【第6話】遅れて届いたありがとう
「言えなかった“ありがとう”が、ずっと胸に残っているんです」
そう語ったのは、中年の男性でした。
長い歳月を越えても、言葉にできなかった想いは、心のどこかに灯のように残り続けるのかもしれません。
第6話は、そんな「遅れてしまった感謝の気持ち」が、花として咲くまでの物語です。
曇り空の下、花屋の扉が静かに開いたのは、夕暮れに差しかかる頃だった。
入ってきたのは、背広を着た中年の男性だった。どこか遠くを見ているような目で、ゆっくりと温室の中を歩く。
手には、くしゃくしゃになった封筒が握られていた。
俺と目が合うと、彼は小さく会釈し、テーブルの前に腰を下ろした。
声が出せない俺に気づいたのか、すぐに「話せないのかい?」と優しく聞いた。
俺がうなずくと、彼はどこかほっとしたような、少し照れたような笑みを見せた。
「……話を聞いてもらうだけで、十分だよ」
それから、彼はぽつぽつと語りはじめた。
「この手紙は、三十年前に亡くなった人へのものなんだ」
手の中の封筒をそっと撫でながら、彼は語った。
彼がまだ学生だった頃、ひどく荒れていた時期があったという。家族とうまくいかず、学校にも馴染めなかった。
そんなとき、夜の公園で雨に打たれていた彼に傘を差し出したのが、恩師と呼べる先生だった。
「その人がいなかったら、俺は今、ここにいなかったと思う」
けれど、先生は病気で突然亡くなった。
感謝の言葉を、何ひとつ伝えられないまま。
「いろんな形で恩返ししようとしたけど……やっぱり、“ありがとう”のひと言が言えなかった。それだけが、心にずっと引っかかってるんだ」
彼の声は低く穏やかだったが、その奥には重たい時間が染みこんでいた。
千尋さんがそっと鉢を差し出す。俺は横で、小さな種の瓶をそっと渡す。
男性は、封筒の中から一枚の紙を取り出した。それは、30年前に書きかけたままの手紙だった。
「この言葉を、もう一度植えてみたい。……届くかは、わからないけど」
そう言って、彼はゆっくりと種を植えた。
しばらくの沈黙のあと、鉢の土がふるりと震えた。
淡い金色を帯びた、小さな花がひとつ、静かに咲いた。
その花は、まるで陽だまりのようなぬくもりを帯びていた。
香りはほんのり甘く、けれどすっと澄んだ空気のように、温室の中を満たしていく。
「……ありがとう」
彼がぽつりと呟いたその言葉が、花の中心に吸い込まれていったように思えた。
* * *
記録帳には、咲いた花の名前が記された。
――『遅れて届いた灯』
詩織が丁寧にスケッチを描き、千尋が花言葉を書き添える。
“伝えそびれた感謝は、時を越えて咲く。”
男性は帰り際、鉢をひとつ持ち帰った。
「先生の墓前に、置いてやりたいんだ」と言って、静かに笑った。
扉の向こうには、少しだけ陽が射していた。
その後、俺たちはしばらく店の片づけをしながら、それぞれに思いをめぐらせていた。
「ねえ、真叶さん」と詩織がぽつりと話しかける。「もし、自分が言いそびれた言葉を花にするなら、どんな花が咲くと思いますか?」
俺は少し考えてから、肩をすくめるように笑った。まだ、自分の心の奥底に眠っている言葉をすぐに言語化することは難しかった。
詩織は頷いて、「わたしも、いつか“ありがとう”を花にできる気がします」と微笑んだ。
* * *
夜になって、温室にそっとランプの灯がともされた。
千尋さんが手入れしていた棚の瓶のひとつが、わずかに光っていた。
「この瓶、あの方が帰ったあとに光り出したの。きっと……感情が落ち着いたときに、ひとしずくが溜まったのね」
詩織が瓶をそっと持ち上げる。中には、やわらかな金の光が揺れていた。
俺はその光を見つめながら、胸の奥にふっと温かいものが灯るのを感じた。
言えなかった言葉。伝えられなかった気持ち。
それが、こうして花になったり、光になったりして、誰かに届いていく。
この店で起きることは、どれも小さくて静かだけれど、
きっと誰かにとっては、“ちゃんと届く”奇跡なのかもしれない。
俺もいつか、自分の「ありがとう」を花にできる日が来るだろうか。
まだ言えないままでいる想いが、自分の中にもきっとある。
温室のガラス越しに見えた夜空に、小さな星がひとつ瞬いていた。
それはまるで、遠くにいる誰かへ向けた、小さな“ありがとう”のようだった。
* * *
次の日の朝、俺は温室の中央にある大鉢の前に立っていた。
まだ花を咲かせていない小さな芽が、静かに葉を広げている。
ふと、千尋さんがコーヒーカップを片手に現れた。
「昨日の花、いい香りが残ってるね」
俺はうなずく。香りは夜の間にしっとりと温室に染みこみ、今もやさしく空気を包んでいた。
「“ありがとう”って、簡単そうで一番むずかしいよね」と千尋さんは言った。
“言えなかった感謝”が、昨日、ちゃんと花になったこと。
その出来事が、この場所に小さな変化を与えていた。
詩織が棚の瓶に書き込んでいた言葉が目に浮かぶ。
“想いは、咲きたがっている。”
それは誰かの言葉かもしれないし、ここの魔法の根っこなのかもしれない。
俺はもう一度、大鉢に視線を落とした。
いつかこの芽も、誰かの想いを受け取って、花を咲かせる日が来る。
声をなくした俺にも、できることがある。
ここで、誰かの心を受け止めること。
咲いた花に、そっと名前を添えること。
まだ始まったばかりのこの店で、少しずつ、自分の役割を見つけていけたらいい。
花は、今日も、どこかで咲こうとしている。
* * *
午後の光が差し込む温室で、俺は小さな鉢の手入れをしていた。
咲いた花の一部は記録帳に残し、一部は乾燥させて瓶詰めにする。
詩織が手元のスケッチブックに色鉛筆で描き写していると、千尋さんが新しい茶葉の缶を持って現れた。
「今日はね、“柚子とマロウブルー”のブレンド。花の記憶に似たお茶だよ」
香りを嗅いだ瞬間、ふわりと昨日の花の余韻が蘇る。
俺は千尋さんから受け取ったカップを両手で包みながら、温室の奥に視線を向けた。
そこには、昨日の男性が座っていた席がそのまま残っていた。
静かに揺れる椅子の背もたれ、ランプの灯りの揺らめき。
目に見えない“想いの名残”のようなものが、空間のあちこちに漂っていた。
「花って、不思議だよね」と詩織が言った。「咲いてるあいだだけじゃなくて、咲いたあとにも誰かの気持ちが残ってるみたい」
俺は頷いた。
花が咲く瞬間も大切だけど、その花が誰かの心にどんな灯をともすのか――それも、この店の魔法のひとつなのかもしれない。
「ねえ、今度“感謝”だけじゃなくて、“赦し”の花にも会ってみたいな」
詩織のそんな言葉に、千尋さんが笑う。
「じゃあ次に来るお客さんは、きっと“赦せなかった誰か”を抱えてるかもしれないね」
未来の誰かの来訪を思い浮かべながら、俺たちは静かにお茶をすする。
ほんの短いひとときだったが、それは確かに、昨日とは違う今日の始まりだった。
そしてそのとき、入口の扉の上にかかる鈴が、かすかに鳴った気がした。
まだ誰も来ていないはずなのに――
そんな予感を胸に抱きながら、俺は目を閉じた。
ここで咲く花たちは、きっと、誰かの心の続きを教えてくれる。
それがどんなに遅れて届いた想いでも。
それでも、咲くべきときに咲くのなら。
それは、きっと、遅すぎることなんてないのだから。
“ありがとう”という言葉は、いつも簡単そうで、意外と難しいものです。
その一言を伝えられなかったことが、時に何年も、心の中に残ることもあります。
でも、想いは消えない。
この店の魔法がそれをそっと照らしてくれたら――
そんな気持ちで書いた一話でした。
次回もまた、心の奥にしまわれた“ことば”を花に変えていきます。
読んでくださってありがとうございました。