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【第3話】怒りの奥のひとかけら

第3話では、激しい怒りを抱えた少女が登場します。

けれどその怒りの奥には、“言葉にならなかった想い”が隠れていて――

想いが咲く瞬間の静かな変化を、どうぞ見届けてください。

その日、店の扉は突然、乱暴に開いた。


 驚いて振り返ると、小さな少女が立っていた。

 まだ十二、三歳くらいだろうか。

 栗色の髪を結ばずにばさっと垂らし、目には強い光が宿っていた。


 彼女は何も言わずに、まっすぐ店の中央に歩いてきて、棚の花を睨むように見つめた。


「こんなところ、意味ないじゃん」


 唐突なその言葉に、俺は一歩踏み出す。


 少女は振り返って言った。

「人の想いが花になる? そんなの、何にも変わらないじゃん」


 声は怒っていた。けれど、その怒りはどこか揺れていて、不安定だった。


 俺は、声を失ってから身につけた“感情を読む”感覚で、彼女の中にあるものを探る。


 激しい火のような感情。その奥に、もっと小さく、冷たいものがあった。


 寂しさ。


 少女は、何かを言いかけて唇を噛みしめた。


「……あのね、私、別に誰にも頼んでないのにさ。勝手に期待されて、勝手にがっかりされるの、もう疲れたの」


 小さな手が、ぎゅっとスカートの裾を握っている。


「私が怒ったって、泣いたって、誰も本気で見てくれなかった。だから、怒ってるのに、もっと怒らなきゃって、思って……でも、疲れちゃったんだよ」


 俺は、少女の言葉のかけらを受け取る。


 ゆっくりと温室の奥にある鉢を指さす。


 少女は警戒しながらも、そこへ歩いてきた。


「……ほんとに、咲くの? こんな気持ちでも」


 俺は静かにうなずき、銀のスコップを手渡した。


 少女は土に指を沈めるようにして、小さく目を閉じた。


 そのとき、彼女の心の奥に眠っていた“ことばにならなかった気持ち”が、ゆっくりと芽を出した。


 しばらくして、鉢の中に小さな芽が現れた。


 それは、怒りのように赤くはなかった。

 燃えるような激しさではなく、夕焼けのようににじむ、淡いオレンジ色の花だった。


 少女はそれを見て、ぽろぽろと涙をこぼした。


「……さみしかったんだ、わたし……」


 それは、ようやく出てきた、本当の気持ちだった。


 俺は記録帳を開き、少女に花の名前をたずねた。


 彼女は少し考えてから、小さく呟いた。


「……“こもれびのひとしずく”。光の中に、ちょっとだけ、泣いてる感じがしたから」


 俺はその名を丁寧に記し、そっと魔法の栞を挟んだ。


 少女は、帰り際に小さくつぶやいた。


「……ありがとう。なんでかわかんないけど、ちょっとだけ、軽くなった」


 俺は声の代わりに、深くうなずいた。


 怒りの奥にある、言葉にできなかった小さな想い。

 それが咲いたこの花は、きっと少女の中で、ゆっくりと優しさに変わっていく。


 温室にはまたひとつ、新しい花が咲いた。


 少女――リリナと名乗った――は、しばらく温室の椅子に座っていた。


 花が咲いたあとの空気は、まるで雨上がりのように澄んでいて、さっきまでの彼女の鋭さが嘘のようだった。


「小さいころからね、私、あんまり泣かなかったの。泣くと、うるさいって言われるから。我慢すれば褒められたから」


 リリナはぽつりぽつりと語り始めた。


「でも我慢ばっかりしてたら、何が好きだったのか、何が嫌だったのかもわからなくなってきて……気がついたら、怒るしかできなくなってたの」


 俺は、彼女の言葉をひとつ残らず受け止めるようにうなずいた。


 彼女の隣には、まだ“こもれびのひとしずく”が咲いている。

 その花は、ただそこにあるだけで、彼女の中に沈んでいた感情をやわらかく照らしているようだった。


「誰かに見てほしかったんだと思う。でも、それを言ったら面倒くさいって思われそうで、ずっと……言えなかった」


 リリナは、花にそっと触れた。


「こんな気持ちが、咲くなんて思わなかった。……ありがとうって言いたいけど、なんか、うまく言えないや」


 俺は言葉ではなく、記録帳のページを開いて見せた。

 そこには、過去に咲いたさまざまな花の名前と、それに込められた想いが記されていた。


 リリナは興味深そうにページをめくった。


「この“あまのはらのそよかぜ”って花、優しそうだね」

 俺は、うん、と頷いた。

 それは「言えなかった応援の気持ち」から咲いた花だった。


 彼女は何度もうなずきながら、ゆっくりと言った。


「いつか、誰かの気持ちに気づける人になれたらいいな」


 その言葉が、まるで小さな芽のように聞こえた。


 帰る前、リリナは「また来てもいい?」と尋ねた。

 俺は大きくうなずいた。


 その日の夕暮れ、俺はひとりで温室に残った。

 記録帳に花の名を書き終えたあと、俺はもう一度、咲いた花を見つめた。


 怒りというのは、ただのトゲではなくて。

 その奥には、触れられなかった痛みや寂しさが、かならずある。


 この店では、それを咲かせることができる。


 言葉を失った俺でも、誰かの感情に寄り添い、形にすることができる。


 それは、声ではなく、花という方法で伝えること。


 俺はその日、静かに決意した。


 これからもきっと、さまざまな“想い”がこの場所にやってくるだろう。

 怒り、悲しみ、後悔、そして小さな希望。


 俺のすることは、そのひとつひとつを丁寧に受け取って、そっと咲かせること。


 それが、“言葉を失った俺”に託された、新しい仕事だった。


 夜になっても、俺は温室にいた。


 ランプの灯りがガラスに映って、壁にゆらゆらと植物の影が揺れる。

 昼間の喧騒とは打って変わって、しんと静かな空間だった。


 記録帳を閉じたあと、俺は作業台の下にあった木箱を引き出してみた。

 中には、前任者が残したと思われる手紙や小さな道具がいくつか入っていた。


 その中に、一冊のメモ帳があった。

 表紙は擦り切れていて、何度も開かれた跡がある。


 ぱらぱらとめくると、短い言葉がいくつも綴られていた。


『ことばを植えるのは、勇気がいる』

『咲くまでに時間がかかる想いもある』

『枯れるのは、失敗ではない。想いが次のかたちを探しているだけ』


 そのひとつひとつに、見知らぬ誰かの温もりが残っている気がして、胸が静かに熱くなった。


 俺は、窓のそばにある棚に“こもれびのひとしずく”の花を飾った。

 他の花たちと並べることで、彼女の想いがこの店の記憶に加わったような気がした。


 リリナの咲かせた花は、怒りの中にやさしさを秘めていた。

 そのかすかな灯りは、たぶん彼女が誰かに向けて出した、初めての助けのサインだった。


 そう思うと、この温室はただの花屋じゃないと、改めて思う。


 ここは、声にできなかった“誰か”が、自分自身と向き合うための場所だ。


 そして同時に、俺自身の心も、こうして少しずつ動き始めているのを感じる。


 言葉を失った俺が、この店でできること。


 それは、誰かの想いを咲かせながら、自分自身も、また言葉を取り戻していくことかもしれない。


 外では風が吹き始めていた。


 季節は少しずつ変わっていく。

 想いもまた、ゆっくりと形を変えながら、花になってゆく。


 この店で、それを見届けていこう。


 そう静かに思いながら、俺は温室の灯りをひとつ、消した。


 翌朝。


 まだ陽の光が薄く、空気に夜の名残が漂っている時間。


 俺は早くに目を覚まし、温室の扉を開けた。

 ひんやりとした空気が頬を撫で、遠くで小鳥の声が聞こえる。


 棚の上では、“こもれびのひとしずく”が静かに咲いていた。

 昨日よりも、少しだけ茎が伸びていた気がした。


 花びらの先に、夜露がきらりと光っている。


 この花は、怒りの中から生まれたものだった。

 でも今はもう、怒りというよりも、強くなろうとする優しさのように見えた。


 俺は記録帳を開き、リリナの花のページをもう一度読み返す。


 想いは、時間が経つごとに少しずつ変わる。

 そしてその変化は、花にも、きっと現れるのだろう。


 ページの端に、そっと小さな印をつけた。


 この花のその後も、記していけるように。


 静かで、希望に満ちた朝だった。


お読みいただきありがとうございました。

誰かの怒りの裏側に、実は寂しさや悲しみが潜んでいることがあります。

花はその奥の小さな感情を、そっと掬い上げてくれるのかもしれません。

次回も静かな心の物語をお届けします。

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