【第16話】心に降る花びら
誰にも見せなかった涙が、もしも花に変わるとしたら——。
今回は、ある青年が抱えていた“言えなかった痛み”が、静かに咲いていくお話です。
感情に言葉が追いつかないとき、代わりにそっと揺れるものがあったらいい。
この物語が、そんな優しさを思い出すきっかけになりますように。
その日の朝は、静かに雨が降っていた。
花屋の温室には、いつもより濃い湿気と、しんとした匂いが漂っていた。葉の上に溜まった水滴が、時折ぽたりと落ちる音が、静けさを強調していた。
千尋は、カウンターの奥でガラス瓶の整理をしていた。詩織は温室の入り口付近に座り、ひとつ前に咲いた花の記録をノートに書きつけている。
扉の鈴が、ちりんと小さく鳴った。
詩織が顔を上げると、そこにはひとりの青年が立っていた。濡れた黒髪と、やや大きめのフード。年のころは高校生くらいだろうか。けれどその表情は年齢よりもずっと落ち着いていて、どこか遠くを見ているような目をしていた。
「いらっしゃいませ」詩織が声をかけると、青年は小さくうなずいて店内に入ってきた。
言葉はないまま、彼は店の中央に置かれた鉢植えの前で立ち止まる。両手はポケットの中。背中が少しだけ丸まっていた。
千尋がカウンターから出て、そっと彼の隣に立つ。「ここは、“言葉を植える花屋”です。もし、伝えられなかった想いがあるなら、ゆっくりしていってくださいね」
青年はまた、小さくうなずいた。
詩織が、何気なく彼の横顔を見る。表情には何も浮かんでいないように見えるのに、なぜか、彼の周囲だけ空気が冷たい気がした。
まるで、誰にも気づかれないまま、ずっと泣いていた人のようだった。
詩織はそっと立ち上がり、奥の棚から小さな鉢を取り出した。「もしよければ、これを……」
青年はその鉢を受け取り、じっと中を見つめた。中には、まだ芽の出ていない黒い土と、小さな銀のスコップが添えられているだけだった。
「……ことばの種を、植えてみませんか?」と詩織がやわらかく言った。
彼は、ゆっくりと頷いた。
手のひらをそっと開くと、彼は小さな紙片を取り出した。それは雨で少しにじんだメモだった。
何かを書こうとして、途中でやめたような、消えかけの文字がそこに残っている。
「これ……ずっと、ポケットに入れてたんです」
小さな声だった。彼がはじめて口を開いたその瞬間、店の奥で誰かの気配がそっと動いたような気がした。
青年は、そっとメモを折りたたみ、鉢の黒い土に指でくぼみをつけると、その中に紙片を埋めた。
スコップは使わなかった。手で土を軽くかぶせると、掌を伏せたまま、長いこと動かなかった。
まるで、そこに何かを預けるように。何かを、ようやく手放せたように。
詩織と千尋は、静かにその様子を見守っていた。
やがて、土の表面がわずかに揺れた。
ふるえるように、小さな芽が顔を出す。最初は葉のようなかたちをしていたが、すぐに、白く半透明の花びらがゆっくりと開いていく。
ひとひら、またひとひら。
まるで、それは――涙が空から落ちてきたみたいだった。
詩織がそっと息をのむ。
花は音もなく咲いていた。けれど、その場の空気が、ほんのすこしだけ、やわらかくなるのがわかった。
青年は、その花を見つめたまま、かすかに唇を開いた。
「ずっと……謝れなかったんです」
その声はかすれていた。けれど、誰よりも深く届くような響きを持っていた。
「ごめん、って言えなかった。あのとき……言えなくて。結局、何も伝えられなかったまま、離れてしまって」
詩織はそっと椅子を引いて、青年の隣に座る。「ことばって、声に出すのが怖いとき、ありますよね」
「はい……。ちゃんと謝れば、許されたかもしれないのに……。それが怖かったのかもしれません」
千尋が、奥から小さなラベルを持ってきて、花のそばに添える。「それでも、咲いたんですね。その気持ちは、ちゃんとここに届いたんです」
青年の目に、光が揺れていた。それはたぶん、花のせいじゃない。ずっと見せなかった、誰にも見せられなかった、自分自身の涙だった。
「この花、名前は……ありますか?」
千尋は少し考えてから、やわらかく微笑んだ。「今、つけましょうか。あなたが願ったこと、そのままでも」
青年は戸惑ったように視線を落とす。でも、小さな声で言った。
「じゃあ……“ゆるされたい”で」
千尋はラベルにその言葉を書き添え、そっと鉢に差した。
それは、ただの言葉じゃなかった。ようやく心から出てきた、ひとしずくの祈りのようだった。
詩織は、花にそっと指を伸ばした。けれど、触れる寸前で手を止める。
「なんだか……この花、すごく繊細ですね。壊れてしまいそうで」
千尋は小さく頷いた。「きっと、想いが強すぎたぶん、花びらが薄くなったのかも。心の奥にあったものほど、そうなります」
青年は、花の名札を見つめながら、小さく微笑んだ。
「ありがとう……」
その声には、もう迷いはなかった。まるで、長い長い冬を抜けて、ようやく春の光にたどり着いた人のように。
青年が帰ったあと、店の中はしんと静まり返っていた。
温室の天窓から、午後のやわらかな光が差し込んでいる。その光を受けて、“ゆるされたい”の花が、ゆっくりと揺れた。
まるで、誰かの言葉が、風に溶けてどこかへ旅立っていくようだった。
詩織は、鉢のそばにしゃがみ込み、花びらを見つめる。
「涙みたい、って……ほんとですね」
千尋はうなずいた。「言えなかった言葉って、心に溜まると、水みたいになるんだよ。冷たいまま、動けなくなる。でも、それを手放せたとき……たぶん、それが“咲く”ってことなんだと思う」
「……わたし、まだ、言えてない言葉があるかも」
「きっと、それもいつか咲くよ。今じゃなくても、大丈夫」
詩織は少しだけ、ほっとしたように笑った。
窓の外では、鳥のさえずりが聞こえていた。春の訪れを告げるような、明るく軽やかな声だった。
詩織は立ち上がり、小さな鉢の名札を見つめる。そこには、青年の書いたことば――“ゆるされたい”が、まだ少し震えていた。
「この花、名前をちゃんと記録しておきますね」と詩織が言うと、千尋は静かに頷いた。
「きっと、また誰かが似た想いを持ってここに来たとき、この花が道しるべになってくれるよ」
詩織は花の記録帳を開き、名前と特徴、そして咲いた理由を丁寧に書き込んだ。
その横で、千尋は静かに銀のスコップを片づけ、次の鉢の土をやさしく整える。言葉を植える準備は、いつだってここにある。
「ところで……さっきのお客さん、最後に少し笑ってた気がします」
「うん。あれは、きっと……芽が出たところ」
風がそよぎ、温室のガラスがきらりと光を返した。その光の中で、白い花はもうひとつ、静かに花びらを開いた。
その午後、咲いたのは、ただの植物じゃない。言葉にできなかった想いが、ようやく世界に触れた瞬間だった。
その花は、誰かが「もう一度前を向いてもいいのかもしれない」と思えた、小さなきっかけになるだろう。言葉を花に変えるこの場所は、派手ではないけれど、確かに誰かを救っている。
そしてまた、扉のベルが優しく鳴った。
記録を終えた詩織は、小さく深呼吸した。
「ここに来る人たちって、たぶん、自分の言葉が見つからないから……花に託したいんですね」
千尋は、頷いた。
「そう。声に出せなかった想いを、手放せる場所が必要なんだよ。花は、そういう言葉を、優しく咲かせてくれる」
「私も……いつか、自分のことばを、ちゃんと花にできるようになりたいな」
千尋は、微笑んだ。
「そのときは、君の“種”も、一緒に植えよう」
温室に春風が吹き込んだ。揺れる花々の中で、小さな“ことばの種”が、そっと落ちた気がした。
物語は、まだ咲き始めたばかりだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
「心に降る花びら」は、“誰にも見せなかった涙”という想いから生まれた花の物語でした。
詩織のまなざしや、千尋の言葉が、あなたの心にもそっと届いていればうれしいです。
次回は、伝えられなかった想いが“告白”として咲く第17話。どうぞお楽しみに。