運命の声
あの一瞬のすれ違いはなんだったのか……
――今のは、何?
ほんの一瞬、胸の奥を風が通り抜けたように、そこにあったはずの重さはどこかへ流された。
思わず振り返るが、彼はすでに扉の向こうに消えていた。
ピコン。
呑気な電子音が現実に引き戻す。弟の風太からのメッセージだ。母の様子を訊いているが、今の状況を説明するのにためらいが生まれる。母の容態は、表向きには何も変わっていない。けれど、あの慌てた様子を思い返すと、かえって悪い想像ばかりが浮かんでくる。
——もうすぐ十九時。
スマホの画面に浮かぶ数字が、ぼんやりと眩しく、影を落とす。夜勤の時間だ。
あの、折り目のついた白衣を着ていた若い医師。研修医だったのだろうか。けれど、指導医はいるはずだった。この規模の病院で、夜勤を研修医が担うことは、珍しくない。tPAは、使われたということは、誰かの判断が、確かに、そこにあったということ。
処置が、間に合わなかったのか。食事の風景が、不意に浮かんだ。
知識がひとつ浮かぶたび、胸の奥に静かに突き刺さっていく。もし、誰かの判断が、ほんの少し違っていたなら、あんなことには、ならなかったのかもしれない。
けれど、いつ、どの時点で、その処置が選ばれたのかは、わからない。それに倒れてから、発見され、運ばれるまでの時間も、正確には、誰にもわからないこと。人を責めてもはじまらない。
それはわかっている。それでも、
――私が、そばにいなかったから。
そう思ってしまうのは、何が起きたのか分からないまま、ただ失うことのほうが、耐えられないからだ。誰かのせいにすることで、不安を紛らわせる心理。
それが自分に向いたとき、人は「自分なら防げたかもしれない」と出来事を引き受けようとする。
それは、よく知っている感覚だった。
でも……私は私なりにやってきた。
風太は、仕事と子育てを理由に、ほとんど会いに来ないと、母はこぼしていた。賢哉のいない仕事が休みの日には、夜勤明けでも、会いに行ったこともある。
仕方なかったんだ。
一緒に住もうと言ったのに、同居を拒んだのは母だ。これが最善だったと信じるしかない。
治療だって、精一杯やってくれているはずだ。現場では誰もが患者の命を救おうと一生懸命だ。人手不足の現場を知っているからこそ、簡単に誰かを責めることもできない。
「……っ」
息が、浅くなる。さっきまで感じていた、あの静けさ。あの一瞬の空白が、まるで夢だったみたいに消えた。
翌朝、蝉の鳴き声に起こされる。昨日は自宅には帰らずそのまま実家に泊まったが、その代償がこれとは。
もう少しだけ……
自然が多い田舎町。セミ一匹どころの話ではなく、懐かしいキジ鳩の鳴き声も賑やかだ。浅い眠りを繰り返し、朝になってようやく眠りについたというのに、体内時計を揺さぶられる。
肌がけをはぎ布団から立ち上がると、顔も洗わず下着やティッシュなど最低限の荷物を並べ名前を書き袋にいれた。
急変しているかもしれないという不安はあるが、連絡がなかったということは、まだ大丈夫だということ。
でも、またいつ状況が変わるかわからないよね。
遠くからでも様子が見れたらいい。そんな気持ちで病院に向かった。ナースステーションに立ち寄ると、スタッフ達は朝からテキパキと動いている。そんな様子を伺う私に気づいた看護師が静かに近づいてきた。
「今は、落ち着いています」
声は低く、“安心してください”とは言わない代わりに、今、何が起きているかだけを伝えた。
「あとで先生から詳しい説明があると思いますが、検査の結果と、午後の様子を見て、このまま落ち着いているようでしたら、午後にできるところからリハビリを始める予定です」
その言葉に、私はうなずいた。理解したというより、そういう段階に入ったのだと、体が先に受け取った。
着替えを抱えて、病室に入ると、母は、穏やかに眠っている。呼吸も落ち着き、モニター音は規則正しい。点滴も順調だ。昨夜のことが、嘘みたいだ。
しばらく母の寝顔を見てから、病室を出た。家族は二十四時間面会できるとはいえ、この時間にできることはもう多くない。
「午後に、また来ます」
誰にともなくお辞儀をすると、エレベーターに乗った。
昼食のために一度帰宅し、数時間後に病室へ戻ると、母は目を開けていた。
「お母さんわかる? 詩乃だよ!」
視線はまだ定まらず、けれど呼びかけにはかすかに反応する。
「山田さんのご家族の方……娘さんでしたね。担当医の佐野です」
そういうと、出血の兆候は否定的であること。血圧と意識レベルは安定していることなど短く説明した。
「早期からリハビリを行い、できる範囲で体を動かしていきます」
確かに症状が安定しているなら、少しでも早く始めた方がいい。動かさない時間が長いほど、筋力・呼吸・意識の反応まで、驚くほど早く落ちて、二次的な障害を作ってしまう。脳はまだ不安定だけど、早いほどつなぎ直す力が高まるから、すぐにでも始めて欲しい。
医師が去り、病室に一瞬の静けさが戻った。
「お母さん」
母の手を握り、髪を撫でる。こんな風に母に触れた記憶が思い出せない。
私が三歳になる頃に弟が生まれた。弟は体が弱く母もかかりっきりで、甘えた記憶がない。触れる理由がなかったのか、もう覚えていない。
久しぶりに触れた母の手は、思っていたよりも骨ばって細いのに、まだあたたかい。
生きている。それが当たり前ではなかったんだ。
「お母さん」
再び呼びかけると、まぶたの下で、ほんのわずかに眼球が動いた。返事とは呼べないけれど、確かに反応した気がした。
そのとき、病室のドアが小さくノックされる。
「失礼します」
振り向くと、白いスクラブ姿の男性が立っていた。
——あ。
シルエットが重なっただけなのに、迷いはなかった。
——あの青年だ。
海斗との出会いは、詩乃の人生の歯車をどのように変えるのだろう?




