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目覚める魂

失う事など出来ない。その気づきがうむものは?

 失ってはいけない存在だと気づき不安を抱えながらも、泣くことや取り乱すことも出来なかった。

 仕事や母の世話、そして賢哉に対しても、いつもと変わらぬ生活しようとするのに、思考は必ず速水のところへ戻ってしまう。

 大丈夫だと、自分に言い聞かせるのに、何度も繰り返す心配は、波のように押し寄せてきた。

――こんなにも安否を案じる関係ではないと思うのに、払拭しようとする想いは、引き返してはくれなかった。


「速水さん」


 事故に遭ったという話を聞いた三日後、願いは突然叶った。

「こんにちはー、さぁ、今日もリハビリですね」

 拍子抜けするほど元気な姿に、思わず駆け寄る。


「事故に遭ったって……しばくお休みだって。ねぇー怪我は? 本当に大丈夫なの?」


 気持ちを隠す事など出来ない。泣き出したい気持ちだ。


「全然大丈夫です」


 気が抜けるほど、ニッコリと笑顔で返したが、よく見ると顔にはまだ擦り傷が残っている。彼の云う通り大きな事故ではなかったようだ。

 緊張にも似た高鳴る鼓動。

 たった三日の出来事なのに、随分と長かった気がする。


「さあ山田さん、頑張っていきましょう」

 再び病室に響く速水の声と笑い声に、一安心している。

 他にもリハビリを上手く指導してくれる人がいるのはわかっている。けれど指導力は勿論なのだが、母のやる気を引き出しながらテキパキとした声掛けや間合い、そのタイミングがこれ程ピッタリな人はいない。例えるならブレーキを踏むタイミングそしてアクセルの踏み方の全てが、まるで自分が運転しているようにストレスがないのだ。

 もう失う事など出来ない。今出来る限りの事をしたい。

 そんな思いを胸にしまったまま、その日も、何事もなかったように、リハビリの時間はやってきた。

「もう三時かおやつの時間ですね。山田さんは、しっかりお昼食べれましたか? 僕はお昼カップラーメンしか食べてないから、お腹すいちゃいましたよ」

 母の腕に触れながら冗談めかして言った。

「速水さんは体力勝負なのに……あっ、菓子パンあるから、これ後で食べて」

「えっ、いいんですか?」

 余程お腹が空いていたのか、それとも、チーズとバジルソースが溶けたウインナーロールが魅力的だったのか、素直に気持ちを受け取った。

 紙袋が、彼の手に渡った。それだけのことなのに、胸の奥で、張り詰めていた何かがほどける音がした。

——受け取ってもらえた。

 気まずさも、戸惑いも、そこにはなかった。速水は袋を一度見つめ、そして微笑んだ。

「嬉しいです」

 その声が心の中で、はっきりと響いた。

 看護師としてでも、患者家族としてでもなく。ただ一人の人間として、差し出した気持ちを受け取ってもらえた気がした。

 ありがとう、と言われたわけじゃない。

 好意を示されたわけでもない。

 それでも、速水の世界に一瞬でも自分が触れたような感覚。

 速水はそれ以上何も言わず、大切そうに紙袋を持ち直した。その仕草が、無下に扱われなかったという事実だけを、静かに残す。

「お母さん、また明日くるね」

 病院を出ると、まだ昼の名残を引きずった明るさの中に、ゆっくりと影が伸びはじめている。五時を告げるチャイムが遠くで鳴った。暑さは残っているのに、どこか風がやわらかい。

 空は高く、雲はゆっくりと形を変えながら流れていく。

 世界は、何も変わっていない。なのに胸の奥だけが、確かに違っていた。海斗の一日を、ほんの少しだけ温めることができた気がして、胸の奥が温かい。

——パンもっと買っておけばよかったな。それにしてもお昼がカップ麺なんて、体に悪いよね。次はおすすめのデニッシュでも買っていこうかな? サンドイッチもいいよね。でも、やっぱりお米の方が腹持ちがいい? ならおにぎりもいいか。

 具は何が好きなんだろう。 

 そんな取り留めのない想像が、次々と浮かんでは消えていく。

 本来なら、母が倒れて病院に運ばれているのだから、もっと心は憂鬱なはずだ。それに仕事から疲れて帰ってくる賢哉のことを考えなければならないのに。

 父を亡くし、今は母のそばにいたいからといって、土日も母を見舞いに行くのを咎めることもなく、許してくれていた。

 連絡はどうしよう、帰ったら何を話そう、そんな現実的な思考に戻らなければいけないのに……

 それなのに、賢哉の夕食を冷蔵庫に入れると仕事に出かけ、そして母を見舞いに行く日々が続いていた。

 朝、賢哉の夕食と一緒に、速水さんの軽食を作ってもいいかも。

——速水さんがリハビリをしてくれるようになってから、なんか幸せだな。


 この時はまだ理由なんてわかっていなかった。ただ、魂だけが先に理解してしまっている。


 雲の上を歩く感覚は、恋の始まりなんかじゃない。

 魂が目を覚まし始めた合図だった。










雲の上を歩くように地に足がつかないなら、それは目覚めの一歩なのかもしれない。

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