あったかい
失うことなど出来ない。そんな気づきは、詩乃の運命をどう変えてゆくのか?
これまでに感じた事のない安心感と開放感に満たされていた。母を元気にしてくれる人に出会えた喜びを、早く賢哉に伝えたい。
病院から自宅に帰る道すがら、そんなことを考えている時間は、静かなぬくもりに包まれる時間だった。
速水さんのために出来ることってなんだろう? そうだ、久しぶりにクッキーでも作ろうかな。
一日の疲れも忘れ、煮物をコトコトと煮る鍋の隣で、ボウルに入れたバターを、ゆっくりと柔らかくしていく。砂糖を加え、小麦粉を混ぜ、手のひらでまとめる。
生地がひとつにまとまっていく感触が、心まで落ち着かせてくれるようだった。
胸の奥から、わくわくと湧き上がる感情に、迷いも、濁りもない。きっと喜んでくれる、その小さな確信が心を満たしていた。
オーブンから取り出したばかりのクッキーは、まだ触れるには早く、網の上で熱を逃がしていると、
「ただいま」
鍵の音のあと、賢哉が部屋に入ってきた。
しばらくすると、玄関で鍵を開ける音がした。いつも帰るのは日付の変わる頃だ。
「あれ、まだ起きてたの?」
忙しい時には、日付の変わる頃に帰宅する事もあり、いつもなら食後ソファーでうたた寝をしてしまうが、興奮を抑えきれず、目が覚めていた。
忙しいのは、付き合っていた頃から変わらない。自分も夜勤のある仕事だから、会えない時間があることは生活の一部で、当たり前になっていた。それを寂しいと思ったことはなかった。
「あのね、速水さんが今日の担当だったの。事故に遭ったって言ってるいたけど、とても元気で。やっぱり速水さんだとお母さんも楽しそうだったよ。あんな風に患者に寄り添いながらやる気を起こせるって、本当に凄いと思う」
賢哉に一息つく暇も与えず、夕食を机に並べながら嬉々として報告すると、
「よかったね」と優しく微笑み返す。
「お母さんの体が大切なのもわかるけど、詩乃が疲れないようにな! 仕事もしているし無理するなよ。なんだったら俺夕食外で食べてこようか?」
賢哉はネクタイを緩めながら、気遣う言葉をかけてくれた。
「いつもありがとう。でも大丈夫、無理はしないから。そうだ、夕食食べ終わったらクッキーあるよ」
「クッキー?」
少し遅れて、さっきの言葉をなぞるように聞き返す。
「うん。美味しく出来たからお母さんに持って行こうと思って。それに速水さんにも。お世話になってるから多めに作ったんだ」
「そうなんだ」
賢哉は大して気にもせずテレビの電源を入れると、画面に流れ始めたニュースの音が、会話の続きを自然に遮った。
キッチンに戻と、網の上で冷めていくクッキーを見つめながら、胸の奥に言葉にならない感覚が残っていた。
翌朝、綺麗にラッピングしたものを、忘れずにカバンへしまった。日頃の感謝を形にしただけのことなのに、歩くたびに袋の中から小さく聞こえる軽い音に心が踊る。
「お母さん今日も速水さんだといいね」
リハビリの時間に合わせ病院へ行くと、母に声をかけながらベッドの周りを整えていた。
「山田さーん。リハビリの時間ですよー」
速水も随分と、母とのリハビリに慣れてきたようだ。
「今日はちゃんとお昼たべられましたか?」
「朝コンビニで買ったおにぎりと、菓子パンですよ」
相変わらず、栄養バランスの気になる食生活だ。食べたもので体は作られるというのに。
「そうなのね。それでお腹空かないの? 今日はクッキー持ってきたんだけど食べますか? 日頃のお礼と速水さんの快気祝い」
「えっ、マジ嬉しい」
仕事を忘れ素の速水が見れた瞬間だった。
「えっ、速水さんていくつなの?」
落ち着いた白衣姿からは想像出来ない言葉使いに、思わず問いかけた。
「僕、二十四です。クッキーが嬉しすぎて、思わず素で喜んじゃいました」
ちょうど十歳差か……
「若いねー」
年下だと知ったからなのか、思わずこちらもタメ口になってしまう。
「はい、これ」
少し間を置いてから紙袋を差し出した。
「手作り、ですか?」
「……お口にあわなかったら、ごめんなさい」
期待も、不安も、見せないそぶりで渡すと、おもむろに袋を開け、クッキーを取り出した。
「……あったかいですね」
焼きたてじゃない。なのに何故かそんな言葉をもらした。
「無理しないでくださいね。美味しくなかったら……捨て……うーん、そしたら返してくれていいから」
負担にはなってほしくないという気持ちはあるものの、捨ててもいいとは言えなかった姿がおかしかったようで、小さく笑った。
ほんの短いやり取りだったのに、仕事を終えた背中を見送りながら、その声の低さや、少し照れたような笑い方が、いつまでも耳に残る。
平凡な日常が速水を思い出すだけで、見るものすべてがパステル画のように彩られてみえた。
詩乃はまだ気づいていないことがある。




