【第22話】ことばの種を抱いて
この世界では、伝えられなかった“ことば”が、花として咲きます。
でも――言葉になる前の想いは、どこへ行くのでしょうか。
今回描くのは、詩織という少女の“言葉になる前の記憶”。
紫の花が香る静かな時間のなかで、彼女が見つけたのは、自分を赦すための名もなき想いでした。
扉の前で立ち止まった少女は、しばらくのあいだ何も言わず、ただガラス越しに店の中を見つめていた。
肩までの黒髪が風にそよぎ、細い指先がぎゅっとスカートの端をつかんでいる。春先だというのにその手は少し赤く、まるでずっと外にいたかのようだった。
私はカウンターの奥から、静かに視線を向ける。
この店の扉は、強い想いを抱えた人にだけ見える。
だから、彼女がそこに立っているということは——。
やがて、軋むような音とともに扉が開いた。
「……こんにちは」
かすかに震えた声だった。
私は「いらっしゃい」と言葉を返し、微笑む。少女はおそるおそる店内に足を踏み入れ、辺りを見回すようにしながら、一歩ずつ近づいてきた。
「ここ、……お花屋さん、ですよね?」
「ええ。でも、ちょっと変わった花屋です。“想いを植えると、花になる”。そんな仕組みで、花を咲かせているんです」
少女の目が、少しだけ見開かれる。
私はテーブルの中央に置かれた銀のスコップを手に取った。
「もし、何か“言えなかったこと”や“伝えられなかった気持ち”があったら、それを植えてみませんか。名前のない想いでも、大丈夫です」
少女はしばらく黙っていた。
でも、やがておずおずと、ひとつの言葉を口にした。
「……わたし、“あの子”のことが、うらやましかったんです」
そのとき、小さな種が、ぽとりとテーブルの上に落ちた。
詩織が記録帳を閉じたあとも、私はしばらく紫の花を見つめていた。ガラス越しに差し込む夕陽が、花びらの縁を淡く照らしている。静かに呼吸するようなその花の姿に、言葉にならなかった時間の重さが重なった。
私はふと、温室の隅に置かれた古い鉢に目をやった。それは、詩織が店に来たばかりの頃、何も咲かせなかった鉢だった。今では小さな芽が顔を出し、そっと風に揺れている。
「いつか、あの芽も何かを咲かせるのかな」私は小さくつぶやいた。
詩織は隣で頷いた。「咲くと思います。きっと、それも、私の言葉のひとつだから」
霧が少しずつ晴れていくのを眺めながら、私はそっと紫の花に触れた。その感触は、まるで誰かの心の震えを受け取ったかのような優しさだった。
「ねえ、詩織。この花が、あのときのあなたの涙から咲いたんだとしたら……」
私がそう呟くと、詩織は小さく笑ってうなずいた。
「じゃあ、もう少しだけ、この店にいてもいいですか?」
私は答えず、ただうなずいた。それで十分だった。
詩織が記録帳にペンを走らせているあいだ、私は温室の奥へ進んだ。紫の花が咲いた鉢の隣に、小さな蕾が顔を出していた。色も形もまだ定かでないその芽を見ていると、まるで新しい想いが芽吹こうとしているように思えてくる。
「……また、咲くんでしょうか。この鉢にも」
後ろから詩織がやってきて、そっと問いかけてくる。
「うん。きっと、咲くよ。まだ名前もない想いかもしれないけど……こうして芽を出したってことは、ちゃんと、外に出る準備ができたってことだと思う」
詩織は微笑んだ。やわらかなその表情に、私はほっとする。
「ねえ、千尋さん。私、ずっと気になってたんですけど……千尋さんが、はじめて咲かせた花って、どんな花だったんですか?」
私は少しだけ考えてから、ひとつの鉢を棚の奥から取り出した。それは、ずっと昔に咲いた“無言の花”の鉢だ。今はもう、花は咲いていないけれど、葉の一枚が、いまもわずかに色を残している。
「これは、私がまだ、言葉に救われる前に咲いた花。店の原点みたいなものかな」
詩織は目を見開いたまま、その鉢をじっと見つめた。
「……すごい。なんだか、空気まで静かになるような……」
「うん。この花がね、私に“ここにいていいよ”って言ってくれた気がしたんだ」
自分の言葉が少し震えていることに気づきながらも、私は正直に話した。
「だから私は、この店を始めたんだと思う。“ことばにならない気持ち”って、誰の中にもある。だったら、それを咲かせる場所があってもいいって」
詩織は、小さくうなずいた。
「……私も、この店に来てよかったって思います」
その言葉に、胸が温かくなる。誰かの想いが、この場所で少しでも形になってくれたなら——それだけで、この店を開いてよかったと心から思えた。
ふと、外を見れば、霧がすこしずつ晴れ始めていた。差し込む光が温室のガラスに反射して、まるで世界が、もう一度呼吸を始めたように見える。
「……きっと、また誰か、来てくれるね」
私の言葉に、詩織は明るく笑った。
「ええ。名前のない想いを抱えて、きっと誰かが、扉を開けてくれます」
そしてまた、静かに一日が始まる。新しい花が咲くように、新しい想いがこの店を訪れる——そんな予感が、確かにあった。
それから数日が経った。詩織はあの花のことを話してから、どこか穏やかな顔つきになっていた。けれど、その奥には、まだ言葉にならない何かが残っているようにも見えた。
ある午後、霧の晴れた街角で、ひとりの青年が店を訪れた。旅の途中らしく、服には砂埃がついていたが、瞳はどこか優しかった。
「ここ……花を咲かせてくれるって、本当なんですか?」
その声に、私はゆっくりと頷いた。
青年は、少し言いよどんでから言った。
「……言えなかったんです。妹に、“守る”って言ったのに、あの日、守れなかった」
その瞬間、詩織の背中がぴくりと動いた。私たちは顔を見合わせる。青年の語る妹は、もしかしたら——。
「名前は……詩織さんって言います」
空気が、凍りついたようだった。
詩織は震える手で、銀のスコップを取り、静かに土をならした。
「じゃあ、植えてください。その想いの種を」
青年は驚きながらも、そっとポケットから小さなペンダントを取り出した。それは、かすかに花びらの形を模したガラス細工だった。
「これ、あの日、僕が最後に拾ったものなんです」
その種が土に触れた瞬間、淡い水色の花がふわりと咲いた。涙をこらえるように、詩織がその花に目を落とす。
「……お兄ちゃん」
ようやく、彼女がそう口にしたとき、言葉にならなかった時間が、ようやく解けたように感じた。
花は、誰かを責めるために咲いたのではなく、赦すために咲いたのだ。
私はそっと、記録帳を開いた。そして、その花に名をつけるよう、二人に促した。
「“ことばのない赦し”って、どうかな?」
詩織の兄は、ゆっくりと頷いた。
「……それが、僕らにとって、一番の言葉です」
名もなき痛みが、名を持つことで、ようやく過去から歩き出せる。
その日、花屋の扉の前に立ち尽くしていた霧が、静かに晴れていった。
読んでくださって、ありがとうございます。
誰にも伝えられなかった気持ちが、ただそこにあるだけで救われることもあります。
詩織が名づけた「ひとひらの記憶」は、過去を振り返るのではなく、今を生きるためのことばでした。
次回、第23話では、千尋と詩織の絆がもう一歩、深まる温室の“夜”をお届けします。




