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【第7話】傘の中の約束

子どものころに交わした約束を、あなたは覚えていますか?


第7話では、ある雨の日に温室を訪れた少年と、彼を見つめる少女の小さなすれ違い、そして優しい再会を描きました。

子どもの言葉はたどたどしくても、そこにはまっすぐな想いが込められていて——

その記憶は、たとえ時が経っても、心のどこかに咲き残っているものです。

ある雨の日、小さな女の子がひとり、花屋の前で立ち尽くしていた。

その姿が、俺の心の奥に残っていた“あの日の傘”と重なって見えた――


空はどんよりと重く、雨脚は強まる一方だった。

閉店間際の温室に、ぽつぽつと水音が響く。


少女は、まだ幼い。たぶん、小学三年生か四年生くらい。

黄色いレインコートに包まれて、真っ赤な長靴のつま先を濡らしながら、扉の前に立っていた。

だが、なぜか扉を開けようとしない。


俺が中から軽く扉を押すと、かすかに音がして、少女がびくりと肩をすくめた。

一瞬、逃げるかと思ったが、彼女はむしろ、おそるおそる中をのぞき込んできた。


「……あの、ここって、お花、咲くんですか?」


小さな声だったが、ちゃんと届いた。

俺がうなずくと、少女はほっとしたように、長靴のまま小さく一歩、足を踏み入れた。


「ほんとに、お花……? “おもい”が咲くって、ここですか……?」


“おもい”――彼女のその言葉に、俺は少しだけ驚いた。


どうやらこの場所のことを、何らかの形で知っているらしい。

俺が視線で「どうしてそれを知ってるの?」と問うと、少女は小さなメモ帳を取り出した。

そこには子どもの字で、ひらがなで書かれた一行があった。


『おもいをはなにして わすれないようにするばしょ』


それはまるで、誰かから託された合言葉のようだった。


「誰に教えてもらったの?」


問いかけると、少女は少しだけうつむいた。


「……おばあちゃん。前にね、病院で話してくれたの。“泣きそうな日があったら、そこに行ってごらん”って」


俺は頷き、そっと温室の奥の椅子を指さした。


少女は静かに腰を下ろした。濡れたレインコートの袖をきゅっと握ったまま、小さく息をついた。


「きょう……約束だったの。だけど、守れなかったの」


「どんな約束だったの?」


少女はしばらく口を閉ざしていたが、やがてぽつりとこぼした。


「友だちと、“またいっしょにかさに入ろうね”って。でも、あの子……きょう、引っこしちゃった」


ぎゅっと握りしめられた手から、ひとしずく、雫が落ちた。

雨ではなく、彼女の涙だった。


俺はそっと、ことばの鉢を彼女の前に置いた。

銀のスコップと、小さな“ことばの種”も添えて。


「やってみる?」


少女はこくりとうなずき、手を伸ばした。


彼女の胸に残る“言えなかった約束”が、そっと芽吹く。

やがて、鉢の中にやさしい光がともり、小さな薄桃色の花が咲いた。


花弁は、まるで濡れた紙の


翌朝、空はすっかり晴れていた。

昨日の雨が嘘のように、花屋の前にはやわらかな光が差し込んでいた。


温室の扉を開けると、玄関の前にひとつの傘が置かれていた。

赤くて、小さな子ども用の傘だった。

持ち手には、リボンで結ばれた紙がついている。

そこには子どもの丸い字で、こう書かれていた。


『ありがとう またくるね』


昨日の少女が残していったものだと、すぐにわかった。

俺は傘を手に取って、そっと微笑んだ。


「朝から、誰か来てたの?」


ちょうど出勤してきた詩織が尋ねてきた。

千尋も後ろから顔をのぞかせる。


「うん、小さなお客さんだった」


俺がそう言うと、詩織は少し嬉しそうに笑った。


「じゃあ、記録しておかないとね。どんな花が咲いたの?」


俺は瓶の中に保存してあった、薄桃色の小さな花を見せた。

真ん中に、ひらがなで浮かぶ“まってるね”の文字。


「……“約束”の花、ですね」


詩織が静かに言った。

千尋は何も言わず、そっと記録帳を開いた。


今日の日付のページに、詩織が花のスケッチを描きはじめる。

花の形、色、香り、それに咲かせた人の想い――。

俺はその横に、少し迷いながら、こう書き足した。


『傘の中で交わした約束。

 言えなかった「またね」が、花になって咲いた。』


記録を書き終えたあと、俺は温室の外に出た。

風が、昨晩の雨を運び去ったあとの空気を運んでくる。


赤い傘を見つめながら、ふと、自分の子どもの頃を思い出していた。


あの頃、俺にも“傘の中の約束”があった気がする。

帰り道、雨が降って、たまたま入れてもらった傘の中で交わした約束。

「また明日も一緒に帰ろうね」――その一言が、やけに嬉しかった。


でも、翌日から、その子は学校に来なかった。


理由もわからず、何も言えないまま、俺の中でその思い出は小さな痛みになっていた。

けれど、昨日の少女のおかげで、忘れていたその記憶がふっと蘇った。


たぶん、花は“あのとき言えなかった言葉”を、そっと掘り起こしてくれるんだ。


俺は赤い傘を温室の隅にそっと立てかけて、静かに息をついた。


その傘は、これから温室の入口に飾ることにした。

あの子がまた来たとき、すぐにわかるように。

そして、誰かの“言えなかった約束”が咲くたびに、ここでそっと迎えてあげられるように。

それから数日が過ぎた。


赤い傘は、温室の入り口に立てかけたままになっていた。

来る人は皆、不思議そうにそれを見て通り過ぎる。

けれど俺にとっては、それが大切な目印になっていた。


そんなある日、ひとりの男の子がふらりと温室を訪れた。

制服の袖が少しほつれていて、靴の泥も乾きかけていた。

「……ここ、なんか花のにおい、するな」

男の子はそう呟いて、中を見回した。


俺が出迎えると、彼は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに目をそらした。


「……別に、買いにきたわけじゃねーし」


そう言いながらも、男の子はそっと花たちを眺めていた。

温室の空気に溶けるように、彼の表情が少しずつ和らいでいくのが見えた。


「今日は誰かに話しかけられたくなかったのかもしれないね」と、詩織がぽつりと呟いた。


俺は言葉を使わず、そっと小さな鉢をひとつ差し出した。

それはまだ芽も出ていない、小さな土の塊だった。


「これ……なに?」


男の子が尋ねると、千尋が代わりに答えた。


「“ことばの種”よ。なにか、言えなかったことがあるなら、それを土に触れさせてみて」


彼は迷いながらも、指先でそっと土をなぞった。

するとほんのわずかに、土がきらりと光ったように見えた。


「……へんなの。土って、冷たいはずなのに、ちょっとあったかかった」


ぽつりとこぼしたその一言に、俺たちは顔を見合わせて微笑んだ。


それを見届けたあと、彼は何も言わずに小さく頷き、店を後にした。

背中が、少しだけ軽くなったように見えた。


残された鉢を見つめながら、俺は静かに思う。


言葉にできなかった想いは、きっと、ここで咲くのを待っている。

きっと、ほんの小さな勇気が芽吹くことで、

その人の世界が、少しだけやさしくなるのかもしれない。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


今回は「再会」と「約束」をテーマに、傘という小さなアイテムに記憶の花を込めてみました。

大人になると、昔のことはどこか遠い風景のようになってしまいますが、それでもふとした拍子に、色や匂いとともによみがえることがあります。


少年と少女が交わした、あのときの約束が、もう一度咲くように。

そして、誰かの心にも優しく残るような物語であったなら嬉しいです。


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