【第4話】名前を呼ばれなかった花
第4話では、人ではない来訪者が現れます。
それは、名前を呼ばれなくなった“風の精霊”。
記録されなかった想いが、もう一度、花として咲こうとしています。
その日の温室には、風の音がよく響いていた。
けれど、扉も窓も閉まっている。風なんて、入ってきていないはずなのに。
俺は不思議に思いながらも、記録帳を手に取った。
前に咲いた花の記録を見返していたら、ふと、ページの隅にこんな走り書きを見つけた。
『名のないまま咲いて、記録されなかった花がある。』
その言葉が妙に引っかかった。
花に名をつけることは、この店では“想いを受け取った証”でもある。名をもらえなかった花とは、誰の想いだったのか。
考えていると、風の音がまた響いた。
今度は、耳元で誰かが名前を呼ぶような、微かな気配を感じた。
振り向いても、誰もいない。
けれど、温室の中央──大きな鉢のそばに、ぼんやりと淡い光が立っていた。
「……ここは、まだ、在るんだね」
それは人のかたちをした、透き通るような存在だった。
姿はぼやけていて、声も風に溶けるように淡い。
俺が動けずにいると、その存在はゆっくりとこちらを向いた。
「あなたは、花を咲かせる人……?」
俺はうなずいた。
「よかった。まだ、この場所に“聴こえる人”がいたんだ」
彼は、自分の名前を忘れてしまったという。
誰にも呼ばれなくなって、少しずつ、輪郭を失っていったのだと。
「忘れられるって、痛くはないんだ。けれど、寂しい。少しずつ、ほどけていくみたいで」
その言葉が胸にしみた。
彼は、もとは“風の精霊”だったらしい。
けれど、何百年も経つうちに、呼ぶ者も祈る者もいなくなり、自分が何者かも曖昧になった。
「最後に咲いた花が、確か……とても静かな、白い花だった気がする」
彼はそう呟いた。
「けれど、誰も名前をくれなかった。咲いたことすら、たぶん誰も気づかなかった」
俺はそっと手を伸ばした。彼の体には触れられなかったけれど、空気がわずかに震えた。
俺は、棚の奥から小さな鉢をひとつ取り出し、温室の中央に置いた。
銀のスコップで土をほぐすと、かすかに風が集まってくるのを感じた。
彼の“ことばにならなかった想い”が、そこに宿ったのだ。
しばらくして、小さな芽が現れた。
芽は音もなく伸び、やがて淡い銀色の花を咲かせた。
透き通るような花びらが、風もないのにそよいでいる。
その花は、存在の希薄な彼が、この世界にたしかに“いた”という証だった。
彼は、花を見て、少しだけ笑った。
「……こんなふうに、咲けるんだね。名前がなくても、咲いていいんだって、なんだか、救われた気がするよ」
俺は、記録帳を開いた。
そして、花の名前を考えた。
『名を呼ばれなかった想い』。
でも今、こうして咲いたのなら、それはきっと。
「“しらべのかけら”」
俺がそう呟くと、花がかすかに揺れた。
「……きれいな名前だ」
風の精霊は、そう言って嬉しそうに目を閉じた。
「ありがとう。思い出してもらえた気がする。……たとえまた薄れても、今だけは、ここにいられる」
そう言って、彼の姿はゆっくりと消えていった。
でも、その花は残っている。
確かにこの場所に咲いた、“忘れられた想い”の証として。
記録帳にそっと、花の名を記す。
──しらべのかけら。
花言葉は、「名を呼ばれなかった優しさ」。
温室の中に、静かな余韻だけが残っていた。
俺はもう一度、記録帳の古いページをめくった。
“名前のない花”の記録はどこにも見当たらなかった。
それどころか、他にも空白のページが何枚もあることに気がついた。
きっと、ここで咲いたはずなのに、誰にも記録されなかった花があるのだ。
それは、誰かの“ことばにならなかった想い”が、誰にも気づかれずに咲いて、そして静かに消えていった証。
俺の胸の奥が、すこし痛んだ。
温室の棚の奥、古い木箱の中にあった封筒を開けてみる。
そこには、前任者が書いたと見られるメモが数枚入っていた。
『名前を与えられなかった花は、世界に残りづらい』
『だが、それでも花は咲く』
『誰かが見ていなくても、想いは世界に根を張ろうとする』
俺は静かにうなずいた。
風の精霊は、そんな“誰にも見届けられなかった花”のひとつだったのかもしれない。
彼が最後にいた場所は、風の通り道の奥深くだったのだろう。
祭壇も忘れられ、祈りも絶え、名前さえ呼ばれなくなった──それでも、花は咲こうとしていた。
彼の存在がこの温室に現れたのは、きっと最後の“呼び声”を探していたからだ。
「ありがとう」
彼の声が、記憶の底に残るような、優しい残響をもって消えていったとき。
俺の胸の奥にも、なぜか小さな灯がともったようだった。
名を与えることは、存在を認めること。
忘れられた想いに、もう一度“ここにいていい”と言うこと。
花が咲くというのは、誰かがそこに“いた”という証を、静かにこの世界に刻むことなのかもしれない。
その晩、俺は温室にランプを灯したまま、しばらく花の前に座っていた。
“しらべのかけら”の花弁が、かすかな風に揺れている。
光が透けて、まるで音のような形をしていた。
誰かの記憶が、誰にも知られないまま消えてしまわぬように。
この場所で、俺は見届けようと思った。
そして、記録帳の最後のページに、そっと書き足した。
『この花は、名を呼ばれなかった者のために咲いた。
たとえ世界が忘れても、ここにはその痕跡が残る。』
その文字が、夜の静けさにやわらかく溶けていった。
翌朝、温室は薄明かりに包まれていた。
天窓から差し込む光が、静かに花々を照らしている。
俺はいつもより少し早く目を覚まし、まだ眠たげな空気の中、温室の扉を開けた。
棚の中央、“しらべのかけら”は、夜露を抱いたまま咲いていた。
花びらの縁に小さな雫が揺れ、光を受けて虹色にきらめいている。
俺はそっと花に近づき、心の中で言葉を探す。
——たとえ名前を呼ばれなくても、想いは確かにここに残っている。
それが、昨夜この場所にいた彼の願いだったのだと思う。
風の精霊が姿を現す直前、耳元に聴こえた“誰かの名前を呼ぶような風”の音。
あれは、もしかすると彼自身が、誰かの記憶の中に残した“最後の声”だったのかもしれない。
思えば、俺も誰かの名前を呼ぶことが減っていた。
声を失ってから、人の名を、口にする機会がどれだけ減ったことか。
けれど今、こうして花に名前をつけて、記録帳に記すことで、俺は少しずつ“声の代わり”を取り戻している気がする。
たとえ話せなくても、名前を与えることはできる。
想いを見つけ、咲かせ、残すことはできる。
その行為が、誰かを救うかもしれないし、あるいは俺自身の過去を少しずつ癒してくれるのかもしれない。
“しらべのかけら”のページに、もう一行だけ書き加えた。
『忘れられることと、いなかったことは違う。咲いた花は、それだけで世界にいた証になる』
ペンを置いて、深呼吸をひとつ。
温室の奥では、新しい鉢が静かに俺を待っていた。
まだ見ぬ想い、まだ咲いていないことばの種が、きっとまたやってくる。
俺はもう一度、銀のスコップを手に取った。
もうすぐ朝の光が、温室全体を満たす頃。
俺は棚の花々を一つひとつ見て回った。
昨日までと変わらない姿の中に、確かに小さな変化がある。
葉の向き、花の開き具合、香りのわずかな違い——。
すべての花が、誰かの“ことば”だった。
そのひとつひとつが、この店の時間を少しずつ積み重ねている。
今日もまた、きっと誰かが来る。
それを思うと、ほんの少しだけ胸があたたかくなる。
言葉を失った俺の毎日は、少しずつ、想いで満たされていくのだった。
ご覧いただきありがとうございました。
名前を持つこと、呼ばれること、それは存在を確かめ合う行為なのかもしれません。
「忘れられた想いにも、咲く場所がある」
そんなことを願って書いた回です。次話もよろしくお願いします。