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【第14話】言葉をなくした少女

「言葉をなくした少女」は、ある日ふらりと花屋に現れた、小さな沈黙の来訪者のお話です。

声にならない想いが、そっと花に託される夜。

静けさの中にこそ宿るやさしさを、千尋と詩織が丁寧に受け取っていきます。


朝の光が、温室のガラスを柔らかく照らしていた。


店先に置かれた木のベンチに、一人の少女がちょこんと座っていた。

年の頃は十歳くらい。薄いベージュのワンピースを着て、小さなリュックを抱えている。

目が合うと、びくりと肩をすくめた。


「こんにちは」


千尋が声をかけても、少女は何も言わなかった。

ただ、唇を結んだまま、リュックの端をぎゅっと握る。


「お店のこと、誰かに聞いて来てくれたのかな」


少女は小さくうなずいた。それだけで、精一杯の勇気を出したように見えた。


店の中へ案内すると、少女は周囲をきょろきょろと見渡しながら、控えめに椅子に腰を下ろした。

どこか落ち着かない様子で、言葉を発する気配はない。


「話すのが苦手でも、大丈夫だよ。うちでは、言葉にならなかった想いを花にできるからね」


そう言って、千尋は棚の上から銀のスコップと、まだ空っぽの鉢を取り出した。

少女は、恐る恐るその様子を見ていたが、やがてリュックの中から、折りたたまれた紙を取り出した。


そこには、子どもらしい字で、こう書かれていた。


——わたしは、わるくないですか?


千尋はしばらく黙って、その言葉を見つめた。


「うん。咲いた花が、きっとその気持ちに答えてくれるよ」


少女は少しだけ目を見開いた。そして、静かにうなずいた。


千尋がことばの種を渡すと、少女はそれを両手で受け取り、そっと鉢に植えた。

種は、ほんのわずかに淡い光を帯びていた。


それを見たとき、千尋は気づいた。

この少女もまた、「言葉をなくした人」なのだと。


温室の奥、空気が少し揺れる。


少女の想いが、ゆっくりと芽吹きはじめていた。


鉢に土をかぶせ終えると、少女は手のひらでぽんぽんと表面をなでた。

その仕草が、まるで誰かの頭を優しくなでるように見えて、千尋は胸の奥がじんとした。


「よかったら、お水をあげてみる?」


千尋がジョウロを差し出すと、少女はほんの少し迷ったあと、こくんとうなずいて受け取った。

そして、小さな手でゆっくりと水を注ぐ。

土にしみこんでいく水が、ぽつり、ぽつりと音を立てる。


詩織が奥から出てきて、そっと見守るように隣に座った。


「かわいい芽が出るといいね」


その言葉に、少女はちらりと詩織を見て、またすぐに目を伏せた。

けれど、その頬はほんのり赤くなっていた。


静かな時間が流れるなか、鉢の中の土が、かすかに光を帯び始めた。

きらきらと舞い上がる粒子。

少女が息をのんだそのとき、土の中から、小さな芽がゆっくりと顔を出した。


芽は、まるで誰かに気づいてほしいかのように、そっと震えていた。

少女は目を見張り、そして、小さな声にならない息を吐いた。


——こころの種が、芽を出した瞬間だった。


詩織がノートを開いて、そっと鉛筆を走らせる。

今日、この場所にやってきた“言葉をなくした少女”の物語が、今、花になる準備をしていた。

少女が植えた芽は、温室の穏やかな空気のなかで、ゆっくりとその姿を変えはじめていた。

千尋と詩織はそっと見守りながら、彼女が言葉を失った理由を、まだ言葉にならないまま受け取ろうとしていた。


少女は再び、小さな紙を取り出し、鉛筆で何かを書きはじめた。

震える文字で、こう書いてあった。


——わたし、うたってた。


詩織がゆっくりと目を見開く。

千尋も、静かに頷いた。


「歌ってたんだね。どんな歌だったのかな」


少女は、少しうつむいて考えるような仕草を見せた。

そして、もう一枚紙を取り出し、今度はすこし時間をかけて書いた。


——わらってほしかった。


千尋はその文字を見つめて、そっとつぶやいた。


「その気持ち、きっと届いてるよ。花が教えてくれる」


鉢の中の芽が、ふるりと震えた。

それはまるで、少女の想いに応えるような、やさしい合図だった。


「花が咲いたとき、名前をつけてもらえるといいな」


そう言った詩織に、少女は一瞬戸惑い、それからほんの少しだけ微笑んだ。


その笑顔はまだ不安定で、どこか揺れていたけれど、確かにそこに“声にならない言葉”があった。


外では、夕暮れの風がガラスにやさしく触れ、温室の中にあたたかな影を落としていた。


その日の温室は、どこか特別な空気に包まれていた。


詩織はそっと記録帳を開き、少女の“想いの芽”にそっと名前をつけようとしたが、すぐに手を止めた。

「……まだ、咲いてないもんね」


千尋が笑ってうなずく。


「咲くまでは、わからないんだ。でも、きっとそのときが来る」


少女は千尋と詩織のやり取りを、じっと聞いていた。

そして、鉢に咲く小さな芽にそっと手を伸ばす。

まだ花ではないその存在に、自分のすべてを重ねているようだった。


「この芽が咲いたら、いっしょに見ようね」


詩織のその言葉に、少女はふたたびこくりと頷いた。

紙に何か書こうとして、でも途中でやめ、かわりにそっと笑った。


その微笑みが、千尋の胸を不思議にあたためた。


誰にも言えなかった言葉。

何度も飲み込んだ気持ち。

本当は伝えたかったのに、伝えられなかった想い。


それらは、こうして少しずつでも、

ちゃんと花になる場所を見つけていくのだ。


温室のガラスの向こうで、夜が静かに始まっていた。

夜が深まり、温室にはランプのように灯る草が静かに光を放っていた。


少女はまだ帰ろうとせず、鉢のそばに座っていた。

千尋がそっと温かいミルクを差し出すと、少女は受け取り、小さく頭を下げた。


「もうすぐ、咲くかもしれないよ」


千尋の声に、少女は鉢を見つめた。

その瞬間だった。芽が、ふるりと震え、光の粒をまといながら、ひとつの花を咲かせた。


小さな、小さな花だった。

けれどその花は、白く、澄んでいて、どこか歌声のように響いている気がした。


少女は、両手で口を覆った。


「……すごいね」詩織がぽつりと呟く。


千尋は、花にそっと手をかざした。

そして、心の中で語りかける——


「この子の言えなかった想い、聞かせて」


すると、淡く揺れる花から、やわらかな感情が溶けだした。


——どうして、だまってるのって言われたとき、こわかった。

——うたってたのに、うるさいって言われたとき、くるしかった。

——それでも、わらってほしかったのに。


それは、少女がずっと胸に抱えていた、壊れやすい願いだった。


詩織が記録帳にペンを走らせながら、小さく微笑む。


「この花の名前、つけてくれる?」


少女はしばらく考えたあと、紙に一言だけ書いた。


——しろいね。


それはきっと、色のことだけじゃなかった。

何も濁っていない、まっすぐな想い。

誰かに否定されても、残っていた“やさしい気持ち”。


千尋はゆっくりとうなずいた。


「きれいな名前だね。“しろいね”。うん、この花にぴったりだ」


少女はそのとき、初めて声にならない声で、小さく笑った気がした。


言葉がなくても、人の想いは伝わる。

そう信じられる一夜だった。


その夜、少女はしばらく温室の中にいた。

詩織がそっと毛布を持ってくると、少女は静かにそれを受け取って、花のそばに座り続けた。


言葉がなくても、ここにいれば伝わる気がしたのかもしれない。

あるいは、自分の奥にまだ残っている“うた”を、もう一度思い出そうとしていたのかもしれない。


千尋は、温室の隅にある古びたガラス棚の中から、小さなガラス瓶をひとつ取り出した。

それは“想いの花”が咲いたときにだけ使われる、記録のための瓶。


「この花の香り、少しだけ閉じ込めておこうか」


千尋の問いに、少女はこくりとうなずいた。

詩織が瓶の口をそっと花に近づけると、淡い香りの粒が瓶の中に吸い込まれていった。


蓋を閉じた瞬間、瓶の中で淡い光が灯る。

それは“伝えたかったけれど、伝えられなかった声”の、静かな証だった。


少女は瓶を見つめ、やがて紙にこう書いた。


——ありがとう。


その言葉は、震えていて、それでもまっすぐだった。


言葉にならなかった想いが、ようやく花になって、誰かに届いた夜。


それが、この花屋で起こった、ひとつの奇跡だった。


最後まで読んでくださってありがとうございます。

誰かに何かを伝えるのが怖くなる日、きっと誰にもあります。

このお話が、そんな心の奥で揺れている気持ちに、そっと寄り添えたらうれしいです。

少女が名付けた“しろいね”の花が、読んでくださったあなたにも届きますように。

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