【第2話】 花屋を継ぐことに、最初の「想いの花」が咲く
言葉を失った主人公・真叶が、「想いを花に変える」不思議な店を継ぐことになりました。
第2話では、最初の来訪者との出会いと、初めて“他人の想い”から花が咲く瞬間を描きます。
静かな再生の物語、どうぞごゆっくりお楽しみください。
温室の朝は、静かだった。
天井のガラス越しに、やわらかな陽が射し込んでいる。
昨日、突然ここに来たはずなのに、不思議と落ち着いている自分がいた。
部屋の奥に置かれていたノートを、もう一度開いた。
中には、たくさんの花のスケッチと、その花が咲いた“想い”の記録。
それを見ていると、ここがただの花屋ではないことがわかってくる。
この温室では、誰かの"ことばにできなかった想い"が種になり、花として咲くらしい。
俺が昨日、目の前で見たあの水色の花も、きっと俺自身の気持ちが形になったものだった。
少しずつ、受け入れ始めている。
この場所でなら、俺にも何かできるかもしれない。
そう思っていた矢先、扉の向こうから音がした。
控えめなノック。
こんなところに、他の誰かが来るとは思っていなかった。
扉を開けると、小さな老婦人が立っていた。
手には布にくるまれた鉢植えを抱えている。
「……ようやく、来てくれたのね」
老婦人の言葉に、戸惑いを隠せなかった。
だが、彼女は穏やかに笑って言った。
「その花屋は、ずっと昔から“想いを花に変える者”にしか見えないの。あなたのように、言葉を失った誰かがね」
俺は声が出ないまま、うなずいた。
「この店は、代々そうやって引き継がれてきたの。次の“継ぎ手”に届くように、花が呼ぶのよ」
あの夜、公園で咲いていた花。
あれは俺をこの店に導いた“呼び花”だったのか。
老婦人は、ゆっくりと鉢をテーブルに置いた。
「この鉢に宿っているのは、私の“言えなかった想い”よ。……もし、まだ花が咲くのなら、それをあなたに託したい」
俺は、黙ってうなずいた。
そして銀のスコップを手に取り、そっと土をほぐす。
触れた瞬間、じんわりと温かな感情が伝わってきた。
悲しみと、祈りと、ひとつの後悔。
――最後まで、ありがとうって言えなかった。
そんな声が、胸の奥に届いた気がした。
数時間後、鉢の中に小さな蕾が生まれた。
それは、やがて淡いピンクの花を咲かせた。
花弁の先がすこし震えていて、風もないのに微かに揺れている。
老婦人はその花を見て、目に涙を浮かべた。
「この花……夫の亡くなった日に、渡したかったの」
彼女は震える手で花に触れた。
「言えなかった“ありがとう”が、ずっと胸に残っていて。……でも、もう大丈夫ね」
俺は、花の記録帳を開いた。
花の名前を、彼女に尋ねる。
「そうね……“ともしびざくら”。夜の中でも、心を照らすような花だから」
俺は、その名を丁寧に記し、そっと魔法の栞を挟んだ。
老婦人は帰り際、ふと振り返って言った。
「この店は、想いを届ける場所よ。あなたの声がなくても、人の心にはきっと届くわ」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
花屋を継ぐとは、誰かの“言えなかった言葉”を、咲かせるということ。
この温室に、新たな花がひとつ加わった。
それは、確かにここに咲いた、小さな再生の証だった。
俺は、老婦人が帰ったあともしばらくその場を動けなかった。
まだ信じられなかった。たしかに花が咲いた。けれど、それがどういう力によって起きたのか、自分にそれができた理由も、よくわからないままだった。
ふと、記録帳を開く。古びたページには、丁寧な文字でこう書かれていた。
『花は、ことばのかけらから生まれます。言えなかった想い、胸に残っていた後悔、誰かに届かなかった優しさ——それらが“ことばの種”となり、温室の魔力によって芽吹き、咲きます』
ページをめくるごとに、いろんな花と“想い”が記されていた。
『ずっと言いたかった「ありがとう」が、淡い黄色の花になりました』
『別れを告げる勇気がなかった。その心が咲かせたのは、しとしと雨のような紫の花でした』
一つひとつの想いが、かたちを持つことで、誰かの心に届いていく。
そんな場所を、俺は継いだんだ。
そっと道具棚を開けてみた。中には、銀のスコップ、透明なガラス瓶、小さな木製の名札、香りの違う土の小袋——どれも、普通の園芸とは少し違う、魔法の気配をまとっていた。
道具のひとつひとつに、前任者の丁寧な字で説明が添えられていた。
『銀のスコップ:想いをすくう道具。ふつうのスコップでは芽は出ません』
『記録帳:花が咲いたら、名をつけて記すこと。その花は、誰かの物語です』
『名札:花に名を与えると、花は記憶を持ちます。名もなきまま枯れる花は、さみしいです』
俺は、そのすべてをそっと撫でてから、テーブルに並べた。
そして、もう一度温室の中央に向かった。
昼の光が、ガラス越しに差し込んでいる。
老婦人が残していった“ともしびざくら”は、まだそこに咲いていた。
花のまわりを、やわらかな空気が包んでいるような気がした。
この場所に来たとき、俺は何もなかった。
声も、夢も、言いたいことも、全部置いてきたような気がしていた。
でも今、少しだけ思った。
ここでなら、もう一度始められるかもしれない。
もう一度、人の想いと向き合って、誰かの“ことば”を咲かせていくことで、俺もまた、自分の声を見つけられるかもしれない。
温室の扉を見やった。
その向こうには、まだ見ぬ“想い”を抱えた誰かが、きっと待っている。
俺の役目は、それを受け取り、花にすること。
言葉のいらない花屋で。
その晩、俺は温室の隅々を見て回った。
まだ見ていなかった小さな扉を開けると、そこには木の引き出しが並んだ小部屋があった。ひとつひとつの引き出しには、古びたラベルが貼られていて、手書きの文字で「ことばの種」「未記録」「咲かなかった花」などと書かれていた。
その中に、「名前のなかった花」という引き出しがあった。
そっと開けると、中には乾いた花の標本が入っていた。色も形もまだ少しだけ残っていて、だれかの感情を吸った証のように、わずかに香りが漂っていた。けれど、その隣の紙には、名前も、記録も残されていなかった。
咲いたけれど、誰にも伝わらなかった花。
俺は、その標本をそっと手に取って、心の中でつぶやいた。
「ごめん……」
誰に向けた言葉なのかはわからなかった。でも、その瞬間、自分の胸にも何かが引っかかっていることに気づいた。
ここに来る前、最後に会った人のこと。
声を失って以来、連絡を断ってしまった友人のこと。
家族のこと。
思い出したくなくて、遠ざけていたものが、静かに花のかたちで心に浮かんでくる。
俺も、まだ“咲かせていない想い”を持っているのかもしれない。
ふと、部屋の奥の棚に、一通の封筒が置かれているのを見つけた。
差出人の名前はなく、ただ「次の継ぎ手へ」とだけ書かれていた。
封を切って中を読むと、そこにはこう書かれていた。
『言葉にできなかった気持ちを、あなたはたくさん持っているでしょう。
だからこそ、あなたはここに来たのです。
この店で、他人の想いに触れるたび、あなた自身の花も少しずつ咲いていくでしょう。
あなたの声が、また世界とつながるその日まで——』
読んだあと、涙がこぼれた。
俺は手紙を棚に戻し、小さくうなずいた。
ここで生きていく。
花と想いに囲まれて。
そう決めた夜だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、戦わない異世界転生ファンタジーとして、「想い」や「ことば」そのものに焦点を当てています。
今回登場した“ともしびざくら”のように、誰かの中で灯りとなるような花を、これからも描いていけたらと思います。
次回も、どうぞよろしくお願いします。