【第24話】未来を咲かせる花
この店を継いでから、何人もの想いを花に変えてきた。けれど、忘れていたんだ。自分の中にも、まだ咲いていない“ことばの種”があることを——。
今回は、店主・真叶自身の想いに向き合う物語。霧の日に咲いた紫の花をきっかけに、詩織と過ごした時間、そして自分の過去に触れていく静かな再生の回です。
夜明けの光が、温室のガラスを淡く染めていた。
薄紅に染まった空を背景に、ガラス越しの草花たちは静かに揺れている。露に濡れた葉が光をはじき、まだ目覚めきらない世界の中で、ひときわ美しく映っていた。
俺はその光景を眺めながら、静かにスコップを手に取った。今日こそは、あの花を植えようと思っていた。
店の奥、今では誰も近づかない小さな一角——そこは、俺がまだこの店をひとりで守っていた頃、最初に“ことばの種”を植えた場所だった。
けれど、その種は花を咲かせなかった。
名前のない想い。声にできなかった痛み。誰にも伝えられなかったあの日の後悔。
詩織と出会う前、まだ“ことばを植える”意味すらもよくわかっていなかった頃、俺はその場所に、ひとつの種を植えた。
でも——芽吹くことはなかった。
「千尋さん?」
ふいに背後から声がして、俺は振り返る。そこには、白いカーディガンを羽織った詩織が立っていた。眠たげな目で、こちらを見ている。
「こんな朝早くから……何か、あったんですか?」
俺は軽く首を振った。そして、彼女にだけは見せてもいいと思った。棚の奥にしまってあった、小さな銀の包みを取り出す。
中には、今でも枯れずに残っている、“あの日の種”があった。
「これ……ずっと植えられなかった種なんだ。俺が初めて持ち込んだ、“名前のない想い”」
詩織は少し目を見開いて、俺の手元を見つめた。
「今日、植えるんですか?」
「うん。ようやく、向き合える気がして」
俺は静かに頷き、古い土をそっと掘った。霧がかった朝の空気の中で、その場所だけが時間を取り戻すようだった。
温室の奥で、詩織は静かに水やりをしていた。
差し込む朝の光が、霧のように柔らかく花々を照らす。その光のなか、紫の花が一輪、そっと揺れていた。昨日、詩織が記録帳に「ひとひらの記憶」と名づけた花だ。
あれから、詩織の表情は少しだけ変わった。なにかがほどけたような、少し前より深く息ができるような、そんな顔。
「……この花、なんだか、今朝は香りが違いますね」
詩織がそう呟いた。
「気のせいじゃないと思うよ。名前がつくと、花は少し変わるんだ。まるで、“ようやく見つけてもらえた”って、安心するみたいに」
俺は静かに答える。
詩織はうなずいて、少しだけ笑った。その笑顔は、昨日の紫の花と同じように、揺れながらも確かに咲いていた。
「千尋さん……その、“咲かない種”って、まだありますか?」
ふいに、詩織がそんなことを訊いてきた。
俺は驚いたが、否定はしなかった。記録帳にも載せられなかった想いの種が、棚の奥にしまってある。それは俺自身の過去——まだ言葉にならないままの気持ちだった。
「あるよ。でも、それはまだ、“土に戻せない種”なんだ」
「いつか……その花も咲くといいですね」
詩織のその言葉に、俺は小さくうなずいた。
霧は少しずつ晴れてきていた。朝の光が温室いっぱいに差し込んで、葉の一枚一枚が光をはじいていた。
この花屋は、今日もまた誰かの想いを受け入れる準備ができている。
“言葉にできなかった想い”が、“ことばの種”となって咲く場所。
そして、そこに名を与えることで、人は少しずつ前を向けるのかもしれない。
詩織も、俺も——その道の途中にいる。
詩織が静かにうなずいたあと、私——いや、俺は温室の扉を静かに閉じた。朝の光が、花たちの間をすり抜けるように差し込んでくる。
「この場所があって、本当に良かった」
詩織の声は小さかったけれど、確かな響きを持っていた。その言葉に、俺は思わず笑みを浮かべた。
店を始めた頃、俺には言葉がなかった。声も、想いも、どこか遠くへ行ってしまっていた。でも、気づけば今はこうして誰かと、同じ花を見つめている。
温室の片隅に咲いた“ひとひらの記憶”は、今も静かに揺れている。まるで、その名を噛みしめるように。
「なあ、詩織」
俺はゆっくりと鉢の前にしゃがみ込みながら、彼女に向かって続けた。
「この花って、きっと、お前が“ここにいてもいい”って思えるようになった証なんだな」
詩織は、ほんの少し驚いた顔をして、それから恥ずかしそうにうつむいた。
「……そう、かもしれません」
空気が少しやわらいで、朝の霧もだいぶ晴れてきた。遠くからは、街の音がかすかに戻ってくる。
「店って、不思議だよな。誰かの想いが形になって、花になって、それがまた別の誰かを救っていく。たぶん、こういうのを、循環って言うんだろうな」
詩織が、そっと微笑んだ。
「それに……きっと千尋さんの中の“咲かなかった花”も、これからだと思います」
俺は、少しだけ驚いた。
まさか、俺が温室の奥に隠していた種のことに、気づいていたのか。
「お前……見てたのか?」
詩織はうなずかないまま、でもその目は確かに何かを知っていた。
「まだ咲いてないだけで、ちゃんとそこにあるんだと思います。あの種だって、いつか……」
——咲く日が来る。
言葉にしなくても、その続きを感じ取ることができた。
「ありがとな、詩織」
温室の中、花の香りと朝の光が混ざって、世界が少しだけ優しくなる。
この店には、まだ咲いていない想いがたくさんある。
けれどそれは、いつか誰かの言葉になり、名前になり、そっと花開く日が来る。
そして、俺自身もまた——。
俺の“咲かなかった想い”に、そろそろ名前を与える時なのかもしれない。
咲かなかった種に、もう一度光を当てる。それは、過去を否定せずに抱きしめることかもしれません。
“ことばにできなかった気持ち”は、言葉にならなくても、確かに誰かの心の中で生きている——そんな想いを込めて書きました。
第25話では、新たな来訪者が扉を開きます。どうぞ、次回もお楽しみに。




