【第18話】君が残した種
ひとりの老いた魔族が、静かに花屋を訪れました。
彼が残していったのは、言葉ではなく、たったひと粒の“種”。
それは、もう二度と会えない誰かへの想いでした――。
このお話は、長い時間を越えて咲いた、ひとつの「ありがとう」の物語です。
その老魔族が店を訪れたのは、しとしとと雨が降る午後だった。
ずいぶんと深くかぶったフードの下からのぞいたのは、静かな金の瞳。背は高く、歳月を刻んだしわと、杖の音が印象的だった。
けれど足取りには迷いがなかった。まるで、この店がどこにあるかを知っていたように、扉を押して現れた。
「……ここが、想いを花にする場所か」
つぶやく声は低く、けれどやわらかかった。
真叶は入り口に立つその姿に、小さくうなずいて応える。
老魔族は一歩、また一歩と、花々の間をゆっくり進んだ。
濡れたマントからしずくが落ち、店内に雨の匂いが混じる。
ふいに、彼はポケットから小さな瓶を取り出した。
中には、薄く透けた種がひとつ。
「これは……伴侶が最期に残していったものじゃ。
なぜか、花屋に預けてくれと言い残してな」
その種は、わずかに金色がかっていた。光の当たり方で、青にも見える。
詩織がそっと目を見開く。
「これは、“未送の種”……誰かに伝えられなかった想いが結晶化したものです」
老魔族はゆっくりとうなずいた。
「生前、わしの妻は花を育てるのが好きじゃった。言葉を失ってからも、鉢植えに向かっては、何か話しているようでの。
その最期の夜、わしにこれを渡してこう言った――『この種を咲かせて。わたしが残した、言えなかった言葉だから』と」
千尋がそっと真叶に目配せをする。
真叶は静かに銀のスコップを手に取り、老魔族を奥の温室へと案内した。
ガラス越しに、雨音がかすかに響く。
中央の丸い鉢には、まだ何も植えられていない柔らかな土が敷かれている。
老魔族はゆっくりとしゃがみ込み、震える手で瓶の蓋を開けた。
掌に転がったその種は、どこか温かみを帯びていた。
「……咲くかどうかはわからぬ。だが、あの娘の願いを叶えてやりたい」
真叶は、その手元にそっとスコップを差し出した。
老魔族は微笑んでうなずき、自らの手で、種を土へと埋めた。
静かな、けれど確かな動作だった。
「リアよ……聞こえておるか。これは、わしの贈り物じゃ」
その瞬間、温室にふわりと風が通った。
どこからか花の香りが届いたような気がして、真叶は胸の奥があたたかくなるのを感じた。
老魔族のまなざしは、鉢の土を見つめたまま遠くを見ていた。
「……リアは、最期まで優しい女じゃった。わしが年をとるのを気にして、言葉を使うのも控えるようになっての。
それでも、目を細めて鉢に水をやる姿は……まるで、花に話しかけておるようで……」
その声には、深い懐かしさと、癒えない喪失がにじんでいた。
真叶はただ静かに隣に立ち、詩織もそっと胸元で手を組んで、そっと目を伏せた。
「この店が、あの娘の願いを継いでくれるのなら、それだけで、救われる気がするわい」
それは、花に託された想いを信じる、老魔族の小さな祈りだった。
種を植えたあとも、老魔族はしばらく土の上に手を置いていた。
まるで、そこに触れていれば、もう一度彼女の声が聞こえるのではないかと願うように。
けれどその時間は、どこか静かで、満ち足りていた。
真叶は、温室の空気がやわらかく変わっていくのを感じた。
ふと見ると、鉢の中の土が微かに光を帯びている。
「……動いた?」
詩織が息をのむ。
小さな芽が、そっと土の中から顔を出していた。
それはふるふると震えながら、少しずつ、けれど確かに背を伸ばしていく。
花弁が開いたのは、その数秒後だった。
ひらりと咲いた花は、まるで羽のように軽く、透きとおった金色だった。
「……リア」
老魔族の瞳が細められる。
咲いた花は、まるで言葉を持つように、優しい香りを放っていた。
それは、今もそこにいると伝えるように、彼の心を包んでいく。
「これが……あの娘の、言えなかった言葉か」
その声は、もう震えていなかった。
詩織はノートを開き、咲いた花のスケッチを急いで描きはじめた。
「この花……香りが、泣いてるみたいです。言葉じゃなくて、気持ちが伝わってきます……」
真叶も、その香りに包まれていた。
胸の奥にぽつんとあった空白が、静かに埋まっていく感覚。
それはまるで、誰かの想いがそっと手を伸ばしてくれたようだった。
老魔族はそっと立ち上がり、杖を支えにしながら鉢を見下ろした。
「この花の色は……あの娘の好きだった夕暮れの空に、そっくりじゃ。最後まで、わしの顔を見て笑ってくれた。言葉はなくとも、すべてが伝わった気がした……」
彼の言葉に、詩織が静かにうなずく。
「だからこそ、言えなかった“ありがとう”や“さよなら”が、花になったんですね」
温室に漂うその香りは、いつまでも、やさしくそこにあった。
やがて、老魔族は帽子を深くかぶり直し、ゆっくりと立ち上がった。
「……ありがとう。こんなにもやさしい花を、あの娘の想いに寄り添ってくれて」
真叶は、無言で一礼した。
けれどその沈黙は、何もないわけではなかった。
言葉にできない感情が、たしかに伝わっていた。
詩織が小さく手を振ると、老魔族はゆるやかに背を向け、温室の出口へと歩いていった。
千尋はその背を見送りながら、静かに言った。
「想いがちゃんと届くと、人は少しだけ軽くなる。……それが言葉じゃなくても、ね」
真叶は、そっと鉢のそばにしゃがみこむ。
咲いた金色の花が、まるで見守るように、やさしく揺れていた。
それは、たしかにここに“言えなかった言葉”が咲いたという証だった。
真叶は、棚の上に置かれていた古い花の記録帳を開いた。
花の名前、咲いた日、咲かせた人の名。
そのひとつひとつに、忘れられた気持ちや、届けられなかった言葉が記されている。
そっと空いていたページに、今日咲いた花のスケッチを描く。
詩織が丁寧に花弁の形をなぞり、千尋が名前を考える。
「この花、なんて名前にしようか」
千尋がつぶやいたその声に、真叶はふと、老魔族が最後に見せた笑顔を思い出した。
あの花は、彼が娘に伝えたかった言葉そのものだった。
ありがとう、さようなら、ごめん、またいつか。
全部を一輪に込めたような花だった。
真叶は、そっと指先でその言葉をなぞるようにして、スケッチの下に書いた。
『君が残した種』
それが、その花の名前になった。
ページを閉じたとき、窓の外には新しい朝の光が差し込んでいた。
鉢の中の花はまだ揺れている。
それは、もうこの場所に“想い”が根づいたという証のようだった。
詩織がそっとつぶやく。
「花の記録帳って、日記みたいですね。見えなかった誰かの気持ちが、ここに咲いて残ってる」
千尋は笑った。
「うん。この店は、想いの博物館みたいなものかもしれないね。言えなかった言葉って、どこかに置いてこれないと、ずっと重いから」
真叶は静かにうなずいた。
そしてページの端に、今日の日付を記し、小さな“ありがとう”の印をそっと添えた。
想いを言葉にできない人が、また一人、この場所に訪れた。
そのたびに咲いた花たちは、誰かの記憶のなかに、そっと根づいていくのだろう。
それが、言葉の代わりになるのだとしたら――
この店で咲く花は、どれもが世界の静かな祈りかもしれない。
今日もまた、ひとつ、祈りの花が増えた。
窓辺に立った詩織が、ふと外を見ながらつぶやいた。
「……この町にも、きっとたくさんの“言えなかった言葉”があるんだろうな」
真叶はその背中を見つめる。
詩織の声は、少しだけ寂しそうで、それでも前を向いているように聞こえた。
千尋が静かに笑って言う。
「だから、わたしたちはここにいるんだよ。咲かせてあげるために」
温室の奥にある棚には、まだまだ空白のページがたくさん残っている。
これからも、いくつもの花がこの場所で咲いて、想いの記録となっていくのだろう。
その全てが、誰かの言葉にならなかった気持ち。
それを受けとめるために、この店は今日も静かに扉を開けている。
真叶は、小さくうなずいて、記録帳を閉じた。
そして花に向かって、心のなかでそっとつぶやく。
――きっと、届いたよな。
光が差し込む温室で、咲いた花がひとつ、風もないのに揺れていた。
それはまるで、見えない誰かが、そっと頷いてくれたかのようだった。
誰かの心に残されたままの想いは、言葉にならなくても、
静かに息をしているのかもしれません。
花となって現れたその想いは、確かに誰かに届いていました。
――今日もまた、花屋には新しい“ことばの種”が、そっと運ばれてきます。