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【第23話】夜明けの温室

朝の霧が晴れる頃、温室にだけ静かに光が差し込みます。

言葉にならなかった種、誰にも伝えられなかった想い——

今回は、千尋が自分自身と向き合う、少しだけ特別な朝の物語です。

夜明けの光が、温室のガラスを淡く染めていた。


 薄紅に染まった空を背景に、ガラス越しの草花たちは静かに揺れている。露に濡れた葉が光をはじき、まだ目覚めきらない世界の中で、ひときわ美しく映っていた。


 私はその光景を眺めながら、静かにスコップを手に取った。今日こそは、あの花を植えようと思っていた。


 店の奥、今では誰も近づかない小さな一角——そこは、私がまだこの店を一人で守っていた頃、最初に“ことばの種”を植えた場所だった。


 けれど、その種は花を咲かせなかった。


 名前のない想い。声にできなかった痛み。誰にも伝えられなかったあの日の後悔。


 詩織と出会う前、まだ“ことばを植える”意味すらもよくわかっていなかった頃、私はその場所に、ひとつの種を植えた。


 でも——芽吹くことはなかった。


 「千尋さん?」


 ふいに背後から声がして、私は振り返る。そこには、白いカーディガンを羽織った詩織が立っていた。眠たげな目で、こちらを見ている。


 「こんな朝早くから……何か、あったんですか?」


 私は軽く首を振った。そして、彼女にだけは見せてもいいと思った。棚の奥にしまってあった、小さな銀の包みを取り出す。


 中には、今でも枯れずに残っている、“あの日の種”があった。


 「この種ね、咲かなかったんだ。何度も植えようとしたけど……きっと、私が向き合えてなかったから」


 私はそう言って、掌にのせたそれを静かに見つめる。少し色あせたその種は、長い時間を経ても、不思議と温もりを保っていた。


 詩織は、そっと私の隣に立った。そして、声を潜めるように訊いた。


 「……それ、どんな想いだったんですか?」


 私は、しばらく答えられなかった。けれど、その沈黙こそが、きっとこの種の正体だったのだろう。言葉にできなかった痛み。時間だけが過ぎていった空白。


 「誰にも言えなかったんだ。自分の弱さを。助けられなかった後悔を」


 それは、昔この店に迷い込んできた、ある青年のことだった。何も咲かせられなかった彼の鉢。何もしてあげられなかった自分。


 「でも、今なら少しだけ、この気持ちに名前をつけられるかもしれない」


 私は、そっと鉢の土を指でならし、種を落とした。そして、詩織と並んで静かに祈った。


 朝の光が、温室の奥まで差し込んでいた。


詩織は、種を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。


 朝の光が、彼女の髪にやわらかく差し込む。その姿を見ていると、ふと、初めて出会った日のことがよみがえる。あのときも、こんなふうに小さな声で話しかけてくれたのだった。


 「それ、植えるんですね」


 私がうなずくと、詩織はそっと膝をついた。彼女の手が、私の手の上に重なる。


 「一緒に、植えてもいいですか」


 不思議だった。あの種を植えるのは、自分一人でやらなければいけないと思っていた。でも今は違った。過去を抱えたままでも、誰かと手を重ねられる——そんな気がしていた。


 私はうなずき、そっと種を土に落とす。詩織が銀のスコップで、やさしく土をかぶせる。


 「……千尋さん。その種、いつから持ってたんですか」


 「この店を始めたとき。言葉を花に変える魔法を持っているくせに、自分の気持ちは、ひとつも咲かせられなかった」


 そう語るうちに、喉の奥が熱くなる。


 「咲かないままの気持ちが、心のどこかに根を張って……もう、枯れてしまったかと思ってた。でも、ずっと、待ってたのかもしれない。こうして誰かに見届けてもらえる日を」


 詩織は何も言わず、そっと手を重ねてくれた。ほんの少し、土の上が温かくなった気がした。


 そのとき、朝の光がいっそう強くなり、温室の奥まで差し込んできた。葉が光を弾き、鉢植えの影がやわらかく伸びる。


 そして、私たちが目を離したすきに——そこに、小さな芽がひとつ、顔を出していた。

詩織はそっと膝を折って、私の隣に座った。朝露の冷たさに肩をすくめながらも、じっと銀の包みを見つめている。


 「この種……まだ生きてるんですか?」


 私はうなずいた。「うん。ずっと咲かなかったけど、捨てられなかったんだ。だから、きっと……待ってるんだと思う。咲くときを」


 詩織は少し黙ったあと、そっと手を伸ばした。そしてその手で、私の手を包んだ。驚いたけれど、不思議とあたたかかった。


 「じゃあ、一緒に植えませんか。千尋さんの“名前のない想い”……咲かせてあげたいです」


 その言葉に、胸の奥がふっとほどけるような気がした。何年も押し込めていた想いが、ようやく光の中に連れ出されたような——そんな気がした。


 私はうなずき、ふたりで土をならし始めた。まだ静かな温室の中、種が土の中に包まれていく。何も語らなくても、そこには確かな“想い”があった。


土をかぶせ、そっと手のひらで押さえたあと、私は息を吐いた。詩織も隣で同じように手を重ねていた。


 「……千尋さん、今日の朝、少しだけ夢を見てたんです」


 彼女はぽつりとそう言った。私が顔を向けると、詩織は遠くの空を見つめながら続けた。


 「何か、大きな木の下で、昔の誰かが私の名前を呼ぶ夢でした。でも、声が届かなくて……顔も思い出せなかった」


 私はそれを聞いて、静かにうなずいた。夢というものは、時に心の奥の記憶とつながる。声にならなかった気持ち、忘れてしまったように思えても、ちゃんとそこに残っている。


 「それでも、きっと……その人は、詩織を忘れていないと思う」


 そう告げると、詩織は小さく笑った。


 「ありがとうございます。私も、忘れたくないんです。全部、きちんと咲かせたいって……今は、そう思えます」


 私たちは、植え終えた鉢を温室の中央に運び、小さな名札を立てた。


 そこには、まだ何も書かれていない。


 だけど、それでもいいと思えた。いつか名前が見つかる日まで、この場所でゆっくり育っていけばいい。


 光の差し込む温室の中、新しい一日が静かに始まろうとしていた。

詩織はそっと種に視線を落とした。「……それ、咲かなかったんですよね?」


 私は頷く。「うん。でも、あのときはまだ、何を伝えたいのかも自分で分かっていなかったんだと思う。ただ、どうしようもない気持ちだけが残ってて……でも、それを見ないふりしてた」


 詩織は何も言わず、私の手元をじっと見つめていた。


 私はゆっくりとしゃがみ、手のひらの種を、かつて植えた場所の土の上に置いた。


 「もう一度、植えてみるよ。今度は、ちゃんと“想い”を添えて」


 スコップで優しく土をかぶせていく。手の動きに合わせて、過去の記憶が少しずつほどけていくようだった。


 私が言葉を失った日のこと。大切な人を救えなかった後悔。声にならなかった願い。すべてが、この小さな種に染み込んでいた。


 「……それって、“千尋さんの花”ですよね」


 詩織がぽつりと呟いた。


 私は静かにうなずいた。「ずっと、咲かせるのが怖かった。でも、もう逃げない」


 ふと、風が吹いた。温室の扉が少しだけきしみ、朝日が差し込む。


 小さな種の上で、淡い光がふわりと揺れた——まるで、すべてを包み込むように。

花屋を訪れるのは、いつも誰かの“想い”。

けれど時には、自分の心の奥にも耳をすませる必要があるのかもしれません。

千尋が植えた、ずっと眠っていた想いの種。その芽吹きが、

新しい記憶と希望の一歩になることを願って——

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