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【第19話】芽吹く記憶

霧に包まれた静かな朝、店には誰の足音も届かず、ただ花たちの気配だけが優しく息づいていました。

そんななかでふと香った“名前のない花”は、千尋の記憶の奥に引っかかっていた過去と、もうひとつの想いを呼び覚まします。

それは、詩織がまだ胸の奥にしまっていた、言葉にならなかった記憶。

花はそっと、それに寄り添い、咲いてくれました。


その日、朝から花屋の扉は一度も開かなかった。


霧が濃く、街の音すら届かない。いつもなら空を飛ぶ小鳥の声がしているはずなのに、まるで世界ごと遠ざかってしまったような静けさだった。


俺は奥の温室の扉を開けて、湿った空気を吸い込む。花たちは、霧に濡れているのに不思議と元気そうだった。特に、入り口近くの淡い紫の花が、ふわりと香った。


「真叶さん、お客さん……今日も来ませんね」


詩織の声が背中越しに届く。


「こんな日は、きっと、来たいのに来られない誰かがいる」


俺はそう言って、小さな鉢の土を指でならした。


この店は、言葉を植える場所だ。伝えられなかった想いや、声にならなかった気持ちが、ことばの種となって土に根を張る。


だけど——中には、まだ種になる前の想いもある。言葉になれなかった気持ち。名前すら持たないまま、胸の奥に潜んでいるもの。


そんな“名前のない想い”が、今日、俺の胸に引っかかっていた。


 霧に包まれた街の中、花たちの色だけが確かなもののように思えた。ピンクのアネモネ、クリーム色のベゴニア、そして見慣れぬ薄青の蕾——それぞれが、まるで誰かの気持ちを代弁するように静かに揺れていた。


 「……ねえ、真叶さん」詩織が口を開く。「こうして誰も来ないと、なんだか花屋が、時間ごと止まっているみたいです」


 「そうかもね。でも、花たちはちゃんと生きてるよ。想いって、言葉にしなくても、ちゃんと動いてるんだと思う」


 そう言いながら俺は、ガラス越しに外を見た。もしかするとこの霧の向こうで、誰かが声を出せずに立ち止まっているかもしれない。花屋の扉を開けることさえできないまま、ただ、ここを想っているだけの誰かが——。


 俺はふと、あの紫の花を見た。やはり何かが気になる。名前のないまま咲いたその姿は、誰かのためではなく、自分の胸にこぼれたもののような気がしてならなかった。


 そのときだった。棚の奥にしまわれた花の花の記録帳が、ぱらりと一枚だけ風にめくられた。


 近づいてみると、それは数ヶ月前に咲いた「記憶の花」のページだった。花の色も形も思い出せないけれど、そこには詩織の丸文字で、こう書かれていた。


《言葉にはならなかった。でも、忘れてしまっても、たしかにあった気持ち。》


 なぜだろう。俺は、その記述を目にしたとたん、胸の奥がちくりと痛んだ。まるで誰かの声が、遠くから届いたような、そんな感覚。


 「真叶さん……それ、読み返してるんですか?」


 詩織の声に我に返る。俺はそっとページを閉じて、花の記録帳を元の位置に戻した。そして、あの紫の花にもう一度目をやった。


 ……やっぱり、この花は、誰かの“記憶”とつながっている。


それは“詩織の過去”に関わる花だったのかもしれない。


詩織がこの店に来たのは、ちょうど一年前の春。言葉にできない涙を抱えたまま、ふらりと迷い込むように扉をくぐってきた。私は理由を訊かなかった。けれど、彼女の瞳の奥に沈んだ色が、今もはっきりと目に焼きついている。


彼女が最初に植えた“ことばの種”は、沈黙の中にあった。


何も語らず、ただ土に触れていた日々。その指先から生まれたのは、名もない白い花だった。風に揺れるその姿は、まるで“話せなかった自分”を映しているように思えた。


——あの花と、今、紫の花がつながっている。


私は静かに温室の奥へ向かった。扉の向こう、小さな棚の上に、詩織が大切にしているガラス瓶が並んでいる。その中のひとつに、小さな花びらがひとひらだけ浮かんでいた。


「……詩織。この花、咲いたときのこと、覚えてる?」


背中越しにそう訊ねると、彼女は少しだけ息をのんで、そっとうなずいた。


「……あのとき、“どうして私だけ残されたんだろう”って、思ってたんです」


淡々とした口調。でも、その声は、震えていた。


詩織の言葉に、私は息をのんだ。


「事故だったんです。私と姉と、二人で山道を歩いていて……ほんの一瞬、手を離したら……」


そこから先は、言葉にならなかった。でも、私は黙ってその隣に立った。紫の花は、あのときの記憶を、花びらの中に閉じ込めたのだろうか。


「ごめんね。無理に訊くつもりじゃなかった」


そう告げると、詩織はかすかに首を振った。


「……いいんです。むしろ、あの花が咲いてくれて、ほっとしたんです。私の中にあったものが、ちゃんと咲いてくれたから」


私はうなずいた。


花は、言葉にできなかった想いの代わりに、そっと咲いてくれる。誰かに伝えるためではなく、自分のために——。


だからきっと、あの紫の花も、詩織自身が自分を抱きしめるために咲かせたのだ。


「詩織、この花に名前、つけてみようか」


私は鉢をそっとテーブルに置いて、記録帳を広げた。


「名前……ですか?」


「うん。今なら、つけられる気がする。言葉にならなかった気持ちが、少しずつ形を持ち始めてる。そう思わない?」


詩織はしばらく黙っていた。でも、その目は、もう過去に閉じ込められてはいなかった。


「……じゃあ、“ひとひらの記憶”って、どうですか」


私は笑ってうなずいた。その名は、彼女が歩いてきた時間そのものだった。


記録帳のページに、“ひとひらの記憶”と詩織の文字で書かれた瞬間、紫の花がふわりと香った。まるで、自分の名前をもらえて、ほっと息をついたようだった。


外はすっかり夕暮れで、窓の向こうに茜色の光が差し込んでいる。店内の空気も、どこか柔らかく感じた。


誰かの想いが咲くたびに、この店もまた、少しずつ変わっていく気がする。


そして、それは詩織自身も同じだ。


少しずつでも、過去の痛みを抱えながら、でも確かに前を向こうとしている。そんなふうに、名のない想いが、名前を得て咲くその瞬間が、この店にとっても私たちにとっても、大切な意味を持つのだと思った。

紫の花は、静かに咲いていた。


 名前をもらったばかりのその花は、まるで今まで黙っていた気持ちが、少しずつ空気に溶け出していくように、優しく香りを放っていた。


 「……千尋さん」


 ふいに、詩織が私の名前を呼んだ。さっきまでより、少しだけ明るい声だった。


 「私、この花が咲いてくれて、よかったって、心から思えます」


 私は微笑んでうなずいた。


 「うん。きっと、花のほうもそう思ってる」


 詩織は、両手で鉢を包み込むように持ち上げ、温室の中央のテーブルへと運んだ。その姿は、まるで大切な記憶をそっと棚に戻すようだった。


 「……昔、姉と一緒に、花を摘みに行ったことがあるんです」


 詩織がぽつりとつぶやく。


 「花の名前、姉はすぐに覚えるのに、私はなかなか覚えられなくて。いつも『これはなんていう花?』って訊ねてばかりでした」


 そう話す詩織の横顔は、どこか懐かしさに彩られていた。


 「でも……いま思うと、名前を知らなくても、そのとき感じた気持ちって、ちゃんと残ってたんだなって」


 私はその言葉に、小さくうなずいた。


 「名前がなくても、想いは生きてる。逆に、名前をもらったことで、その想いが少しずつ動き出すこともある」


 外では、霧が少しずつ晴れはじめていた。


 私は扉を開けて、かすかに光が差し込む空を見上げた。いつのまにか、鳥のさえずりが戻ってきていた。


 「千尋さん」


 もう一度、呼ばれる。


 「ありがとう」


 詩織が、まっすぐに私を見てそう言った。


 その瞳の奥には、もう“言葉にならなかったもの”はなかった。

詩織は記録帳を閉じると、そっと紫の花の鉢に手を添えた。その指先は、かつて震えていた日々よりも、少しだけしっかりして見えた。


 「……私、少しだけですけど、このお店で、自分の気持ちに向き合えるようになった気がします」


 その言葉を聞いて、私は温室の奥の壁を見上げた。そこには、花たちの押し花が額に飾られている。“咲かせた気持ちの記憶”として。


 「詩織、あなたの花も、額に入れようか」


 「……はい。お願いします」


 花に名前をつけること。それは、過去に光を当てることでもある。名前をもらった花は、もうひとりぼっちじゃない。そうして、店もまた、咲いた気持ちとともに息をしていく。


 霧はまだ晴れていなかったけれど、温室の中には、やわらかな灯りが満ちていた。

「伝えるための花」ではなく、「自分のために咲いた花」があるのだと、改めて感じるお話でした。

詩織がつけた「ひとひらの記憶」という名前には、過去を乗り越えようとする勇気と、確かにそこにあった想いへの敬意が込められています。

誰にも言えなかった感情も、いつかこうして花になる。そんな優しさを、これからも丁寧に描いていけたらと思います。

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