【第15話】ひとひらの優しさ
こんにちは。
「ことのは温室」に咲く花々には、それぞれ誰かの“言えなかった想い”が込められています。
今回の訪問者は、まだ幼さの残る少年。
彼の胸に残っていたのは、うまく伝えられなかった「ごめんね」でした。
不器用な優しさが、ひとひらの花に変わる瞬間を描きます。
朝の光が差し込む温室で、千尋は新しい鉢の土を整えていた。
夜露をまとった葉たちが、静かに目を覚ますように揺れている。
「今日は、少し風がやさしいですね」
詩織がそう言いながら、棚の花に水をやっていた。
彼女の言葉に頷きながら、千尋はふと、入り口のベルの音を待つような気持ちになる。
この店は、想いが言葉にならなかった人だけが見つけられる場所。
だから、今日も誰かが、見えない扉を開けてやってくるかもしれない——。
と、そのときだった。
ちりん、と控えめな音が鳴った。
現れたのは、小さな精霊だった。
草花のような羽を持ち、両手で何かを大切そうに抱えている。
「……この店、やっぱり、あるんだね」
精霊はまるで自分に言い聞かせるように呟いた。
詩織がそっと声をかける。
「ようこそ。何をお探しですか?」
精霊は少しだけ迷ったあと、手にしていたものを差し出した。
それは、小さな布に包まれた“ことばの種”だった。
「これ、わたしじゃない誰かの気持ちなの。届けたくて……でも、わたしじゃうまく育てられなかった」
その言葉に、千尋の胸がやわらかくなる。
「……想いを受け取って、花にする場所です。お預かりしてもいいですか?」
精霊は、ほっとしたように頷いた。
そのやさしい仕草に、詩織はふと、春に風がなでるようなあたたかさを感じた。
静かな朝に訪れたのは、自分のためではなく、誰かのために来た客だった。
その優しさこそが、きっと大切な芽を咲かせるのだと、千尋は思った。
千尋は受け取った種をそっと両手に乗せた。
ほんのりとあたたかい。
けれどそれは、精霊自身の体温ではなく、その中に眠る“想い”の熱だとわかった。
「ありがとう」と、心の中でつぶやく。
千尋はゆっくりと温室の奥へ向かうと、古い木の鉢を選び、丁寧に土をならした。
詩織がすぐそばに立ち、いつもの銀のスコップを差し出してくれる。
種を植えるとき、精霊は小さく口ずさんだ。
それは言葉ではない旋律。風と花の間だけで交わされるような、ひそやかな祈りだった。
静かに土をかぶせると、千尋がそっと声をかけた。
「きっと、咲きますよ。この想いは……まっすぐだから」
精霊は、何かを堪えるように笑った。
「咲いたら、きっとあの子に届くよね。届いてほしいな。わたし、伝えきれなかったから……」
それは、かつて誰かを想い、でもその気持ちを伝えられなかった者の顔だった。
千尋も詩織も、それがどんなに切ないことか知っている。
だからこそ、この花屋がここにある。
そして、その種が咲かせる花が、どんな言葉を宿しているのか——
まだ誰も知らない。
花を咲かせるまでには、少し時間がかかる。
それは、想いの深さと同じように、じっくりと心をほどいていく過程でもあった。
千尋は、精霊の置いていった“ことばの種”を植えた鉢のそばに、木の札を立てた。
「預かりもの」とだけ書かれたその札は、まるで祈りのしるしのように揺れていた。
その日の午後、珍しく店に人間の少年が訪れた。
まだあどけなさの残る顔つきで、手には小さなノートを握りしめている。
千尋と詩織が振り向くと、少年は少し戸惑った表情を浮かべながら、そっと頭を下げた。
「……あの、ここって、“言えなかった気持ち”を……花にできるって、ほんとですか?」
詩織が優しく微笑む。
「はい、本当です。少しお話を聞かせてもらえますか?」
少年はノートを胸に抱えたまま、言葉を探すように黙った。
けれどその瞳の奥には、何かを伝えたいという強い想いがあった。
やがて少年は、ノートを開いて一枚の紙を差し出した。
そこには、震える文字で短い文章が綴られていた。
『ぼくは、ごめんねって言えなかった。』
それを読んだ千尋の胸に、静かに波が広がっていく。
——“ごめんね”の言葉は、やさしさの裏返しだ。
けれど、ときにその一言が、どうしても喉を通らないときがある。
それを知っているからこそ、千尋は静かに頷いた。
「じゃあ、その気持ち、咲かせてみましょうか」
少年は千尋の言葉に頷くと、花壇のそばに座った。
その背中はどこか、不安そうに揺れていた。
詩織がそっと木箱を取り出し、中から淡い色の種を選んだ。
「この種、あなたの気持ちに似てるかもしれません」
少年はそっとそれを受け取り、指先で包むように握った。
千尋が促すように、鉢の前に案内する。
少年は戸惑いながらも、土の上に膝をついた。
小さな手が土を掘り、詩織の差し出した銀のスコップがそっと添えられる。
「ここに、気持ちを預けてください」
千尋の静かな声に、少年は深く息を吸い込んだ。
そして、ぎゅっと目を閉じて、種をそっと土に置いた。
——ごめんね。
声には出なかったが、その想いは確かに土へと伝わった。
静かに土をかぶせたあと、少年は立ち上がらずにしばらく鉢を見つめていた。
その横顔は、どこか泣きそうだった。
「……言えなかったこと、ちゃんと残るのかな」
ぽつりとこぼれたその言葉に、千尋は優しく答えた。
「残りますよ。そして、咲きます。あなたの代わりに、言葉になって」
その言葉を聞いて、少年の肩が少しだけ、軽くなったように見えた。
それから数日が過ぎたある朝、店の温室にそっと差し込む光が、ひときわ強くなった。
千尋が鉢のひとつに目をやると、少年が植えた“ごめんね”の種から、小さな芽が顔を出していた。
その芽は、まるで頷くように風に揺れている。
「咲きそうですね」
隣で声をかけた詩織も、穏やかな目をしていた。
千尋は頷いて、記録帳を開く。まだ名前のついていないこの花に、どんな名前をつけようかと考えていた。
昼頃になると、あの少年がまたひょっこりと店の前に現れた。
今日は手ぶらだったが、その表情にはほんの少しだけ、自信のようなものが宿っていた。
「来ても、いいですか」
千尋は静かに頷き、温室の奥へ案内する。
そして、例の鉢の前に立ったとき、少年は思わず声を漏らした。
「……咲いてる……」
咲いていたのは、薄桃色の小さな花だった。
ふんわりとした花弁が重なり、光を透かして淡く輝いている。
その中央には、どこか涙のように光る粒が見えた。
千尋がそっと名札を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
『未熟なやさしさ』
少年はそれを読み、ぎゅっと唇を結んだ。
そして、ぽつりとつぶやく。
「……あの子に、ちゃんと伝えようと思う。遅くなったけど、“ごめんね”って」
その言葉に、千尋も詩織も、ただ静かに微笑んで頷いた。
人は誰しも、言えなかったことを抱えて生きている。
けれど、それを咲かせた先に、やさしさがひとひら宿るのなら——
少年はしばらくその花を見つめていたが、やがて振り返り、千尋に頭を下げた。
「……ありがとう。ぼく、本当に……ここに来てよかったです」
その瞳には、ほんの少し涙のきらめきがあったが、もう泣き顔ではなかった。
詩織が記録帳にそっと花のスケッチを描きながら、ささやくように言った。
「言えなかったことって、誰の中にもあるんですね……でも、花にできるなら、ちょっとだけ前に進めるのかも」
千尋は頷き、芽吹いた花に目をやった。
「この花は、君の“未熟さ”を咎めるものじゃない。むしろ、その不器用な優しさを認めてくれてるんだ」
少年はその言葉を胸に刻むように頷いた。
「……あの子、もう転校しちゃったけど、手紙を書こうと思います。いまなら、ちゃんと“ごめんね”って書ける気がするから」
「それが、きっとその子の心にも届きますよ」
詩織の言葉に、少年は小さく微笑んだ。
そしてその日、店をあとにする少年の背中は、来たときより少しだけ大きく見えた。
やさしさは、いつだって完璧じゃない。
でも、それを伝えようとする心に、ひとひらの花が咲く。
ここは、そんなやさしさの咲く場所だ。
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
やさしさは、ときに上手く届かないこともあるけれど、それでも伝えようとする気持ちは、きっと誰かの心に種を残してくれるのだと思います。
次回は、また違った“ことばにならなかった想い”が花として咲く予定です。
どうぞ引き続き、「ことのは温室」にお付き合いください。