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【第12話】さよならが言えなかった朝

花が咲くには、時間がかかることもある。

誰かの胸にしまわれた“ありがとう”もまた、すぐに言葉になるとは限りません。

今話では、想いを伝えそびれた女性が訪れる朝を描きます。

“遅れて届いた想い”が、静かに芽吹くひとときです。

朝の光が、温室のガラスを優しく照らしていた。


棚の上で揺れる葉の影が、床に淡く映る。千尋は、手入れを終えた鉢に水をやりながら、まだ誰も来ぬ扉のほうをちらりと見た。


そこに、カラン、と小さなベルの音が響いた。


「おはようございます……」


少し低く、けれどどこか張りのある女性の声だった。


現れたのは、濃い紺色の帽子をかぶった中年の女性だった。制服のような上着を羽織っているが、どこかそれが私服にも見える。右肩に斜めがけにされた鞄が、かすかに重みを伝えていた。


「……迷ったんです。でも、なぜかここに来てしまって」


女性は、そう言って帽子を脱ぎ、胸元で抱えるように持った。


千尋はうなずき、温かいお茶をすすめた。木の椅子に腰かけた女性は、湯気に包まれるようにして、ようやく落ち着いたようだった。


「わたし、郵便屋をしてたんです。いや、今もしてる……のかな。しばらく休んでるだけです」


詩織がそっと横に立ち、女性の言葉に耳を傾けた。


「朝が……苦手になってしまって」


千尋と詩織は、互いに目を合わせた。言葉にはしないが、ふたりの中で同じ予感が走る。


この人は、何かを“抱えて”ここに来た。


それはまだ、名前のない種のまま。けれど、確かに息づいているものだった。


「朝になると、ふと思い出すことがあるんです。あのとき、最後に言えなかった言葉のこと」


女性の目が少しだけ遠くを見る。


「わたしには、弟がいました。五つ年下で、昔から少し無鉄砲なところがあって……でも、いつも私を笑わせてくれて。あの子がいたから、配達の途中でも、ふっと気が抜けたんです」


手の中のカップをそっと置いて、彼女は続けた。


「でも、ある朝――その子が、突然いなくなったんです。事故でした。わたし、その日の朝、彼に手紙を書いていたんです。渡すつもりで。でも……間に合わなかった。机の上に置いたままになってたんです」


静寂が、温室の中をふわりと覆う。外の木々が風に揺れ、かすかな葉擦れの音が届く。


「今でも、朝が怖いんです。あのときと同じ光が窓から差し込むたびに、心がざわつく。届かなかった手紙が、わたしの中でずっとくすぶってるみたいで」


詩織が、そっと立ち上がった。無言で奥の棚から、小さな鉢をひとつ持ってきて、女性の前に置く。


千尋も、ガラス瓶から細長い“ことばの種”を取り出した。


「ここでは、その手紙の“気持ち”を植えることができます」


「……わたしの中のままで、止まってしまった言葉が、まだ咲くと思いますか?」


「咲くと思いますよ。あなたが、それを渡したいと願うなら」


女性は、しばらく黙っていたが、やがてそっと種を受け取った。


種を受け取った女性は、しばらくその小さな光を見つめていた。


それはほんのりと温かく、かすかに揺れているように感じられた。まるで、心の奥で眠っていた言葉が、呼吸を取り戻したかのようだった。


鉢の上にそっと手を伸ばし、彼女は種を植えた。


千尋が銀のスコップで土をやさしくかぶせると、詩織が静かに水をそそぐ。ふたりの動作は、まるで儀式のように穏やかで、確かなもので、その間、女性はずっと目を閉じていた。


やがて、水が土にしみ込む音だけが、温室の中に残った。


しかし――芽は、なかなか出なかった。


「……あれ?」


詩織がぽつりとつぶやく。


ほとんどの“ことばの種”は、すぐに反応を見せる。だが今回、鉢は沈黙を守っていた。空気がわずかに重たくなる。


「咲かない、のかな……?」


女性がぽつりと言うと、千尋は静かに首を振った。


「咲かないんじゃない。まだ、“言えていない”のかもしれません」


「……言えていない?」


「本当の“さよなら”って、想いと一緒に声に出すことなんです。たとえ誰にも届かなくても、自分の中で言い切ること。それが、種に伝わるんだと思います」


女性は、黙って鉢を見つめていた。


手紙に込めた気持ち。間に合わなかった朝。後悔とともに、ずっと胸の中で止まっていた言葉。


それを、本当に“伝える”ためには、もう一歩だけ、踏み出す必要があるのかもしれなかった。


「わたし、あの朝、弟にこう書いてたんです。“今日はお土産買って帰るね”って。たった、それだけ。ふざけたやり取りのつもりだったんです」


女性の声は静かだが、にじむものがあった。


「その日が、最後になるなんて思わなくて……本当は、“心配してる”とか“ちゃんと生きて”とか、もっと言いたいことがたくさんあったのに、冗談でごまかしてばかりだった」


彼女は鉢に向かって、少し息を吸い込んだ。


「……おはよう。今日もちゃんと起きてるね。朝が来るたびに、あなたのことを思い出す。いまでも、言えなかったことがあるの。……いってらっしゃい。また、ちゃんと会いたいな」


ふと、鉢の表面がかすかに光を放ち始めた。


土の中で何かが動き、柔らかな葉先が土を押し上げるようにして、ゆっくりと芽吹いた。


「……咲いた?」


詩織が小さな声でつぶやく。


そこに咲いたのは、白と金の筋が混じる、朝露のように透明な花だった。まるで朝日の中でだけ咲くための花のように、静かで清らかな香りを放っている。


千尋がそっとつぶやいた。


「これは、“遅れて届いた想い”の花……ですね」


女性の目から、ぽろりと涙がこぼれた。


しばらくのあいだ、温室の中には、誰も言葉を発さなかった。


咲いた花のそばで、女性はゆっくりと目を閉じ、何度か深呼吸をしていた。

それは、胸の奥からひとつひとつ、重い石を下ろすような呼吸だった。


「……ありがとう」


ようやく漏れたその言葉に、詩織がそっと手を差し出す。

女性はそれを受け取り、小さく頭を下げた。


「きっと、届きましたよ」


詩織の声は、ほんの少しだけ震えていた。


千尋は花のスケッチブックを取り出し、咲いた花の形を描き写す。

その下に、“遅れて届いた想いの花”という言葉と、女性が残した言葉の断片を添えていく。


その記録帳は、言葉にならなかった想いと、それが咲かせた花をつなぐ、大切な記憶のアルバムだった。


――ふと、温室の外から、小鳥の鳴き声が聞こえた。


いつのまにか、夜が明けはじめている。

やわらかな朝日が、ガラスを通して店内に差し込み、咲いたばかりの花をほんのり照らしていた。


「少し、明るくなってきたね」


女性がそうつぶやいたとき、その目元はもう涙ではなく、どこか晴れた表情をしていた。


「今日は、あの子の誕生日なんです」


ぽつりと、そんな言葉がこぼれる。


「花を手向けるかわりに、ここに来てよかったです」


千尋は頷き、そっと花の根元にリボンを結んだ。

その色は、女性が身につけていたストールと同じ色だった。


「また、想いがあふれたら、いつでもいらしてください」


女性は静かにうなずくと、温室の扉を開け、やわらかな朝の風の中へと歩き出した。


その背中を見送りながら、詩織はぽつりとつぶやいた。


「咲いた花って、その人の気持ちが形になったものなんだね」


千尋はうなずく。


「そして、それはきっと、“これから”を歩いていく力にもなる」


花を咲かせるということは、過去を整理するだけでなく、新しい一歩を踏み出すための魔法でもあるのだ。


店内に残った、淡く光る花が、静かに風に揺れていた。


店の外では、朝の光に照らされた通りが少しずつ目を覚ましはじめていた。

パン屋の煙突からは、香ばしい匂いを含んだ白い煙が立ちのぼり、新聞配達の少年が自転車を走らせていく。


千尋は少しだけ目を細めて、その光景を眺めた。


「詩織。今日の花、記録に残しておいて」


「うん。ちゃんと書くね」


詩織は花の名前と咲いた理由を丁寧に記しながら、ぽつりと言った。


「言葉って、遅れても……届くんだね」


千尋は、温室の中央にある鉢を見つめながら答えた。


「うん。想いが本物なら、時間に遅れることなんてない。遅れて咲く花も、その人だけの花だから」


詩織は、咲いた花にそっと水をやりながら、静かに頷いた。

その表情には、いつものような微笑みと、少しだけ大人びたまなざしが混じっていた。


想いは、声に出さなくても、確かにそこにある。

たとえ時間が経ってしまっても、伝えようとする気持ちがある限り、花は咲くんだと思います。

読んでくださってありがとうございました。

次回は、過去の約束に触れるエピソードへと続いていきます。

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