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【第5話】雨の音にまぎれた言葉

こんにちは、真叶です。

今回のお話は「雨」と「後悔」がテーマです。

誰かに言えなかった言葉は、いつのまにか胸の奥に溜まっていくもの。

この花屋には、そんな“ことばの置き場所”があるのかもしれません。

店の屋根を打つ雨の音は、昔から嫌いじゃなかった。誰かと話さなくても済む言い訳みたいで、静かなそのリズムが、胸の奥をなぞってくれる気がするからだ。


その日も、しとしとと降り続ける雨の中、店の扉がそっと開いた。現れたのは、肩までの濡れた髪をまとったひとりの少女だった。


「……ここ、花屋さん?」


うつむいたままの小さな声。それでも、千尋は優しくうなずいた。少女は、店の中に一歩、また一歩と足を踏み入れる。入り口のマットに水のしずくが落ち、足音がそっと花々の間を通り過ぎる。


少女の名はエナといった。年は十歳くらい。言葉少なに椅子に腰掛けると、ずっと手のひらを見つめていた。


「大切なひとと、さよならする前に……ちゃんと伝えたかったことがあるの」


ぽつりと漏れたその言葉に、千尋は静かにうなずき、銀のスコップを手にした。


温室の奥の鉢に、少女の“想いの種”をそっと植える。雨音の中で、しばし沈黙が流れる。けれど、その空白は不思議と温かかった。


ふと、鉢の土が小さく光を放った。芽吹いたのは、雨粒を抱いたような透明な花。中心が淡い桃色に染まり、まるで夕方の空のような、やさしい色合いだった。


「……これが、あのときの“ありがとう”だね」


少女がそうつぶやいた瞬間、千尋はそっと花に名をつけた。


「“雨のしじまに咲く声”……きっと、あなたの本当の言葉だよ」


エナは小さくうなずき、そっと涙をぬぐった。そして、何も言わず、咲いた花を胸元に大事に抱えて帰っていった。


雨はまだ止まない。けれど、花屋の中には、確かに言葉が咲いていた。


千尋は記録帳にその日の出来事を書き記し、花の絵を添えた。


──伝えそびれた言葉も、きっとどこかで咲いている。


雨の音は、今も静かにその花を見守っていた。


* * *


次の日の朝、店の前に小さな包みが置かれていた。包みの中には、丁寧に折られた手紙と、雨に濡れたままの布製のぬいぐるみがひとつ。


『お母さんに、ちゃんと渡せました。ありがとう。』


それだけの短い言葉だったけれど、千尋には十分だった。ぬいぐるみの端には、小さな刺繍で“エナ”と縫われていた。


千尋は手紙を棚にしまい、花の記録帳にそのことも書き記した。


そして今日もまた、店の奥で銀のスコップを手に取る。言葉にならなかった想いを、そっと土に植えるために。


雨はようやく止みかけていた。ガラス越しの空に、うっすらと光が差し始めていた。



そして、今日もまた花屋には誰かの想いが訪れる。

* * *


「この花……少し、母の匂いがするんだ」


少女・エナが、咲いた花に顔を寄せながら呟いたその言葉が、千尋の胸に残っていた。


あの花が咲いたとき、温室の空気がふっと柔らかくなったのを、千尋ははっきりと感じた。

想いは、ほんとうに花になる。ここで生まれる花たちは、誰かの記憶や声をまとって、咲く。


千尋がこの店を継いでから、もう幾度となくその奇跡を見てきた。

けれど、エナの花には、どこか芯の強さがあった。

寂しさや後悔だけじゃない、“伝えたい”という真っ直ぐな想いが、花に宿っていた。


「お母さんに、ありがとうって言えなかったの。病院に行く前、ケンカして……それから、ずっと。」


あの日、エナはそう言っていた。


胸に抱えたままの気持ちは、時間が経てばやわらぐものではない。

むしろ、置き去りにされればされるほど、心の奥で重くなっていく。


千尋にも覚えがあった。


言葉にできなかったまま、遠くなってしまった誰か。

すれ違いのまま別れた、友達。

言えたはずの「ありがとう」や「さようなら」を呑み込んでしまった夜。


だからこそ、千尋はこの温室で、“想いの花”と向き合い続けている。


その日、エナが咲かせた花の記録を記したあと、千尋は静かに温室の中央に立った。

自分自身のために、土を整え、ひとつの種を植える。


それは、過去に言いそびれた“ごめんね”の種だった。


ふと、背後で扉が鳴った。

「ただいま」と言いたげに、詩織がひょこりと顔を出す。


「エナちゃん、帰ったあと、泣いてたんですか?」

「少しだけ。でも、最後には笑ってたよ」


詩織はほっとしたように頷いた。

「なんだか、自分も何か植えたくなりますね」


そう言って、彼女も小さな鉢にそっと種を置いた。


「これは……“ちゃんとわかってあげられなかった”っていう、後悔の種です」


詩織が見つめる鉢から、しばらくして小さな双葉が出た。

二人は並んでそれを見つめる。


「言葉にできない想いも、こうしてちゃんと咲いてくれるんですね」

「うん。だから、この店があるんだと思う」


* * *


夕暮れが近づき、雨がやっと上がった。


温室のガラスに当たる雨粒がきらめき、虹がぼんやりと空に浮かぶ。


千尋は棚から花瓶を取り出し、エナの花を一輪、そっと差し込んだ。

“雨のしじまに咲く声”と名付けられたその花は、まるで静かな祈りのように、凛としてそこに咲いていた。


* * *


翌朝、千尋は早めに店に入った。


まだ誰も来ていない静かな温室の中。昨日咲いた花たちは、朝の光を浴びてどこか誇らしげに揺れている。

棚の端に置かれた記録帳を開き、千尋は昨日のことを丁寧に書き残す。


“雨のしじまに咲いた声。少女エナの、母への想い。”


花の色、形、香り、咲いたときの空気。すべてが記録帳に綴られていく。

この記録帳は、ただの記録ではない。

いつかまた誰かが同じ想いを抱えたとき、そっと開かれ、その花が寄り添うきっかけになる。


「花って、思ってたよりずっと強いですね」


背後から、詩織の声がした。

「そうだね。きっと人の想いも、同じくらい強いんだと思う」


棚の隅に、小さな種の瓶があった。千尋はそれを手に取り、じっと見つめた。

透明なガラス越しに見える小さな種たち。そのひとつひとつに、まだ言葉にされていない誰かの想いが眠っている。


「今日も、誰かがこの場所を見つけてくれるかもしれない」

「うん。きっと」


朝の光の中で、温室の扉が静かに開いた。

新しい一日が、また始まる。


そして、花たちは今日もまた、誰かの心に寄り添うのだ。


* * *


朝の開店準備を終えたころ、千尋さんが温室の入口に顔を出した。


「昨日の花、記録帳に残しておいてくれた?」


俺はうなずき、そっと記録帳を差し出す。

まだ慣れない字だけれど、昨日咲いたエナの花のことは丁寧に書いたつもりだった。


「うん、ちゃんと書けてるよ。……あの子、ちゃんと帰れたかな」


千尋さんのつぶやきに、俺もそっと頷く。

温室の中央に咲いた花が、今日も少し揺れていた。


「今日も、誰か来るかもしれないね」

そう言って、千尋さんは静かに扉を開けた。

昼下がりの花屋は、静かな光に包まれていた。

千尋は店先に並べた鉢植えを水やりしていたところ、外から戸惑った様子の女性が立ち止まっているのに気づいた。


「こんにちは。何か、お探しでしょうか?」


女性ははっとしたように顔を上げた。

「……ここ、花屋さんですか? 娘が、ここの話をしていたんです。“言えなかったことが花になる場所”だって……」


その言葉に、千尋の目がやさしく細められる。


「ええ、よければ少し、奥へどうぞ」

午後、店にはひとりの年配の女性が訪れた。


「ここが……あの子が言っていた、花が咲く場所?」


白髪まじりの髪を結い、小さなリュックを背負ったその女性は、どこか戸惑いを含んだ瞳で温室を見渡していた。


「先日、娘が……エナが、帰ってきて。何年かぶりに、私の手を握ってくれたんです」


千尋はうなずき、静かに温室の中央へ案内した。


「“ママにごめんって言った花、咲いたんだよ”って、そう笑って……。私は、何も知らなかったのに」


女性の声は、少し震えていた。

千尋は鉢を差し出しながら、言葉は使わず、ゆっくりと微笑んだ。


女性は迷うように手を伸ばし、そっと種を植えた。

しばらくの沈黙のあと、白い光がふわりと舞い、花が咲いた。


それは、エナが咲かせた花とよく似ていた。

けれど、色が少し濃く、香りもほんのり甘かった。


「……ありがとう。エナの気持ち、ちゃんと受け取ったよ」


その言葉が、静かな温室の中に溶けていった。


* * *


日が暮れるころ、千尋は今日の最後の記録を記す。


“母が娘の想いに触れ、もう一度、手を繋いだ日。ふたつの花が、静かに揺れていた。”


ページのすみには、ふたりの花のスケッチが寄り添うように描かれている。


ガラス越しに見える夕空の色が、温室の中を包みこむ。


今日もまた、ここに咲いた言葉があった。

誰にも届かなかった想いが、やっと花になれた。


だからこの場所は、明日も開いている。


想いの種を抱えた誰かのために。


最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

大切な人に伝えられなかった想いが、花というかたちで届けられたとしたら――

そんな静かな願いを込めた物語になりました。

次回も、どこかにしまわれた想いが花咲くような、そんな話を綴っていきます。

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