【第8話】名前のない想いの種
夢を言葉にするのは、勇気がいる。
たとえばそれが、ずっと抱えてきた本当の気持ちだったなら――
なおさら「声にすること」が、こわくなる。
今回の来客は、高校生の少女・葵。
彼女が植えたのは、まだ咲かない“願いの種”。
静かな雨音のなか、少しずつほどけていく心を描きます。
ぽつり、ぽつりと雨粒がガラスを叩いていた。
閉店時間まであと少し。静かな店内に、ふいに扉の鈴が鳴った。
「すみません、もう閉まってたりします?」
差し出された声は、驚くほど明るかった。けれどその声の後ろに、少しだけ沈んだ気配が見えた。
制服姿の女の子が立っていた。肩まで濡れたセーラー服、靴下はしっとりと水を含み、手にしたビニール傘からぽたぽたと雫が落ちている。年の頃は高校二年生くらいだろうか。
「あと少しだけ大丈夫ですよ」
千尋がそう言うと、彼女はほっとしたように笑って傘を畳んだ。傘立てにそれを差し込むと、店内をゆっくりと見渡す。けれどすぐには中へ入ってこない。まるで、なにかを言いたくて、その“なにか”を探しているような足取りだった。
「このお店、前から気になってたんです。図書館の掲示板で見つけて……お花、好きで」
小さく笑いながらも、その目はどこか遠くを見ていた。
「よければ、温室のほうも見ていってくださいね」
詩織が声をかけると、女の子は少しだけ目を丸くして、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。あの……変な質問かもしれないんですけど、このお店って……お話、聞いてくれたりしますか?」
詩織と千尋が顔を見合わせる。
「ええ、もちろん」
そう答えると、女の子――葵と名乗った――は、少しだけ胸をなでおろしたようだった。
彼女は棚の花を見ながら、ぽつぽつと話し始めた。
「実は……いま、ちょっと悩んでて。進路のことなんですけど、親には大学って言われてて。でも、わたし、美術の専門学校に行きたくて……」
「絵を描くのが好きなんですね」
詩織の声に、葵はうなずく。
「ちっちゃいころからずっと絵本が好きで。お話を考えるのも、絵を描くのも。でも、そんなの“ちゃんとした仕事”じゃないって思われる気がして……親には、まだ言えてないんです」
笑いながら話すその口調のなかに、ためらいや不安が混ざっていた。
「この間も、リビングで進路の話になって。でもなんとなく、『大学に行くつもりだよ』って嘘をついちゃって。お母さんがすごく安心した顔したから、なんか、もう……」
葵はふっと、ため息をこぼす。口元には笑みがあるのに、声の端が少し震えていた。
でも、ほんとは今でも覚えてるんです。小学校のとき、学校の図工で“将来の夢”って絵を描く時間があって。私、絵本作家って書いたんです。そしたら先生がすごく褒めてくれて……その日から、ノートに物語を描くのが楽しくなった」
詩織は小さくうなずいた。
「私も……昔、ダンスが好きだったんです。でも家の事情でやめて、誰にも言えなかった。だから、夢を話すって、すごく勇気がいりますよね」
千尋は、小さな銀の箱を棚から取り出す。そして、静かに温室の奥へと案内する。
「もし、よければ。ここに、ひとつだけことばの種を植えてみませんか」
葵は不思議そうに銀のスコップを受け取り、小さな鉢に手をかけた。そして、ことばの種を手のひらにのせたとき、不意にその目に光が浮かんだ。
「本当は……ずっと、絵本作家になりたくて。子ども向けの本を、自分で描いて届けられる人になりたくて。……でも、笑われるかもしれないって、怖くて」
ぽつり、と。言葉が落ちた。
それはまるで、胸の奥にしまっていた想いが、少しずつ形になって地面に落ちていくようだった。
彼女はことばの種を、そっと鉢に置いた。土に触れた種はすぐに見えなくなったが、葵はしばらくその鉢の前から動こうとしなかった。
「……なんか、不思議ですね。声に出したら、ちょっとだけ本当になりそうな気がする」
しかし、花は咲かなかった。
数分たっても、芽の影すら見えない。
葵はそれでも笑っていた。けれど、その笑顔はどこか寂しかった。
「……やっぱり、まだ怖がってるのかな、わたし。種だけ植えて、逃げてるみたいで……」
詩織が隣に座った。優しく、ゆっくりとした声で言う。
「でも、植えたってことは、ほんの少しでも“咲いてほしい”って思ったんですよね。きっとそれだけで、芽が出る準備はできてますよ」
葵は何も言わなかった。ただ、小さくうなずいた。
そのとき、店の外の雨がぴたりと止んだ。
窓の外には、傘を持たずに帰っていく人の姿。
葵が「もう帰らなきゃ」と立ち上がったときだった。詩織が小さく声を上げる。
「……あっ!」
見れば、鉢の中央に、小さな黄緑の芽が出ていた。ひょろりとした茎が、まるで眠りから目覚めたように揺れている。
葵は、思わずしゃがみこんでそれを見つめた。
「……咲いた、の?」
翌朝。鉢には、小さな黄色の花が咲いていた。
花の中心には、ほんのりと桃色が混ざっていて、まるで朝焼けの空のようだった。
詩織がその花に名前をつけ、記録帳に記す。
――〈ひとひらの未来〉
――花言葉は「まだ怖いけれど、一歩を踏み出す」
雨の匂いが、まだかすかに残っていた。
葵が帰ったあと、千尋は静かに鉢の前にしゃがみこんだ。そこにはもう、黄色の花が静かに咲いていた。
「きれいですね……」
詩織がつぶやく。
「でも、なんだかまだ咲ききってないような……そんな気もする」
「……あの子の“夢”、まだ途中だからかもしれないな」
千尋はそう言って、そっと花びらを指先でなぞった。
その中心には、ほんの少しだけ朝焼けの色が混じっていた。夜と朝の境目のような、迷いのような、それでも確かに前を向いている色。
記録帳に記すべき言葉を、詩織は少し悩んでからペンを取った。
――名前:ひとひらの未来
――花言葉:「まだ怖いけれど、一歩を踏み出す」
翌朝。葵は、自宅の玄関の前で立ち止まった。
右手には、昨日もらった小さなメモ紙。
“夢は、声にしなくても、咲くことがある”
彼女はそれをそっとポケットにしまい、制服の胸を軽く叩いた。
その日から、少しずつ、葵は自分の言葉で未来を描き始めるようになったという。
言葉にできなかった夢。
誰かに話したいのに、話せないこと。
葵が胸にしまい込んでいた“願い”は、声にならなくても、花として咲いてくれました。
それは、ほんの小さな一歩かもしれません。
けれど、その一歩が未来へとつながっていくと信じています。
読んでくださり、ありがとうございました。