29 一陣の“闇”
夜の王宮は、これまでになく華やかに彩られていた。煌めくシャンデリアの光は広間いっぱいに反射し、豪華な絨毯や金色の装飾を照らしていた。各国の要人、貴族、外交官たちが色とりどりの礼服を身に纏い、談笑と笑い声が広間に満ちている。音楽家たちが奏でる旋律は、軽やかな舞踏を踊る人々のステップに合わせ、場を一層華やかに演出していた。
リディアは、普段ならただ楽しむだけの舞踏会を、慎重に観察していた。周囲の貴族たちの表情、侍女や執事たちの動き、空間に漂う緊張感の微細な揺らぎ……。彼女の直感が、わずかな異変を察知する。耳に届く音楽が、かすかに震え、空気が微妙に重くなった瞬間を見逃さなかった。
「……妖魔…………」
リディアはクラウスの腕に手を置き、視線を広間の隅々へと巡らせた。彼もまた、異変を察知したのか、眉をひそめている。その瞬間、広間全体の空気がひんやりと冷たく変わり、かすかな振動が足元から伝わってきた。まるで大地そのものが息を潜めているかのように。
「来たか……?」
背後から、低く唸るような音が響く。人々のざわめきは次第に途絶え、緊張の波が広間全体を覆った。ヴァイオリンの弓が空を切り、管楽器の音も途絶える。シャンデリアの光がかすかに揺れ、広間に不自然な影が伸びる。誰もが、息をのんでその影を見つめた。
その瞬間、低く、地鳴りのような振動がさらに強まる。人々の足元が微かに揺れ、砂利や小さな装飾品が転がる。広間の片隅で、女性の悲鳴が鋭く響いた。「きゃあっ!」その声は、他の人々の恐怖を増幅させる。礼服やドレスを乱し、金銀の装飾が光を反射しながら散乱する。王族や貴族、外交官たちも、長年の社交の作法など忘れ、ただ出口へと走るしかなかった。
そして、広間の中央に――異様な影が立ち上がる。
まん丸のボディにアザラシのような手と尻尾、
キツネのような耳にくりくりの目。
全体の色は真っ白で、一部にピンクが入っている。
前世でいう所の何かのキャラクターのような可愛らしい姿。
(いかにも「乙女ゲーム」という感じね…………)
しかし、その可愛らしい姿とは裏腹の、とてつもない力を感じる。
恐怖で体が竦む。この国を亡ぼすとされるその力が、この場を支配する。
「妖魔……!」
クラウスが低く叫ぶ。王太子としての威厳と、妖精の加護を受けた者としての冷静さが、彼の立ち姿に滲んでいた。彼は瞬時に周囲の護衛や王族の警備を確認し、戦術を練りながら前に踏み出す。広間は混乱の渦に包まれ、人々は叫びながら逃げ惑う。貴族の老紳士や婦人たちも、これまでの社交経験を忘れ、ただ生き延びるために動くしかなかった。
リディアも体が自然と前に進むのを感じた。恐怖で足がすくむどころか、彼女の心は勇気で燃え立っていた。視線の先には、王妃候補たち――アニエス、セレナ、メリル――が立っている。彼女たちもまた、恐怖を抑え、立ち向かう決意を示していた。
「行くわよ!」
アニエスの声が響く。冷静で気高い彼女の瞳には、恐怖よりも確固たる決意が宿っていた。セレナも頷き、魔法の構えを取る。メリルは小さく息を整え、回復魔法の準備を整える。リディアも負けじと炎の魔法を手に握り、仲間たちと共に立ち向かう覚悟を固めた。
クラウスが前に出る。王太子としての威厳、そして妖精の加護を受けた者としての冷静さが、彼の姿に滲む。リディアはその背中を見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じた。恐怖の中にあっても、信頼できる人がいる――その事実が、彼女に力を与える。
「皆、私の後ろに!」
クラウスの声に、王妃候補たちは自然と集まる。リディアもその中に入り、妖精の加護を感じていた。
巨大で可愛らしい妖魔はその圧倒的な存在感で広間を支配していたが、クラウスたちは恐怖に屈せず立ち向かう。
広間の空気はさらに緊迫する。逃げ惑う人々の叫び、妖魔の咆哮、魔法の閃光が飛び交う。クラウスは手を掲げ、前方の妖魔に向かって補助魔法を発動した。光の帯が妖魔の皮膚をかすめ、煙のような霧が渦巻く。王妃候補たちも各自の力を発揮し、リディアは炎の魔法で妖魔の足元を封じる。
「絶対に負けない……!」
リディアの心が叫ぶ。恐怖を振り払うように、力が体中にみなぎる。クラウスはその力を見て、微笑むように頷いた。二人の心が、戦場の混乱の中で確かに通じ合った瞬間だった。
巨大妖魔は更に巨大化する。広間の光を覆い尽くしてなおその姿は可愛い、しかしそれが逆に恐怖心を増幅させる。
しかし、リディアとクラウス、そして仲間たちは恐怖に屈せず前に進む。王宮のシャンデリアが揺れ、ガラスがかすかに砕ける音が響く中、戦いの幕が開いた。
王族、貴族、妖精契約者たち――そのすべての目が、国を守るために立ち上がった少女たちに注がれている。恐怖と混乱の中で、リディアは確信していた。今日、この瞬間こそが、運命を変える最初の一歩なのだと。




