16 王宮の庭
王宮に足を踏み入れるたびに、胸の奥で小さく震えるものがあった。
威厳ある大広間の天井を支える白大理石の柱。磨きこまれた床に映るシャンデリアの光。
いつ来ても思う——ここは、自分の立つ場所ではない、と。
しかし今日は違った。
クラウスの使いであるカインに案内され、連れてこられたのは王宮の奥に広がる庭園だった。
高い垣根に囲まれ、外の喧騒など微塵も感じられない。春の花々が咲き乱れ、風に乗って薄い香りが流れていく。
「リディア様、お疲れでしょう。殿下はまもなくお越しになります」
「ありがとう、カイン……。少し休ませてもらうわ」
カインが離れると、庭に静寂が戻る。
並んだベンチのひとつに腰を下ろし、リディアは深く息をついた。
——胸が苦しい。
理由はわかっている。
ダンジョン攻略の最中に見えた“未来の強制力”。
ゲームのイベントが、細かな差異を無視して修正されるように進んでいく恐怖。
わかっている。
そんなことを気にしたって仕方ない。
だが胸の奥に残った苦味はどうしても消えなかった。
ふと、足元で風が揺れた。
「リディア」
振り向くと、クラウスが立っていた。
淡い風が彼の銀髪を柔らかく揺らし、陽光を反射してきらめかせる。
いつもより優しい表情で、だが少しだけ心配そうに。
「顔色が優れない。無理をさせてしまったか?」
「そんなことありません。殿下こそ、ダンジョンのあと、お疲れでは……」
「僕は大丈夫だ。それより——君が気になる」
その言葉に、心臓が跳ねる。
クラウスは静かに歩み寄り、隣に腰を下ろした。
距離が近い。けれど、嫌ではない。
むしろ——少し安心する。
「……何か、あったのだろう?」
優しい声。
リディアは俯き、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「殿下……もし……もし私が、殿下の足を引っ張る存在だったら……?」
「足を?」
「ええ。私がいるせいで、ゲーム……いえ、未来が崩れるかもしれない。」
「……なるほど」
クラウスはリディアの手をそっと包み込むように握った。
——暖かい。
「その“未来”とやらは、そんなに確かなものなのか?」
「固定された運命があるみたいなんです……」
そして、リディアの目をまっすぐに見つめてくる。
「だが、その未来に“誰と立つか”は君自身が決めればいい」
視線が絡まり、呼吸が止まる。
「僕は……君と一緒に未来を選びたいと思っている」
「殿下……」
「リディア。君は強い。優しい。誰かを救おうとする気持ちが、人一倍強い。
そんな君が……自分を責める必要なんてどこにもない」
声が震えそうになるのを必死に抑える。
クラウスの手が、そっとリディアの頬に触れた。
「君がいてくれたから、僕は……自分の弱さを認められた。補助魔法の力を伸ばすこともできた。ダンジョンでの君の判断がなければ、誰かが怪我をしていたかもしれない。……君がいたから僕は守れた」
「私は……ただ……」
「いいんだ。君の努力は、ちゃんと届いている」
クラウスは微笑む。
その顔は、王太子としての威厳よりも、ひとりの青年の優しさを色濃く帯びていた。
「リディア。僕は……君を愛している」
その言葉が落ちた瞬間、世界が止まったように感じた。
言葉の意味を理解するのに、ほんの少し時間が必要だった。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、身体の隅々まで熱が広がっていく。
「どうか……僕の隣にいてほしい」
まっすぐな瞳。
偽りのない想い。
「殿下……どうして……私なんかに……」
「“私なんか”ではない。僕は、リディアという人間に惹かれた。地位でも、運命でもない。君の心に惹かれたんだ」
涙が零れそうになり、リディアは唇を噛んだ。
「未来がどう変わるかなんてわからない。でも……君となら、どんな未来も乗り越えられる気がするんだ」
そして、彼はそっとリディアを抱き寄せた。
胸に響く鼓動。
暖かい腕の中。
——生まれて初めて、心の底から安心する場所ができたような気がした。
「殿下……私……」
言葉にならない。
だけど想いだけは溢れ出す。
「……好きです。殿下が……好き」
その瞬間、クラウスの腕が少しだけ強くなる。
「リディア……」
彼はゆっくりと顔を寄せ、そっと唇を重ねた。
触れ合うだけの、優しい、けれど確かなキス。
春の風が、二人の周囲をふわりと包み込む。
どこかで妖精の光が揺れているのが見えた。
——運命は、本当に変わるかもしれない。
そんな確信が胸に生まれた。
クラウスが唇を離し、額をそっと重ねる。
「これから先、何があっても……僕は君の味方だ」
「……はい」
リディアは涙を拭い、彼の胸にそっと手を置いた。
彼の鼓動と、風の妖精ヴェイルの囁きが小さく重なる。
未来がどうであれ。
どんな強制力が働こうと。
——この瞬間だけは、自分の選んだ道を信じていい。
そう思えたのだった。




