【第25話】また、誰かが扉を開く
言葉を失った青年・真叶が異世界で開いた花屋には、数え切れない想いが集まりました。王族も、魔族も、かつて孤独だった誰かも。そんな店に、ある朝、真叶が一人で植えたまま忘れていた“最初の種”が、ようやく芽吹こうとしています。
物語は静かに、ひとつの終わりと、新たなはじまりを迎えます。
鉢の中に、小さな芽が確かにあった。
色も形もはっきりしない、ただ淡く揺れる命の兆し。それを見た瞬間、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。こんなにも長い時間をかけて、ようやく芽吹いた想い——言葉にならなかった自分自身の、いちばん最初の気持ちだった。
「名前、つけようか」
俺の言葉に、隣で見守っていた詩織がそっと微笑んだ。
「……いいですね。やっと、名前を持てるんですね」
俺は記録帳を開き、震える手でペンを取った。けれど、なかなか言葉が浮かんでこない。これだけ長い間、胸の奥にあったのに、いざ言葉にしようとすると、どこか遠くへ行ってしまいそうになる。
詩織が、そっと言った。
「“ことばの種”が育つって、たぶん……その気持ちを、ちゃんと受け入れられたってことですよね」
その言葉に、はっとした。
——俺は、ようやく、自分を許せたんだ。
たとえ誰にも届かなかった想いでも、咲かせてあげたかった。言葉にできないままで終わらせたくなかった。
俺はそっと鉢に触れた。
「……“ひとりぼっちの始まり”って、どうかな」
詩織は少し驚いたように目を見開いたあと、やがてゆっくりとうなずいた。
「……きっと、それが、千尋さんの最初だったんですね」
記録帳にそう書き込んだ瞬間、芽の先に、ふわりと紫がかった白い花がひとつ咲いた。
静かな香りが、温室に満ちる。
言葉にならなかった想いが、ようやく花になった朝。これは、終わりではなく、始まりなのかもしれないと思った。
そうだ。この店も、まだまだ咲くべき花がたくさんある。
俺は立ち上がり、背筋を伸ばした。外はすっかり朝で、扉の外から小さな足音が近づいてくるのが聞こえた。
また、誰かが扉を開けようとしている。
まだ、朝日が差し込む前の時間だった。
街は眠りの中にあり、店の外も、温室も、どこかしんと静まり返っている。ガラスの屋根を伝う夜露の粒だけが、世界がまだ動いていることを教えてくれていた。
俺は、棚の上に置いていた古い箱をそっと開けた。中には、ひとつの鉢植えと、花びら一枚ない、乾いた茎だけが残されている。かつて咲いたはずの花はもう見えない。ただ、土の中に埋もれている“何か”だけが、まだそこにあるような気がしていた。
この鉢は、俺がまだ一人で店をやっていたころ——言葉を失ってすぐの頃に植えたものだ。
誰にも届かなかった想い。言葉にならなかった叫び。名前も意味もないまま、ただ胸に残っていた痛み。それが“ことばの種”になっていたなんて、当時の俺は思ってもいなかった。
芽は出なかった。花も咲かなかった。ただ、それでも、枯れきれずに残った鉢だけが、この店の隅にずっと置かれていた。
「おはよう、千尋さん」
ふいに背後から声がした。振り向くと、まだ眠たげな詩織が立っていた。手には、湯気の立つマグカップがひとつ。
「……こんな朝早くから、どうしたんですか?」
俺は答えずに、鉢を少しだけ持ち上げた。
「……昔、植えたものがあるんだ。まだ、咲いてないけど」
詩織は静かに近づいてきて、鉢の中をのぞいた。
「これ……」
「うん。たぶん、自分の気持ちすらわからなかった頃に、植えたんだと思う」
名前のない想い。言葉にさえならなかった、最初の気持ち。
でも、今なら——もしかすると咲くかもしれない。
俺はスコップを手に取り、そっと土をならした。鉢の中の土は、想像以上に柔らかくて、まだどこか温かかった。
「このまま忘れたふりをしてたけど、たぶん……怖かったんだ」
ぽつりと漏れた声に、詩織が静かにうなずいた。
「大丈夫ですよ。今の千尋さんなら、大丈夫です」
朝の光が、少しずつ温室に差し込みはじめていた。茎の先に、ほのかに色づいた小さな芽が見えた気がした。
——言葉にならなかった想いが、ようやく、花になろうとしていた。
ふいに、記憶の奥にしまっていた場面が蘇った。
——誰かの言葉に、うまく返せなかったあの日。
——黙り込むしかなかった自分に、悔しさすら湧かなかった夜。
——“ちゃんと伝えたかったのに”と、胸の奥だけが叫んでいた。
あのときの自分が、何を抱えていたのか、今なら少しわかる気がする。
詩織は、そっと鉢の縁に触れた。「じゃあ……この花が咲いたとき、名前をつけてあげましょう」
その声に、心がふっと軽くなった気がした。
朝の空気が、温室の中に満ちていく。花の芽は、確かにそこにあった。
朝の光が温室に満ちはじめるころ、詩織と並んで鉢を見つめていた。
鉢の中には、まだ花の姿はなかった。でも、小さな芽が、確かに土の中で息づいている。何年も動かなかった想いが、ようやく動き出したように思えた。
「……わたし、この鉢、見覚えあります。ずっと奥の棚にしまわれてたやつですよね」
詩織がそう言って微笑む。
「うん。最初のころ、誰にも言えない想いを、どうしたらいいのかわからなくて……無理やり、土に押し込んだんだと思う」
「じゃあ、これは……千尋さんの“はじまりの種”なんですね」
俺は思わず小さく笑った。そう言われると、なんだか恥ずかしい。
「咲かなかったけどね」
「咲いてなかった、だけですよ。きっと、今になってようやく芽を出そうとしてるんです」
詩織の言葉は、いつも不思議だ。優しくて、あたたかくて、そして時々、まるでこの店の花たちの声を代弁しているみたいだった。
「千尋さん、名前……つけますか?」
俺は驚いて詩織を見る。
「この花、まだ咲いてないけど、もう“想い”は生まれてますよね。だったら、名前だけでも……先に贈ってもいい気がして」
名もなかった想いに、言葉を贈る。
それは、この店が続けてきたこと。そして、俺自身が一番最初に、できなかったことだった。
少しだけ迷ったあと、俺はゆっくりとうなずいた。
「……“咲けなかった昨日”って、どうかな」
詩織の目が、かすかに潤む。
「すごく……いい名前だと思います」
記録帳にその名前を記すと、不思議と胸の奥が少しだけ軽くなった。鉢の中の芽が、少しだけ揺れた気がした。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
「言葉を失った俺が異世界で“想いを花にする店”を開いたら、なぜか王族や魔族まで通いはじめた件」は、これで一区切りとなります。
花屋の物語は終わっても、きっと今日もどこかで、新しい“ことばの種”が誰かの心に芽吹いている。そう信じて、この物語を閉じます。
またいつか、別の扉の向こうでお会いできますように。




