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【第9話】咲ききれなかった花

怒りや悔しさの裏には、言葉にならなかった想いが隠れていることがあります。

今回の花は、“舞台”という場所に置き去りにされた、ある青年の「言えなかった気持ち」から生まれました。

強い感情が花に変わるとき、その奥にある本当の心が少しだけ見えてくるのかもしれません。

扉がそっと開いたとき、外はまだ朝靄に包まれていた。


足音を立てずに入ってきたのは、一人の青年だった。

長めの黒髪に、くたびれたコート。俯きがちに歩く姿は、まるで影が歩いているかのようだった。


「……いらっしゃいませ」

詩織がそう声をかけたが、青年は答えなかった。


ただ、黙って、温室の中央に置かれた鉢をじっと見つめていた。

その視線は、何かを探すようでもあり、何も見ていないようでもあった。


俺と千尋も、あえて言葉を交わさなかった。

彼のまとう空気が、今はそっとしておいてほしいと語っていたからだ。


代わりに、温室の空気が彼を包む。

花々の香り、やわらかな光、揺れる葉の音。

それらが、少しずつ、彼の肩の力を抜いていくようだった。


ふと、彼の指先が、鉢の縁に触れた。

ぴくりと手が震えたのが見えた。


次の瞬間、鉢の中から黒紫の蕾がひとつ、ゆっくりと立ち上がった。


蕾は、まるで咲こうとしながらも、何かに抗うように、途中で止まった。

花びらは重く閉じたままで、光を吸い込むような色をしていた。


「……咲かないんだね」と、千尋が小さく呟いた。


それは、咲ききれなかった想い。

表に出せなかった、伝えられなかった、心の奥底に沈んだままの感情。


青年は、しばらくその蕾を見つめていたが、やがて背を向けて、無言で出ていった。


何も言わず、何も残さずに。


けれど、その足音は来たときより少しだけ、軽くなっていた気がした。


青年が去ったあと、千尋はしばらく沈黙していた。

「咲ききれなかった花って、痛々しいね」と詩織が言った。

「でもさ、咲かなかったからこそ、その人の心にずっと残ってたのかもしれない」と、俺は思った。


次の日、同じ時間にまた彼は現れた。

昨日と同じコート、同じ無言。

けれど、今日は鉢の前に立ったまま、長くそこにいた。


「……舞台に立ってたんだ、俺」

ぽつりと、声が落ちた。

「誰かになれる気がして、スポットライトの下が、俺の全部だった」

手のひらが震えていた。「でも……怪我して、降ろされた。二度と立てないって言われてさ。俺には、もう何もないって、思った」


そのとき、蕾が小さく震えた。

ゆっくり、ほんのすこしだけ、花びらがほどけた。


「言葉じゃなかったんだ、俺が伝えたかったのは。目線とか、声の間とか、そういう全部が、想いだったのに」


彼の声はかすれていたけれど、確かに届いた。


俺はそっと、空いている鉢を差し出した。

「……もし、また芽を植えるなら」

彼は小さくうなずいた。


それは、咲ききれなかった花に、もう一度チャンスを与えるような時間だった。


青年が温室を訪れるようになって、三日目の朝だった。


今日は静かに椅子に腰かけ、手帳のようなものを開いていた。

そこには、走り書きの台詞や演出のアイディアらしき言葉がびっしりと並んでいた。

「……演じることで、自分を伝えられる気がしてたんだ」


そう漏らした声は、昨日よりずっと澄んでいた。

「舞台の上じゃ、誰にも見せられなかった自分を、表に出せた。でも……今の俺じゃ、誰にも届かない」


沈黙の中、詩織がそっと近づき、小さな種を彼に手渡した。

「これ、“ことばの種”です。よかったら、植えてみませんか?」


彼は戸惑いながらも受け取り、空いていた鉢の中にそっと落とした。

そして、小さなスコップで土をかぶせる。


しばらくして、芽が出た。


けれど、今度は違った。

かすかに赤みが差す芽は、光に向かってまっすぐに伸びていた。


「……俺、まだ怖いんだ。もう一度、誰かに何かを伝えようとするのが」

彼はそう言ったあと、自分でも気づかないように、手のひらをぎゅっと握っていた。


「でも、伝わったよ」と千尋が言った。「君の想い、ここに残ってる」


その言葉に、彼は小さく笑った。

ほんのかすかに、けれど確かに、頬の端がやわらかく上がっていた。


咲かないと思っていた花が、また芽吹いたように見えた。


その日の帰り際、青年は一輪の花を見つめた。

まだ咲きかけの、小さな赤い蕾。

「名前、あるんですか」と、ぽつりと尋ねた。


詩織がうれしそうに微笑んだ。

「まだ、ないんです。これは……あなたの花になるかもしれませんね」


青年は小さくうなずいたあと、手帳を取り出し、何かを書き込んだ。

「俺、明日また来てもいいですか?」

その言葉に、千尋も俺も、迷わずうなずいた。


外に出ると、朝の光が少し強くなっていた。

彼の背中は、最初に見たときよりもほんの少しだけ、まっすぐになっていた。


咲ききれなかった花は、もしかしたら、まだ咲こうとしている。

そんなふうに思えた朝だった。


次の日、青年は約束通りやって来た。

開店前の静かな温室に、彼の足音が響く。


「……少しだけ、また思い出したんだ。自分が舞台に立って、誰かの涙を見たときのこと」

青年は鉢のそばにしゃがみこみ、そっと指先で蕾に触れた。


「誰かの心を動かすって、すごいことだった。あれをもう一度……いや、形は違っても、もう一度やってみたいと思った」


詩織が温室の奥から、小さなラベルを持ってきた。

「花の名前、決めますか?」


青年は考え込んだ末に、ぽつりと呟いた。

「“ともり”。もう一度、心に火を灯すって意味で」


そのとき、蕾がふわりと揺れ、赤い花がゆっくりと開き始めた。

青年が名付けた赤い花——“ともり”は、それからも少しずつ大きくなっていった。


四日目の朝、温室にはほのかな香りが漂っていた。

赤く咲いた“灯”の周囲には、いつの間にか小さな蕾がいくつも顔を出していた。

「不思議ですね。あの花が咲いたら、他の鉢も芽吹き始めたんです」


詩織がそう言うと、青年は照れくさそうに笑った。

「花が花を咲かせる……なんて、ちょっと芝居じみてますけど、嬉しいです」


千尋が頷いた。「君の想いが誰かに届いたとき、その誰かの心にも種が落ちるのかもしれないね」


青年は、ゆっくりと深呼吸をした。

そして、静かに言った。


「実は……ひとつ、伝えたい言葉があるんです。ずっと言えなかったこと」


彼の声には、もう迷いがなかった。


千尋は、うなずくだけで続きを促した。

青年は、しばらく“灯”を見つめてから、語り始めた。


「大学時代、ある劇団の同期に、何でも話せる親友がいたんです。明るくて、誰よりも才能があって……。

でも、あるとき彼が舞台から降りた。理由は聞かなかった。聞けなかった。いや、本当は、怖かったんです。答えが自分にも突きつけられる気がして」


彼は、拳をぎゅっと握った。


「彼がやめたあとも、俺はしがみつくように舞台に立ち続けた。でも、心はずっと遠くて、誰かの言葉も、拍手の音も、届かなかった。

本当は、ずっと謝りたかった。“あのとき、ちゃんと話を聞いていれば”って」


そのとき、“灯”の花びらがふるふると震え、隣の蕾が一輪、そっと咲いた。

それは、やわらかくて深い橙色の花だった。


「……伝わったのかもしれないね」千尋がつぶやいた。

「君の“言えなかった言葉”が、この花になって」


青年は花に顔を近づけ、静かに香りを吸い込んだ。

そして、涙を流すでもなく、ただ小さく笑った。


「ありがとう。ようやく、俺の中で舞台が終われた気がします」


青年が帰ったあとの温室は、いつもよりも静かだった。

“灯”と橙の花は、並んでゆっくりと揺れていた。


詩織がそっと記録帳を開き、今日の花のことを記していく。

「“灯”、そして“灯の返歌へんか”。そんな名前で記録してもいいですか?」

千尋はうなずいた。


「花が言葉の代わりになるなら、こうして記録することが、その人の想いを未来に渡す橋になる気がする」


それから数日後、青年は以前よりも明るい表情で温室を訪れた。

今度は、小さな紙袋を手にしていた。


「劇団の後輩たちに、連絡してみました。もう一度だけ、小さな朗読会をやろうと思います。

その……この場所で咲いた花を、きっかけにできたらと思って」


温室の中央で、彼の“再出発”がはじまろうとしていた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

第9話は「咲ききれなかった花」というテーマで、過去の痛みと向き合いながら再び歩き出そうとする姿を描きました。

感情はときに言葉よりも重く、でも言葉になったとき、それは誰かの光になることがあります。

次回もまた、花が導いてくれる物語をお届けします。

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