動き始めた歯車
あの青年が……
この出会いの行方は?
「こんにちはー、山田さん。今日からリハビリを担当します、理学療法士の速水です」
そう名乗ると母に歩み寄る。
けっして大きな声というわけではない。声は低く落ち着いているのに、希望を感じるあたたかさがあった。
一瞬、言葉を失った。
——昨日の青年。
薄明かりの中でわずかに光った彼の瞳を、心が覚えている。けれど、昨日確かに目があったと思ったのに、まったく気づいていない様子だ。
「これからよろしくお願いします。一緒に頑張っていきましょう」
ベッドの脇に立つ彼は、電子カルテに視線を落としながら、ゆっくりと母に話しかける。
「山田さん、聞こえていますか?」
ハッキリと響く声に反応したのか、母はわずかに目を開けた。
「お母さん」
その反応に思わず声をかけ、母に触れた。そんな私に頷きながら笑顔でこちらを見る。
「今、ここはどこかわかりますか?」 その声にゆっくりと瞬きしたが、視線はどこか定まっていない。けれど、大きな一歩だ。
私はただ隅に立ち、見守るだけの立場だった。看護師であることも、これまでの知識も何の意味も持たない。
けれど、彼が母に向ける視線を見ていると、なぜか「大丈夫だ」と思えた。理由はない。ただそう感じた。
「右と左、わかりますか?」
体に触れながら質問を重ね、一つ質問しては返事を待つことを繰り返す。けれど力なくうなだれた手を見ていると、思わず自分の手に力がはいってしまう。
「無理に動かそうとしなくて、大丈夫ですよ」
できないことを否定しない。一つずつ丁寧に確認していた。
「脳がまだここにあるって思い出す時間なので、ゆっくりとやっていきましょう。今日はここまでにして……山田さん、また明日来ますね」
その言葉の最後に私を見ていた。
「昨日は、かなり不安そうでしたよね」
カルテに書き込む手を止めると、まっすぐとこちらを見ている。
気づいていたんだ……
「家族の方が一番、しんどい時ですからね」
頑張っていることを褒める言葉でも、励ます言葉でもない。けれど、私の心を、そのまま言葉にしてくれることが嬉しい。胸の奥に溜めていたものが、静かにほどけていく。
それからというもの母のリハビリの時間は、私にとっても一息つける楽しみな時間になった。
「山田さん、凄いですよ」
母が倒れてからというもの、漠然とした不安の中で明るい未来なんて描けなかったというのに、ベットサイドに座れるところまで回復していた。これまでも、様々なリハビリ現場を見てきたが、声かけのタイミングや支える力加減、その全てが絶妙で、任せていれば大丈夫だという安心感に支えられ、時間がゆっくりと流れる。母も楽しそうだ。
——けれどある日。
リハビリの時間になって現れたのは、別のスタッフだった。
「今日速水さんは、お休みなんですね」
「いやそうではなくて……何か速水、事故に遭いまして……しばらく、お休みをいただくことになりました」
……事故?
言葉の意味を理解するまで、ほんの数秒、時間がかかった。
「事故って、大丈夫ですか?」
救急で運ばれてくる患者の凄惨な姿と重なる。
まさか急変したら……
胸の鼓動は早く今はただ待つしかなく、どんな事でもいいから情報が欲しい。
「……重傷、なんですか?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「僕もまだ具体的なことはわからなくて。命に別状はないと聞いています。ただ、復帰は未定で……」
それ以上、言葉は耳に入らなかった。
——いない。
たったそれだけの事実が、こんなにも重く、苦しいなんて。
速水さんがいなくなったら私 ……どうしたらいいのかわからない。他の人に……ううん、絶対に無理。だってあんなに楽しそうにリハビリだって頑張っているし。
それだけの気持ちだと思いたかった。
母が元気に回復する為にこの出会いは必然だった。けれど私の人生に影響などあるはずがないのに……
一時的な安心感。張りつめていた神経が、たまたま緩んだだけ。
そう言い聞かせれば、片づけられるはずだった。けれど、どんなに不安を打ち消そうとしても、思考は容赦なく、最悪の方向へ転がっていく。
もし、重い後遺症が残ったら……
もし、もう二度と会えなかったら……
そう思うだけで、胸が締め付けられる。
お願い! 早く無事を知らせて。
ここまで誰かを心配したことなんて、ない。自分でも信じられないほど、彼の事ばかり心を占める。
速水さんの代わりなんていくらだっている。
だけど……
あの声。
あの間。
母に向けられていた、あの視線。
仕事として向き合ってくれただけ。なのに彼の存在が、確かに、私の世界のどこかに触れてしまった。
こんな出会いなのに……
それでも気づいてしまった。
彼が、失ってはいけない存在になっていたことに。
そして、気づいてしまったからこそ、もう、元の場所には戻れないのだということも。
自分の気持ちに気づいた時……あなたなら?




