【第13話】笑えなかった日の花束
自分の「本当の顔」を見せるのは、案外むずかしいものです。
この物語では、とある青年が「笑えなかった自分」と向き合い、その奥に隠れていた優しさを、ひとひらの花に託してゆきます。
見た目では気づけない想いが、花を通じて静かに咲いていく。
そんな場面を描きました。
店の扉が開いたのは、昼下がりのことだった。
乾いた風が、鈴の音とともに温室に吹き込み、一人の青年が姿を現した。
背は高く、整った顔立ちだが、その表情にはどこか影が差していた。
胸元をぎゅっと押さえるように、ためらいながら一歩を踏み出す。
詩織がカウンターから顔を出し、「いらっしゃいませ」と声をかけると、
彼は小さくうなずき、店内をぐるりと見渡した。
「……花の匂い、懐かしいです」
ぼそりと漏らしたその声は、ほとんど独り言のようだった。
千尋が温室の奥から姿を見せ、「何かお探しですか?」と尋ねると、
青年は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「……人前で“笑えなくなった”のって、いつからだろうって思ってて……。
昔、何でもないことでよく笑ってた気がするんですけど、最近は、鏡を見ても無表情で……」
その言葉に、詩織がふと目を伏せた。
千尋は彼を温室の中央、あの大きな鉢の前に案内した。
彼は戸惑いながらも腰を下ろし、両手を膝の上に置くと、ぽつぽつと話し始めた。
「仕事で失敗が続いて、周囲にも気を遣わせて。
なのに、“大丈夫です”って言いながら、ずっと仮面をかぶってたんです。笑ってるふりをして。
……でも本当は、誰にも気づいてほしくなかっただけかもしれない。
心配されたくなくて。そんな自分が、余計に嫌で」
彼の目は伏せられていたが、その声には、長く押し込めていた感情がにじんでいた。
千尋は無言で、彼の想いを受け止める。
そして、彼の胸に眠る“言葉にならなかったもの”が、そっと鉢の中に落ちていくような気がした。
土が、微かに揺れた。
詩織がそっと椅子を差し出し、千尋は青年の前に小さな鉢を置いた。
「ここに、“ことばの種”を植えてみませんか」
青年は戸惑いながらも、促されるまま銀のスコップを手に取った。
その手はかすかに震えていたが、土をすくう仕草は丁寧だった。
「……笑顔を作るのが、苦しかったです。
誰にも頼らないって決めてたのに、ふとした瞬間に、助けてって言いたくなる自分が、悔しくて……」
土の中に、心の奥から出た“ことばの種”が落ちた瞬間、鉢がふるりと揺れた。
彼の指先がほんの少しだけ、温もりに触れた気がして、目を見開く。
「……あったかい?」
千尋はうなずいた。
「あなたの中にあった想いが、ちゃんとそこに届いた証です」
青年の目が、ゆっくりと鉢の中を見つめる。
やがて、湿った土の表面から、小さな芽が顔を出し始めた。
青年が見つめる鉢の中で、小さな芽がゆっくりと成長していく。
土を押しのけながら伸びるその姿は、まるで彼自身の心の奥に沈んでいた感情が、ようやく光を見つけたかのようだった。
「こんなにすぐに……」
青年がぽつりと呟く。
千尋は微笑んで答えた。
「想いが強いと、花は早く咲くことがあります。でも、焦らなくても大丈夫です。花が咲くのに、時間はかかってもいいんです」
その言葉に、青年は少しだけ目を細めて、鉢の中の芽に視線を落とした。
しばらくして、芽はやがて花弁を広げ始めた。
淡い桃色の、まるで夕暮れの空のような色合い。
花弁の縁がふるふると揺れて、小さな風すら生み出しているようだった。
青年は目を見開いた。
「……なんだか、昔好きだった風景を思い出しました。放課後、帰り道の川沿いで、友達とふざけながら歩いたときの……」
言葉に出したその瞬間、彼の肩の力がすっと抜けていくのがわかった。
千尋は言った。
「この花は、あなたの“本当の笑顔”を忘れないように咲いたのかもしれませんね」
青年はしばらく花を見つめていたが、やがて小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました。まだ、ちゃんと笑えるかわからないけど。帰ったら、鏡の前で、もう一回笑ってみます」
詩織がそっとガラス瓶を差し出した。
「この花、よかったら持って帰りませんか? 今日のあなたにとって、大切な言葉を咲かせてくれた花です」
青年は驚いたように目を丸くし、すぐに困ったように笑った。
「……でも、もったいないですよ。こんな、自分のためだけの花なんて」
「もったいなくなんかありませんよ」と詩織は優しく言った。
「あなたがここまで歩いてきてくれたこと、その勇気が、花を咲かせたんですから」
青年は瓶を受け取り、そっと胸元に抱きしめた。
小さく、けれど確かな声で、「ありがとうございます」とつぶやいた。
帰り際、扉を開ける直前、彼は一度だけ振り返った。
「……この花の名前、ありますか?」
千尋は少し考えてから、微笑んで答えた。
「“微笑草”とでも、呼びましょうか。
無理に笑おうとしなくていい。ただ、ふと心が緩む瞬間があれば、それで十分です」
青年はうなずき、花屋をあとにした。
残された空気には、かすかに甘く、柔らかな香りが漂っていた。
詩織がぽつりとつぶやく。
「……今日の花、やさしい香りがしましたね」
千尋も、うなずいた。
「きっとあの人、あしたは、少し笑えるはずだよ」
青年が去ったあとの店内には、静けさと、咲いたばかりの花の香りが残っていた。
「千尋さん……」
詩織が、窓際の光を見ながらぽつりとつぶやく。
「はい」
「もし、あの人がまた来たら、もっと強い想いを持っていたら……そのときは、あの花はまた咲くんでしょうか?」
千尋は少しだけ考えてから、うなずいた。
「うん。花は、何度でも咲くよ。変わっていく想いを映して、姿も香りも、少しずつ違う花になることもある」
「じゃあ……私の中にも、まだ咲いていない花、あるのかな」
千尋は、詩織の言葉に目を細めた。
彼女の瞳は、遠くを見ているようだった。
「あるよ、きっと。言葉にならなかった想いは、誰の中にもある。咲くかどうかは……それを、見つけようとするかどうかだね」
詩織はふっと笑って、温室の奥へと歩き出した。
テーブルの上には、今日咲いた花の記録帳が置かれている。
彼女はペンを手に取り、ページをめくると、今日の花の名前をゆっくり書き込んだ。
「“微笑草”……」
その文字の横に、青年の笑顔を思い出しながら、そっとひとことを添える。
——きっと、また笑える日が来ますように。
(第13話 終わり)
温室の扉が、カランと音を立てて閉まったあとも、しばらく詩織はぼんやりと立ち尽くしていた。
ふと、温室のすみで風に揺れる鉢に目が留まる。そこには、咲ききれなかった花がひとつ、まだつぼみのままで佇んでいた。
数日前、ことばの種を植えたが、なかなか咲かないまま日だけが過ぎていた鉢だ。
「……ねえ、これって」
詩織がつぶやくと、千尋が横に来て、うなずいた。
「うん。誰の想いかわからない。でも、何かを言いたそうにしてる。きっと咲くよ、いつか」
詩織はそっと、鉢に手を添えた。
「わたしも、まだうまく言葉にできないこと、あるのかもな……」
そのつぼみは、わずかに揺れて、詩織の手のひらにあたたかさを返すようだった。
彼女はそっと微笑んだ。
「そのときは、ちゃんと咲いてほしいな。わたしの知らなかった“わたし”を、教えてくれる気がするから」
千尋は、そっと目を細めてうなずいた。
店の中には、花と、まだ言葉になっていない想いが、やわらかく積もっていた。
その晩、詩織は花屋の片隅にある自室で、ノートを開いていた。
ページには、これまで記録してきたたくさんの花の絵と、その花に込められた想いが並んでいる。
けれど、今日の花だけは、うまく描けなかった。
「微笑草……あの花の色、なんて表せばいいんだろう」
ペン先が止まり、しばし沈黙が流れる。
思い浮かべるのは、あの青年が最後に見せた、ほんのわずかな笑顔。
痛みの奥にあった、温かな光。
「……そうか、あれは“ほっとした”顔だったんだ」
つぶやくと、筆が動き出した。
花の中心から外側に広がる、あの淡い色。
きっと、それは心がほどけたときに咲く色。
そして彼女は、花の横にそっと書き添えた。
——誰かに、見守られていたことを思い出したときに、咲く花。
その文字を見つめて、詩織はようやく小さくうなずいた。
「……おやすみ、微笑草」
灯りを落とすと、部屋には静かなぬくもりが残った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「笑えなかった日」に咲いた“微笑草”は、きっと彼の心のどこかで、少しずつ光を灯していくのでしょう。
また、詩織自身の内にも、まだ咲いていない花がある——
この温室には、誰にも見せられなかった想いが、そっと息をひそめているのかもしれません。
次回もまた、小さな花の物語をお届けできたら嬉しいです。