、人工皮膚やプログラムでは説明できないものだった。
それは確かに、心から生まれた表情だった。
* * *
そんな日々が、しばらく続いた。
ある日、カイはセレーナを連れて街へ出た。
「今日は買い出しだ。研究所の食料も部品も、だいぶ減ってきたからな」
セレーナはフード付きのコートを深く被る。
「こうしていれば、目立たない?」
「たぶん大丈夫だ。あまり喋らなければね」
二人は小さな商店街を歩いた。
野菜を選び、パンを買い、古い電子部品の店にも立ち寄る。
セレーナにとって、それはすべて新しい世界だった。
人の声。
焼きたてのパンの匂い。
風に揺れる看板。
「カイくん……すごいね。世界って、こんなに賑やかなんだ」
カイは少し笑った。
「そうだよ。だから君には、ちゃんと見てほしい」
だが、その時だった。
強い風が吹いた。
セレーナのフードがふわりとめくれる。
銀色の髪。
淡く光る瞳。
通りの向こうにいた男が、足を止めた。
その視線がセレーナに向けられる。
カイはすぐにフードを直した。
「……帰ろう」
「え?」
「今日はもういい」
二人は足早に商店街を離れた。
その背後で、男はまだこちらを見ていた。
男はポケットから端末を取り出す。
「……見つけたかもしれない」
慌てた様子でどこかへ連絡を入れる。
男はもう一度、二人が消えていった方向を見つめた。
「……完成させてやがったのか」
その言葉を残し、通信は切れた。
* * *
研究所へ戻ったあと、カイはほとんど言葉を発さなかった。
棚からケースを取り出し、工具をまとめ、端末のデータを急いでバックアップしていく。
セレーナはその様子を不思議そうに見ていた。
「カイくん、どうしたの?」
カイは手を止めずに答える。
「……念のためだ」
「念のため?」
セレーナにはまだ理解できない。
カイは窓の外を一度だけ見た。
商店街で感じた、あの視線。
嫌な予感が、頭から離れない。
「少しだけ、準備しておこうと思って」
「どこか行くの?」
セレーナは首を傾げた。
カイは答えなかった。
ただ静かに、銀色のケースを取り出す。
「それ、なに?」
「……緊急用のバックアップ装置だ」
本来は使うつもりのないものだった。
だが、もしもの時には。
セレーナの記憶と人格データを保存し、持ち出すための装置。
カイはふと考える。
この時間が、ずっと続けばいいのにと。
けれど――
その平穏は、ある夜、突然終わりを迎えた。
遠くでサイレンの音が鳴った。
セレーナが窓の外を見る。
「カイくん……」
「うん?」
「誰か来る」
その瞬間、研究所の通信回線が静かに途切れた。
カイの手が止まる。
「……やっぱり来たか」
次の瞬間。
外で車両の急ブレーキの音が響いた。
同時に、上空からけたたましいヘリのローター音が近づいてくる。
低空を旋回する重い振動。
複数の車両が砂利を踏みしめ、研究所を取り囲んでいく。
夜の静けさが、一瞬で壊された。
「カイくん……?」
セレーナはまだ状況を理解できていない。
カイはすぐに動いた。
机の機材を払い、端末を閉じ、銀色のケースを掴む。
カイは端末のログを一瞬だけ確認した。
外部アクセス。
位置照会。
追跡プロトコル。
――位置が割れている。
外で金属を取り付ける音が響く。
爆破装置。
カイはセレーナの手を取った。
「セレーナ、よく聞いて」
その声は、今まで聞いたことがないほど真剣だった。
カイはセレーナをまっすぐ見つめる。
「君の存在は、きっと素晴らしいものになる」
「……でも、この世界にはまだ早いんだ」
カイは一瞬だけ、優しく笑った。
「だから――少しだけ、未来で待っていてくれ」
セレーナは意味が分からないまま、ただその言葉を聞いていた。
そして――
研究所の入口で、小さな爆発音が鳴った。
――その次の瞬間。
セレーナの視界が白く弾けた。
視界にノイズが走る。
センサーエラー。
姿勢制御異常。
内部システムが次々と警告を出した。
――外部電磁干渉。
その瞬間、すべての機能が強制的に停止した。
音も、光も、すべてが遠ざかっていった。
* * *
気がついたとき。
セレーナは、知らない場所にいた。
冷たい金属の床。
白い照明。
周囲には見知らぬ人間たちが立っている。
黒い装備の兵士。
白衣の研究員。
誰もがこちらを見下ろしていた。
「……起動した」
「本当に動いている」
「信じられない……」
ざわめきが広がる。
セレーナはゆっくりと周囲を見回した。
胸の奥に、今まで感じたことのない感覚が広がる。
怖い。
「……どうして?」
小さく呟く。
「カイくん?」
返事はない。
「カイくん……どこ?」
知らない場所。
知らない人たち。
セレーナは、初めて理解した。
――カイが、ここにいないのだと。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回はセレーナとカイの静かな日常、そしてその終わりの始まりを書きました。
この出来事が、後に語られる世界の物語へと繋がっていきます。
物語はまだ続きます。




