海斗との出会い
海斗とは、詩乃にとって、どんな存在なのか?
「お母さまは、急性期脳梗塞の可能性が高いです」
淡々と告げられた言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
「幸い、発症からあまり時間が経っていない。今なら、血栓を溶かす治療が適応になります」
そう言って、若い医師は、モニターに映る脳の画像を指差した。
「tPAという薬を点滴で投与します。血栓を溶かし、後遺症を最小限に抑えることが目的です。ただし……」
一瞬の間。
「出血のリスクが、ゼロではありません」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
今は小児科だが、ローテ研修で一通りの科を研修している。tPAの怖さも、その副作用も、嫌というほど知っている。
特に、母のように自己免疫疾患があり、抗凝固薬を内服している患者にとっては、決して軽視できない治療だ。
「出血のリスクは、どのくらいですか?」
医師の判断を否定できないが、思わず口を挟む。
医師は一瞬だけ言葉に詰まり、それから柔らかく微笑んだ。
「統計的には、数パーセントです。慎重に管理しますので、過度に心配されなくて大丈夫ですよ」
――数パーセント。
数字としては低く聞こえる。けれど、もしその「数パーセント」に入ったら、母はどうなるのだろう。不安が胸に広がるのを感じながらも、頷くしかなかった。
同じ医療の現場で働いてきたはずなのに、ここではただの「家族」だ。
モニターの見方や処置台の上に並ぶ器具の使い方。何をすべきか、何が起きているのか頭ではすべてわかっているのに、私は一歩も踏み込むことが許されない。
手袋をはめて駆け寄り、少しでも母の負担を減らしたい。
――それなのに。
ここでは、ただ見守ることしかできない存在だった。
父を亡くした寂しさに寄り添えなかった自分の無力感が、より一層胸を締めつける。
知識があるからこそ、できることとできないことの差が、残酷なほど、はっきりと見えてしまう。
どれほど知識を持っていても、救えない命があることを。医療とは、万能ではない。
それでも。娘として、ただ、母に生きていてほしいという想いだけがあった。
「……お願いします」
それが、最善だと信じるしかなかった。
「ピッ――
ピッ、ピッ、ピッ――
変化は突然起きた。規則正しかった電子音が、速さを変えた。
「……?」
嫌な予感が背筋を走る。
「先生、ベッド2、血圧急上昇です!」
何をすべきか、
何を確認すべきか、
頭の中には、次々と手順が浮かんでくる。けれどここでは、母に触れることすら許されない。
「ご家族の方は、一度お帰りください」
看護師のその言葉が、胸に深く突き刺さる。
帰る?
この状況で?
今、この瞬間にも、母の身体の中で、何かが起きているかもしれないのに。喉の奥が、きゅっと締めつけられた。
理性ではわかっている。ルールだから……
線引きがあるから、責任の所在が明確になる。だから、守らなければならない。
――でも。
それが、患者のためであり、医療現場を守るための、正しい判断だと信じてきたけれど、なのに。いざ、自分がその立場になると、その正しさが、こんなにも残酷だとは思わなかった。
――助けたい。
ただ、それだけ。でも……
「私、看護師なんです。何かお手伝いできることありますか?」
そう呼びかけたところでどうしようもないことはわかっている。むしろそんな申し出は迷惑だ。
看護師というプライドは、無力感によって打ち砕かれた。
何もできないまま、私は病棟をあとにするしかなかった。
緊張と恐怖が抜けたあとに、一気に押し寄せる疲労。エレベーターの扉が、静かに閉まる。
薄暗いロビーに降り立ち椅子に腰を下ろすと、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
深く、息を吐く。
そのとき、奥にある自動扉が、かすかな音を立てて開いた。
反射的に、そちらを見ると、白衣姿の青年が、ゆっくりとロビーに入ってくるのが見えた。
肩にかけたバッグと、少し疲れた足取り。すれ違いざま、ふと目があった。
――その瞬間。
薄明かりの中で光った彼の瞳が、私を捉えた。
それだけ。
なのに、先程の不安さえなかったように、説明のつかない安心感を感じた。
けれどすぐに視線は外れ、彼は、そのまま出口の向こうへ消えていった。
残されたのは、胸の奥に静かに広がる温もりだけ。
けれど、一瞬のすれ違いは、止まることなく回り続けていた運命の歯車に、ひとつの新しい歯車をはめ込み、静かに、しかし確実に回りはじめた。
――そして私は、まだ知らない。
その歯車が、
やがて、私の運命を大きく書き換える存在になることを。
一瞬の出会いにも意味がある。
心にのこる出会いは必然だ。




