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月の聖女と黒曜の精霊

作者: 櫻井

数ある作品の中から本作を見つけてくださり、本当にありがとうございます。


 

 信じていた世界そのものが偽りだった。


 それでも生きることを選ぶ、覚悟。




 ◆ ◇ ◇ ◇ 




 幾重もの階段を下りきった先、地上の喧騒が決して届かない場所に、その地下聖堂はあった。

 石壁に埋め込まれた無数の燭台が、青白い炎を揺らしている。冷たい空気がわずかに震え、死者の吐息のような静寂が満ちていた。


 セレナは、月の聖女にだけ許された白銀の聖衣の裾を引き、裸足で石の床を進む。婚礼を控えた身を浄める『清めの儀』。それは王家が千年以上繰り返してきた、厳粛で神聖な儀式だ。


 中央に据えられた巨大な黒曜石。磨き抜かれた表面は、鏡となって堂の薄暗さを映す。


 セレナはゆっくり進み出るとその前に立ち、夜色の鏡面に(おの)が姿を映す。

 本来なら、そこには自分自身の姿が映るはずだった。銀の髪、透けるような白い肌、淡い銀の瞳。月の加護を宿した、白銀の聖女としての誇り高い姿が。

 だが、鏡の中の闇がわずかに脈打ち映し出されたのは、自分ではなかった。


 思わず、息が止まる。


 鏡の奥に広がる底知れぬ暗闇。そのなかにあって一層色濃い黒い影が見えた。

 鎖につながれたそれを、よく見ようと目を凝らす。黒い翼は無惨に折れ曲がり、黄金の鎖がその付け根を抉るように食い込んでいる。長い黒髪が顔を覆い、その隙間から覗く瞳だけが、異様なほどに鋭く輝いていた。


 男だった。


 いや、それは人の姿に似せた、この世の者ならざる『何か』。


 瞬きさえ忘れ、セレナは釘付けになったようにその異形を見つめる。やがて影はゆっくりと顔を上げ、鏡の向こうから彼女を射抜いた。


 唇が、微かに動く。


 声は鏡の中からではなく、セレナの頭蓋骨を内側からなぞるように、直接、震える響きが降りてきた。


「……美しい死装束だな」


 低く、乾いた、しかし背徳的なほどに甘い響き。


 セレナは反射的に、自身の胸を抱くように手を当てた。指先に触れる白銀の聖衣。王家の伴侶となる聖女のみが纏うことを許された聖なる衣。純潔と祝福の象徴であるはずのそれが、彼の言葉ひとつで、棺の内側を埋め尽くす死白の絹のように思えてくる。


「誰……?」


 彼女の声は、聖堂の闇に吸い込まれるほどに小さかった。影は薄く笑い、揺れた鎖が微かに冷たい音を立てる。


「……名を問うのか。この、鏡の檻に棄てられた男に」


 低く、愉悦を孕んだ響き。


「知ってどうする。お前の運命は、何一つ変わりはしない。お前はこれから太陽の王子に口づけを捧げ、己の内側を黒く濁らせていく。……それが、お前の役割だ」


 セレナの瞳が、激しく揺れた。


 太陽の王子、アポロ。彼は日々、国に蔓延る呪いや疫病という名の負債を浄化している。その代償として彼にまとわりつく黒い煤を、口づけによって自らの体内へ吸い出し、浄めること。それを、セレナは聖なる使命だと信じて疑わなかった。高潔な献身と信仰の証。それを男は『濁り』だと嘲笑う。

 救いと信じた行為が、拠り所にしていた献身の心が、どろりとした得体の知れない恐怖に変質し、背中を冷たく這い上がる。


 鏡の中の男が、ゆっくりとこちら側に近づき手を伸ばした。しかし、鎖に阻まれ、指先は鏡の表面をなぞるだけで止まる。が、次の瞬間。鏡面が波紋のように揺らぎ、セレナの頬に、実際にはあり得ないはずの冷たい感触が走った。


 まるで、今まさに、その指先に直接触れられたかのように。


「綺麗な銀の瞳だ。でも、もうすぐ無残な墨色に濁る。お前の体は、国の穢れを飲み干すための器だからな。……お前は、この儀式の意味を、まだ履き違えている」


 セレナの理性が警鐘を鳴らす。彼女は後ずさりそうになる足を、必死に堪えた。聖女として育てられた彼女は、邪悪な言葉に動揺してはいけないと知っている。

 けれど、彼が口にした()という言葉に、心のどこかで何かが軋む音がした。


「この国は、俺が創った」


 独り言のようにポツリとこぼされた言葉。鏡の中の男が囁く声音には、無機質でポッカリと空いた穴のような虚無が潜む。


「そして俺を裏切った女の子孫が、今、お前を食い物にしている。……面白い巡り合わせだと思わないか」


 ふいに、男が楽しげに目を細めた。


『セレナ』


 名前を呼ばれた瞬間、総毛立つような衝撃が彼女を襲う。


 この地下で。いや、この国で。彼女を本当の名で呼ぶ者など一人もいない。知らぬ間に名を消された彼女は、ただ『月の聖女』としてのみ存在を許された。


「今夜から、お前の夢に通う。お前が見ていた光だけが、真実ではなかったと教えてやろう。お前が信じてきたものの本当の姿を知った時、お前は最後に何を選ぶのだろうな」


 震える唇を噛み、セレナは鏡から目を逸らそうとする。けれど、思うように体は動かなかった。鏡の中の影は、そんなセレナに向かい、優しく、そして残酷に微笑んだ。


「……俺の名はアルベール。かつてこの国の礎を築き、そしてお前の愛する『太陽』に裏切られ、歴史の闇に葬られた男だ」


 その名を残響として残し、青白い炎が一瞬、強く爆ぜた。

 直後、聖堂に深い静寂が戻る。


 鏡の前に崩折れたセレナは、鏡に映る自分自身と、無言のまま向き合う。

 冷たい石の上に広がった白銀の聖衣は、すでに、物言わぬ死者の衣のようであった。




 ◇ ◆ ◇ ◇




 その夜から、夢はセレナの手を離れた。


 月光を透かす薄いヴェールに守られた王宮の寝所。その柔らかく温かな場所で、彼女は静かに、深く、眠りに落ちる。


 しかし、瞼の裏に広がるのは、もはや穏やかな闇ではない。

 肌をなでる温かな空気はいつしか消え、刺すような冷気が深淵から吹き抜ける。


 そこに、黒い翼を折り畳んだ影が立っていた。

 夢の中のアルベールは、吐息さえ感じられるほど鮮明な実体を持つ。それは現実よりもはるかに濃密で、逃れようのない重さを孕んでいた。

 鎖が消え、解き放たれた双翼は、夜そのものを塗り込めたように黒く、ゆっくりと揺れた。

 彼は跪くことなど知らぬ支配者のように、冷徹な愉悦を瞳に宿し、ただ静かにセレナを見下ろしている。


「今宵は、最初の断片を見せてやろう」


 傲慢にそう告げ、彼が指を鳴らす。

 その瞬間、夢の風景は硝子が割れるように脆く崩れ去った。


 視界に飛び込んできたのは、無数の燭台が青白く燃える石畳の回廊。

 そこに、銀の聖衣を纏った女たちが、幽霊のように列をなしていた。


 歴代の『月の聖女』たち。

 美しく清らかだったはずの顔は黒い煤にまみれ、瞳は墨色に淀み、その唇からは穢れが滴り落ちている。

 一人の聖女が、喉を掻き毟りながら絶叫した。


『もう……もう耐えられない……この穢れが、私を……!』


 彼女の体は内側から侵食され、やがて透明な影となって虚空へ散った。

 かと思えば、傍らでは別の聖女が、うつろな笑みを浮かべて囁き続けている。


『あの方のためなら……』


 狂信に満ちた言葉を紡ぎながら、やがて彼女の存在は薄れ、霞と消えた。


 一人、また一人と非業の死を遂げた聖女たちの最期を見せつけられる。


 あまりの惨状に、息を詰めたセレナが後ずさろうとするも、足は凍りついたように動かない。


「……これが、お前の行く末。これまでの『月の聖女』たちが辿った残酷な未来だ」


 アルベールが背後から音もなく寄り添い、冷たい指先でセレナの頬を、静かになぞった。


「お前は、王子の過剰な光を、国の負債を、すべて受け止める器だ。代償に内側を黒く濁らせ、最後には影すら残さず消える。……それがお前に与えられた、唯一の役割だ」


 セレナは唇を噛み、震える声で搾り出した。


「……それでも、私がやらなければならないのです。太陽の輝きが強すぎて、この世界が焼き尽くされてしまうなら……私は、喜んでその影になります。それが、この世界の均衡を保つことなのだから」


 それは、幼い頃から刷り込まれてきた、呪いのような献身だった。


「均衡、か。奴らはそう呼んだか」


 アルベールは、静かに、しかし残酷に笑った。

 凍てついた三日月のような、(くら)い笑み。

 それは、彼女の純真さを嘲笑っているようでもあり、同時に、救いようのない愚かさを哀れんでいるようでもあった。


「美しい響きだが、それは真実を隠すための、ただの嘘に過ぎない。お前は救世主ではない。王家の過ちを、毎夜毎夜、身一つで肩代わりさせられている惨めな生贄だ。そして、その犠牲は決して報われることはない」


 夢の中で、セレナの胸に熱い痛みが走る。

 彼女は自分の手を見下ろした。

 白い肌の下に、細い黒い脈が一本、巻き付くヘビのようにゆっくりと這い上がっていた。

 それは、まだ小さな線だった。しかし、止める術もなく広がっている。


 アルベールは、黒い線を隠すようにセレナの手を掴んだ。強い力ではない。振り払おうと思えば、簡単に手が解ける。そんな壊れ物を慈しむような、歪んだ冷たさを感じる指先だった。


「見てみろ。すでに始まっている。お前の体は、王子の『浄化』の代償を受け入れ続けている。口づけのたび、肌の触れ合いのたび、この黒い煤が、お前の命を削る」


 セレナは目を閉じ、必死に首を振った。


「私は……私は信じています。この苦しみが、皆を救う唯一の道なのだと……」

「信じるのは自由だ」


 アルベールは囁く。


「だが、真実は剥がれ落ちる。夜ごとに、もっと鮮明に。お前がどれだけ目を背けようと、黒は広がり続ける」


 夢の風景が、再び溶け始めた。

 最後に残ったのは、アルベールの瞳だけ。深い闇の中で、ただ静かに輝く。


「……次は、もっと深いところを見せてやる。お前がどれだけ抗おうと、侵食は止まらない。そして、最後に――お前は正しく選ぶことになる」


 セレナは目を開けた。

 現実の寝所。月光が、椅子の背に掛けられたままの白銀の聖衣を淡く照らしている。


 彼女はゆっくりと胸に手を当てた。

 小さな黒い脈が一本、脈打っている。


「……っ」


 それはまだ、痛みではなく。

 始まったばかりの、呪いの鼓動だった。




 ◇ ◇ ◆ ◇ 




 セレナは、幼い頃から月の聖女として育てられた。

 その教えは、とてもシンプルで残酷だった。


『あなたの痛みが、世界の光を保つのです』


 この言葉は彼女にとって呪文であり、生きる理由であり、己の存在を証明する唯一の術だった。

 だからこそ、黒い煤が体に広がり始めても、その痛みを神聖な試練として受け入れられたのだ。


 痛みは、愛の証明。

 苦しみは、救済の証。


 そう信じていれば、耐えられた。しかし、アルベールの夢が訪れるようになってから、彼女の内側で何かが軋み始める。


 毎夜見せられる、歴代の聖女たちの無残な最期。


 彼女たちは皆、最期まで「王子のため」「国のため」と、壊れた人形のように呟きながら、黒く腐って消えていった。


 ――――私も、ああなるのだろうか。


 それでもいい、と。これまでの自分なら、迷いなく頷いたはずなのに。



 ◇



 婚礼前夜。

 王宮の私室は、月光に静かに照らされていた。

 セレナは聖衣を纏い、鏡の前に立つ。白い肌の下、這い回る黒い脈は、すでに隠しようのない現実として刻まれている。


 扉が静かに開き、アポロが入ってきた。

 眩い黄金の髪が月光を撥ね返し、その顔には完璧な微笑が浮かんでいる。

 彼はセレナの肩に手を置き、背後から慈しむように抱き寄せた。


「もうすぐだね、月の聖女。君は本当に美しい。この国を、僕を、守ってくれる……余人(よじん)をもって代えがたい理想の器だ」


 その言葉は愛のように柔らかかったが、セレナの胸を刺したのは、黒い脈よりも鋭い冷たい棘だった。

 彼女はゆっくりと振り返り、初めて、真正面から王子を見据える。


「……アポロ様。私の名を呼んではいただけませんか?」

「月の聖女?」

「……」


 ―――この方は、私の名をご存知ないのかもしれない……。


 セレナの瞳が翳る。


「私がすべてを吸い尽くして消えた後、次は、誰がここに立つのでしょう」


 アポロの微笑は、微塵も揺るがなかった。

 穏やかに、当然の真理を述べるように答える。


「次の月が来るだけだよ。僕が死に、この国が次の百年を迎える頃にね。それがこの国の正しい形、正しい循環だ。君は素晴らしい犠牲だった。いつかの明日に生まれる次の子も、君のように美しく、その身を捧げてくれるはずだよ」


 セレナの瞳が、激しく震えた。


「犠牲……。私は、あなたの愛する人ではなく、ただの……」

「そうだよ」


 アポロは彼女の頰を優しく撫でる。

 まるで壊れ物を扱うように、丁寧に。


「君は、王家の光を保つための器。それが君の役割で、僕の役割。……それが世界の均衡なんだ。だから安心して、君は正しいことをしている」


 その瞬間、セレナの中で何かが決定的にひび割れた。黒い脈が、心臓を締め上げるように鋭く痛む。

 彼女は静かに胸に手を当て、消え入るような声で囁いた。


「……ありがとうございます。もう、わかった気がします」


 アポロは満足げに頷き、部屋を去った。

 扉が閉まる音が重く響いた瞬間、セレナは鏡に映る自分を見つめた。


 銀の瞳に、墨色の影が混じり始めている。


『それが君の役割で、僕の役割』


 あの微笑は、愛ではなかった。高価な花瓶を丁寧に拭き上げるような、ただの手入れに過ぎなかったのだ。


 セレナは鏡の中の、黒く濁り始めた瞳を見つめながら、初めて自問した。


 ――――私が信じていた救いの正体は、何だったのだろう。


 捧げているのは愛なのか、それとも、この国を焼かぬための代償に過ぎないのか。


 浮かび上がった疑問は、すぐに鋭い罪悪感となって彼女を刺した。


「……そんなことを、考えてはいけない」


 自分を叱咤する。


「私が弱いから、王家の光が汚れてしまう」


 そう自分を責め立てれば、この痛みは再び『神聖な試練』へと書き換えられるはずだった。


 なのに、心の底で小さな声が、止むことなく囁き続ける。


 本当に、私一人が焼かれれば、世界は救われるのか。


 王家が安逸(あんいつ)を貪るための、使い捨ての盾ではないのか。


 黒い脈が心臓を締め上げる夜。

 セレナは寝台で身を丸め、声を殺して涙を流した。

 それは、身体の痛みによるものではなかった。

 生まれて初めて知る、裏切られた者の涙だった。

 王子を愛していた。いや、愛していると自分に言い聞かせてきた。

 でもそれは、王子個人ではなく、眩しすぎる光そのものへの信仰だった。


 その光が、実は自分を贄とする残酷な輝きだと気づき始めたとき、セレナの心は二つに引き裂かれた。


 片方は、なおも『光』を信じたいと悲鳴を上げる。


『私が耐えれば、皆が幸せになれる。私が消えれば、均衡は保たれるのだから』


 けれどもう片方は、冷たく、静かに囁きかける。


『……もう、十分だ。私が死ぬことでしか保てない世界など、偽物に過ぎない。私を殺して救われる世界など、滅びてしまえばいい』


 この葛藤は、肉体の崩壊よりも残酷だった。

 体はもう限界に近い。それなのに、心だけが醜く、しかし力強く抗っている。

 抗えば抗うほど、黒い煤は加速して広がる。

 まるで、彼女の疑念そのものが、毒を濃くしているかのように。


 そして――――




 ◇ ◇ ◇ ◆ 




 大広間の天井から降り注ぐ黄金の光の下、セレナは祭壇の中央に立ち、アポロと向き合う。


 婚礼の儀は、最高潮に達していた。


 白銀のヴェールが風に揺れ、花容(かんばせ)が見え隠れする。常ならシミ一つない透き通るような肌は、今は艶がなく病的に青白い。

 隠しようもないその様が、彼女の体がすでに限界に近づいていると知らせていた。


 黒い煤が、血管を伝って全身を侵食し、心臓を抉るように苛む。


「さあ、月の聖女。最後の口づけを」


 優しく差し伸べられた手。アポロの唇が近づく。

 セレナは目を閉じ、最後の祈りを捧げようとした。


 ――――神よ、私を導いてください。


 しかし、祈りの言葉は途中で途切れた。代わりに浮かんだのは、アルベールの声。


『お前は救世主なんかじゃない。ただの器だ』


 その瞬間、セレナは悟った。

 自分が信じていた光は、彼女を焼き尽くすための欺瞞だった。そして、自分が守りたかった正義は、最初から存在しなかったのだ。


 光に捧げられ、死ぬか。闇に身を委ね、生きるか。


 犠牲になるか。世界を焼くか。


 最後の葛藤は、ほんの一瞬だった。


「……もう、いい」


 アポロの言葉が胸に突き刺さった瞬間、初めて「違う」という声が心の奥で響いた。


 ――――もう、十分だ。


 セレナは王子の唇を受け入れる。


 黒い煤を吸い込む、神聖なる儀式。


 しかし、唇が触れ合った刹那、アポロがこれまで浄化したすべての国の負債……怨嗟、疫病、戦争の血、飢餓の呪い。そのすべてが、逃げ場のない汚泥となってセレナの内側へと流れ込む。


 彼女の白い肌の下で黒い脈が爆発的にのたうち、銀の瞳は漆黒の深淵へと塗り潰された。唇からは、とうとう黒い雫がかつての信仰を嘲笑うように滴り落ちる。


 限界を超えたセレナの体から、命の灯火が消えようとしていた。


「もう少しだよ、白銀の月。君は本当に……美しい犠牲だ」


 王子が恍惚とした笑みで囁いた、その瞬間――――。


 世界が、悲鳴を上げた。


 床が激しく震え、黄金の光を切り裂くように、黒い茨が石を突き破って噴き出す。

 地下から這い上がる闇の奔流の中から、黒い翼を広げたアルベールが姿を現した。彼はセレナを抱き寄せると、アポロの胸にその掌を押し当てる。


 冷たい声が、広間に響き渡った。


「……これまで享受してきた『光』を。月の聖女(セレナ)という器に押し付けてきた毒を、すべて本来の主へ返そう」


 静かな、死の宣告。


 突然の闖入者に驚き、完璧な微笑を浮かべたまま固まっていたアポロの脈動を黒い茨が浸蝕すると同時に、毒の流れが反転した。


 次の瞬間――――。


 彼の黄金の髪は焼かれた枯草のように腐り落ち、肌は溶けるように黒い煤に覆われていく。瞳からは、彼が軽蔑していたはずの墨色の涙が溢れ出した。

 かつての太陽の化身は、己が溜め込んできた毒に蝕まれ、おぞましい亡者へと変貌を遂げる。


 ――――これは、断罪だ。


 王子は絶叫し、自らがセレナに負わせてきた『穢れ』そのものを体現していく。

 麗しい顔貌(がんぼう)は崩れ、黄金の栄光は完全に否定された。広間は混乱に包まれ、偽りの光が急速に色褪せていく。


「これがお前の守りたかった光。お前が命を賭けて支えていたもの。生贄を食らい繋いできた、醜悪な真実の姿だ」


 広間に集まった人々は、我先にと逃げ出した。逃げ遅れた者たちは、あまりの恐怖に息をすることすら忘れている。


 耳に届くのはただ、怪物へと成り果てたアポロが無様に這いずり回る音と、荒く湿った息遣いだけだ。


「助けて……月の、聖……私を浄化してくれ。君がいなければ、私は……」


 異形と成り果ててもなお、かつての優しい声音で救いを求め、彼女に縋りつく。その卑屈な言葉を遮るように、アルベールがセレナの手を取った。


「さあ、選べ。この醜い怪物を救い、最期まで命を吸われ続けて死ぬか。それとも……俺の手を取り、俺だけの魔女として生きるか」


 冷徹な問いかけ。しかし、その声音には常にセレナを一個の人間として慈しむ響きが潜んでいた。

 セレナは、アポロから吸い取った毒で真っ黒に染まりきった己の手を見つめる。

 次いで、怪物の瞳に宿る、どこまでも身勝手な絶望を見た。


「お前がこれまで信じてきた正義を、自らの手で灰に変える覚悟はあるか」


 ゆっくりと王子から目を逸らしたセレナは、アルベールの手を折れんばかりに握り返す。


 それは、長きにわたる信仰の放棄。

 同時に、彼女が生まれて初めて自らの意志で行った、本当の選択だった。


「セレナ……」


 返すべき言葉を持たない彼女は、最後に残った月の力を薄い唇に乗せ紡ぐ。それは、慈悲の歌ではなく昏い月の呪詛。偽りの光に満ちた世界を永遠の夜に葬り去る、美しき葬送曲だった。



 ◆



 太陽の死んだ王都の陽光は、永遠に途絶えた。


 異形と化したアポロは民衆の憎悪に飲み込まれ、かつての太陽の王子の面影は、誰の記憶にも残らぬほど無惨に霧散した。


 セレナは世界を焼く魔女として、歴史に刻まれることになるだろう。


 彼女が背負った罪の重さは、彼女自身の魂よりも重い。

 しかし、それはもう彼女にとってはどうでもよいことだった。


 アポロの末路を看取ることなく、かつての聖女は『魔女』の称号を纏って歩き出す。横を歩む男が差し出した、冷たい手。

 アルベールと共に踏み出す先は、光に焼かれることのない、優しき永遠の停滞……夜の国だ。


 崩落する黄金の城が黒い雪のように舞い散り、世界は終わりを告げる。


 ここに、神の慈悲はない。


 ただ、世界に裏切られ、見捨てられた二つの魂だけが、ようやく唯一無二の真実を掴んだ。


 重なり合う拍動だけを信じ、二人は、夜の闇に沈んでいく――――。




お時間いただき有難うございました。



どうせまともな異世界恋愛展開できないならヴィランに寄ったれ

と、こうなりました。

アレレぇ〜おかしいぞ〜?


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