見てはいけないもの
あなたが、人にみせたくないものは?
母のリハビリに間に合えば、速水に会えるかもしれない。
そんなわずかな期待を胸の奥に感じながら、いつもより早足で歩く。
改札を抜けた先に電車がホームに入るのが見えた。息をきらし階段を駆け降りると無情にもドアを閉める。
「……あと少し」
次の電車まで八分。なのにやけに長く感じる。
そして息を整えようとした矢先、構内放送が流れた。
運転見合わせ。再開未定。
「なんで……」
どうやら乗りたかった電車でトラブルがあったらしい。
今日は行くのやめようかな?
このまま引き返しても明日行けば問題がない。
――でもお母さんに、また明日来るねって言っちゃったし……
スマフォンで迂回ルートを検索しながら、ふと速水の低い声や笑顔を思い出していた。
どうせ今から行ってもリハビリは終わっているし。
そう思うのに、どこか使命感にかられたように、諦めることが出来ない。
間に合うかどうかは分からない。けれど人の流れをかき分けて走った。
到着した時には日も暮れ、ロビーの灯りも落とされていた。リハビリ室の前も、静まり返っている。
——遅いよね。
けれど後悔はなかった。この場所に来る事が出来た。そう思うだけで、どこか心が癒されていた。
母を見送り、夜風に背中を押されながら、駅までの道を一人で歩く。
——やっぱり会えなかった。
そう思ったそのとき、少しだけ息を切らした足音が近づき、聞き覚えのある低い声が、ためらうように響いた。
「……あの、すみません」
その声に胸が掴まれ、振り返る勇気が出ないまま、足だけが止まった。
「山田さんの……」
その声に確信が走る。ゆっくり振り返ると、街灯の下に立っていたのは、思っていた通りの人だった。
「——速水さん……?」
名前を呼んだ瞬間、彼の表情がやわらいで、少し照れたように笑う。
「やっぱり。昨日もらったクッキー美味しかったからお礼が言いたくって。追いかけました」
ただそれだけの言葉なのに、胸の奥がじんわり熱くなる。会えなかったはずの一日が、たった今、静かに報われた気がした。
「山田さんのご家族の方って呼びかけるのもへんですよね? なんて呼んだらいいんだろう? って思いました」
「あっ、えだ、私。三浦です。結婚して苗字が変わったから。三浦詩乃です」
「そうですよね! 山田さんじゃないですよね。大きな声で呼ばなくて良かったー。さっき病院で見かけて」
「速水さん、今日は随分と遅いですね」
理学療法士は、基本的に夜勤はないはずだ。
「患者さんの記録や計画書の作成してたんで」
「そっか、お疲れ様。今日はリハビリに付き添えませんでしたが、母はいかがでしたか?」
速水は一瞬だけ考えるように視線を上げ笑った。
「頑張ってましたよ。無理はさせてません。……ちゃんと」
その“ちゃんと”に、胸の奥がほどける。
夏の夜風が、街路樹を抜け頬を撫でた。
「……よかった。正直に言うと……どうしたらいいのか、わからなくて」
笑おうとして、口元が少しだけ歪んだ。
「主人に相談しても、今は出来ることをやるしかないって言われて。それが正しいのはわかるんです。でも……」
言葉を探すように、月を見上げた。
「速水さんのおかげで、母は随分動けるようになりました。
でも、父ももういないから……ひとりで置いておくわけにもいかなくて」
速水は、遮らずに聞いていた。
「そばにいるほど、変化も不安も、全部背負ってしまいますよね」
断言でも、慰めでもない優しい声。
「でも……今日のお母さんは、確実に昨日より良かったです。
小さくても、前に進んでます」
少し間を置いて、続ける。
「それを、ちゃんと見ている人が、ここにいますから」
“ここに”と言われた気がして、思わず息を吸った。
「……ありがとうございます」
夏の夜はまだ蒸し暑いのに、不思議と胸の奥だけが涼しかった。
トラブル続きだった一日が、この時間のためにあったのだと思ってしまう自分が、少し怖くて、それでも嫌じゃなかった。
「ご主人は、なんておっしゃっているんですか?」
「同居して、本当にやっていけるのかって。
子どももいなくて、ずっと二人で過ごしてきたから……」
介護の経験がない賢哉には、どう向き合えばいいのか分からないのかもしれない。仕事に追われる彼に、これ以上の負担をかけられず、いつの間にか相談することさえ出来なくなっていた。
「詩乃さんは、もう何も言わなくていいですよ」
速水は、迷いなく言った。
「僕の方から、伝えますから」
——ずっと、その言葉を待っていた。独りで抱えていた憂鬱に、静かに寄り添い、口下手な私の代わりに、心の奥を言葉にしてくれる。
それが、何よりも嬉しかった。
気づけば、生い立ちのことも、過去の恋愛のことも、話していた。
「あっ、僕もテレビ見せてもらえませんでしたよ」
それはずっと探し求めていたキーワード。
幼い頃はしつけの厳しい似たような家庭環境だったが、自分で考える事をやめ、反発する事なく育った私とは違い、反発してばかりだったという。
だから経験豊富なんだ。
若くしても、自分で考える事を続けてきた速水は、懐の深さが違う。
なんだか家族みたい。
他人というより、どこか懐かしさを感じていた。
翌日病院へ行くと、ベットの上にあるボールペンに目が留まった。
どうしよう。
青いペンギンのついたボールペンに見覚えがある。これは……。
とても大切なものを見つけてしまったと感じている。
速水さんのボールペン……
見てはいけないものを見てしまったような、後悔の混ざる罪悪感を感じている。
——この感情は……ただ楽しいとか幸せとかそんなレベルではない。
私……速水さんを愛してしまったんだ。
賢哉だけを盲目的に信じ、どんな時でも二人で支えあってきた。何十年経っても尊敬と愛する気持ちに変わりはなく、ただ傍にいるだけで幸せだと思ってきた私にとって、気付いてはいけない感情。
しかし、自分とは無縁だと思っていた許されぬ恋に、気付き戸惑う私が孤独の迷宮に囚われていた。
気づいてしまった




