9 恋の芽生え(クラウス視点)
王太子クラウスは、馬車の小さな窓から街を見下ろしながら、胸の奥に膨らむ複雑な感情を持て余していた。
――視察は慣れている。
王家の人間として、生まれた時から何度も見てきた光景だ。
けれど今日の視察は、いつものそれとは違っている。
隣に、彼女がいるからだ。
リディア・フォン・アーデルハイト。
長い金の髪束ね、清潔で端正な制服をまとった侯爵令嬢。
気品ある立ち姿は、どこにいても人の目を引く。
ゆえに――クラウスの目も自然と彼女に引き寄せられてしまう。
***
街に降り立った時のこと。
リディアは、下町の空気に初めて触れたように目を見張っていた。
「……こんなに活気があるのですね」
「驚いたかい?」
「はい。けれど、それだけではありませんわ。
ここには“必要とされているもの”がたくさん見えます。
この路地の奥――水の流れが滞っています。
恐らく排水の問題では?」
クラウスは息を呑んだ。
彼女の視線が向かった先には、確かに市民から苦情が多く寄せられていた場所だ。
「気づいたのか……?」
「ええ。水たまりの匂いで分かりました。
冬に近づけば、これは病の原因になります」
(……彼女の目は、街を飾り物ではなく、“未来の国”として見ている)
そこに胸が妙に熱くなる。
気品ある言葉遣いの奥に、冷静な観察眼。
そして、自分の責務として自然に“民のため”を考える姿勢。
(どうして……君はそんなに先を見ている?
どうして、“王妃に求められる資質”を当然のように持っている?)
クラウスは無意識に、彼女を目で追う。
メリルが躓きそうになれば手を伸ばし、
市場では店主たちに礼を欠かさない。
そのどれもが“義務ではなく、習性のように自然”だった。
――気品は作れる。
――だが、善意は誤魔化せない。
リディアの善意は、誰の目にも嘘ではなかった。
***
そして――
アイスクリーム店での、あのひと幕。
「リディア、おいしいかい?」
「あ……はい。とても。
ミルクの香りが爽やかで……!」
小さく舌に触れるように味わい、目を細めて笑う。
その無防備な笑顔を見た瞬間、クラウスは胸が大きく揺れた。
(……可愛い)
予想外の感情が滑り込んできて、危うく落としてしまいそうになる。
彼女がハンカチでメリルの口についたアイスクリームを拭った時も、
その優しさが胸に刺さった。
その動作ひとつひとつが、
どうしようもなく心を奪ってくる。
(……いや、これは。おかしい)
自分は王太子だ。
結婚は政治でもあり、血筋の責務でもある。
しかし――
この日、彼の視線はほとんどリディアしか追っていなかった。
***
そして、アイテム――ピアスを渡した時。
あれは、ただの思いつきではなかった。
街を見回るうちに、自然と渡したくなったのだ。
(君に……もっと笑ってほしい)
そう願っていると気づいた時、クラウス自身が最も驚いた。
リディアが戸惑いながらも受け取った瞬間、
胸の奥で固いものがすっと溶けていった。
まるで、ようやく息が出来たような安堵だった。
彼女の耳にこのピアスが触れたら。
どんな輝きを帯びるのか。
どんな表情を見せてくれるのか。
想像するだけで胸が温かくなる。
――私は、何を考えている?
王太子としての判断ではない。
一人の“少年”の感情だ。
戻る馬車の中。
アイスクリーム店でのリディアの笑顔が何度も脳裏に浮かぶ。
気づけば、口の中で自然と呟いていた。
「……リディア。君は……」
胸を押さえ、目を閉じる。
「私は……彼女に、惹かれている……」
自覚した瞬間、鼓動が速くなる。
あまりに強く、あまりに真剣で、逃れようがない。
馬車の揺れの中で、彼はそっと目を閉じ、
初めて“恋”という名の痛みに気づいた。




