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【第11話】胸に刺さったままの言葉

届かなかったひとことは、時に胸の奥に棘のように残ります。

今回、花屋を訪れたのは「許されたい」という想いを抱えた人でした。

伝えることができなかった後悔。その痛みは、どんな花を咲かせるのでしょうか。

静かに、けれど確かに心を揺らす回となっています。

 その男が店に現れたのは、雨上がりの午後だった。


 背は高いが猫背ぎみで、くたびれたコートの裾には泥がついていた。手には古びた木箱を持ち、口を結んだまま店内を見渡す。年のころは四十代半ばといったところだろうか。無言の圧が、店の空気をきゅっと引き締めた。


 千尋は静かに一礼し、中央のテーブルを指さした。


「こちらへどうぞ。お話がなくても、想いがあれば、花は咲きます」


 男は言葉も返さず、ぎこちない足取りで椅子に腰を下ろした。


 詩織が湯気のたつハーブティーを置いても、男は目を伏せたまま動かない。ただ、その手の中の木箱だけが、強く握られていた。


 千尋はそっと「ことばの種」を植えるための鉢を用意し、スコップをそばに置いた。


「お持ちのもの……よろしければ、それも一緒に」


 しばらくの沈黙ののち、男は木箱を開いた。中には古い手紙の束と、小さなメモ帳、そして色あせた野球ボールがひとつ入っていた。


 それを見た瞬間、千尋の胸に、かすかな痛みが走った。


 この人は、ずっと何かを胸に刺したまま生きてきたのだ。


 男はボールを手に取ると、それを鉢の上にそっと置いた。土に触れた瞬間、ふっと風が吹き抜け、店内の空気がざらりと変わる。


 土がわずかに揺れ、そこに黒ずんだ種のようなものが浮かび上がってきた。


 詩織が思わず息を呑む。


 その種は、まるでとげのような形をしていた。触れれば痛みそうな、深く硬い想い。


 千尋は、それにそっと手を添えた。


「たくさんの『言えなかったこと』が、ここにあるんですね」


 男はうなずきもしない。ただ、拳を握るその手に、わずかに力がこもるのが見えた。


 それは、まるで過去の自分を握りしめているかのようだった。


 千尋は静かに鉢を手前に引き寄せ、土を少しずつ掘っていく。スコップの先が種に触れた瞬間、かすかに火花のような光がはじけた。


 それは痛みでも怒りでもなく、深く長く続いた沈黙の名残だった。


 詩織が、そっと小さなノートを開いた。


「花の色、咲くまえから見える気がします。きっと……青くて、とげとげしい。でも、きれいなんです」


 千尋は静かにうなずいた。


 花はまだ咲いていないのに、空気だけがひりついている。まるで、誰かを責めることもできず、ずっと自分を責め続けてきた心の色だ。


 そしてその奥には、まだ言えなかった“ありがとう”の光が、かすかに隠れている気がした。種が静かに土に沈んでいったあとも、店内の空気はどこか張りつめたままだった。


 千尋は静かに水差しを手に取り、鉢に水を注ぐ。その音はまるで、誰かの記憶を洗い流すような、やわらかな響きだった。


 男は目を伏せたまま、小さくつぶやいた。


「ずっと、謝れなかったんです」


 千尋も詩織も、声をかけなかった。ただその言葉が土にしみこむように、静かに耳を澄ます。


「息子に……最後の試合の日、遅れてしまって。間に合わなかった。ずっと野球を応援してきたのに、いちばん大事な日に……僕は」


 その声は、とぎれとぎれだった。言葉のあいだに、長い年月の重みが滲んでいた。


 千尋はうなずき、そっと鉢を回して土を整えた。


「想いは、届かなかったわけじゃありません。時間を超えて、こうして芽を出そうとしているのですから」


 男はその言葉に、わずかに肩をふるわせた。


 詩織がそっと記録帳を開く。


「この花の名前、もう浮かんでいますか?」


 男は黙っていたが、ふと、懐からくしゃくしゃの紙を取り出した。そこには、震える文字で、たった一言だけが書かれていた。


「――ゆるしてくれ」


 詩織がページの余白にその言葉を写し取る。


 そのとき、鉢の中から、小さな青い蕾が、ゆっくりと顔をのぞかせた。


 花弁はまだ硬く閉じていたが、中心にわずかな光がともっていた。


「これは、後悔の花……でも、誰かを想って咲こうとしてる」


 千尋がそっと手を添えると、蕾がかすかに揺れた。


 その揺れはまるで、心の奥で誰かが返事をくれたような、やさしい温度を持っていた。


 男の目が、かすかに潤んでいた。


 その涙は、きっと赦しを待つだけのものじゃない。


 赦されないまま、それでも生きていくと決めた人の、静かな祈りのしずくだった。


 店の奥に飾られている、過去の想いが咲いた花たちが、そっと風に揺れていた。


 その揺れが、ひとつの肯定のように思えた。


 どんな想いも、咲いていい。どんな過去も、置いていける。


 それがこの店で育つ花たちの、いちばんの魔法なのだ。翌朝、花屋の温室には、一輪の花が静かに咲いていた。


 青と白がにじんだその花は、まるで誰かの涙が乾いて、形になったようだった。


 詩織がそっと指先で触れると、花弁が小さく揺れる。どこかあたたかい、見えない風が通り過ぎたように感じた。


 記録帳に「赦しを乞う青花ルクス・ペルドン」と名を記すと、ページの端がすっと軽くなった。


「ちゃんと、咲いてくれたね」


 千尋がやさしくつぶやく。


「きっと、あの人の中にも、少しずつ何かが咲いていくんだと思う」


 詩織はうなずき、机の上のガラス瓶に花の種を一粒落とす。その種は、光を帯びるようにして静かに沈んでいった。


 昼をすぎても、店は静かだった。


 けれど、あの花だけは、ゆるやかに風をたたえていた。


 誰にも届かないまま胸に刺さっていた言葉が、ようやくどこかに根を下ろしたのかもしれない。


 千尋は椅子に腰かけ、記録帳のページをそっとめくる。


 過去の想いたちが咲かせた花の記録が、そこには並んでいた。


 そのどれもが、伝えられなかったことばたち。


 けれど、咲いたことで救われた想いが、確かにあった。


「ことばって、不思議だね」


 ぽつりとこぼした詩織の声に、千尋はふふっと笑った。


「うん。でも、だからこそ咲かせてあげたいんだ」


 ことばにならなかった痛みも、言えなかった後悔も、


 こうして、花として残っていくなら――


 それは、きっと誰かの記憶の中で、


 もう一度、やさしく咲きなおすことができるから。


 そのとき、ドアがそっと開いて、風鈴の音が鳴った。


 振り向くと、小さな女の子が立っていた。手には、しわくちゃになった紙袋。


「ここ、花屋さん……ですか?」


 千尋と詩織は顔を見合わせ、にっこりと笑った。


「うん、言葉を植える花屋だよ。いらっしゃい」


 女の子は小さくうなずき、ゆっくりと紙袋を差し出す。


 その中には、ぬいぐるみと、小さな折りたたまれた紙。


 そっと開くと、震える文字で「ごめんね って言えなかった」と書かれていた。


 詩織は膝を折って目線を合わせた。


「この想い、ちゃんと咲かせようね」


 千尋がガラス瓶を取り出すと、空気が少しだけやわらかくなった気がした。


 またひとつ、物語が始まる気配が、そっと温室に満ちていった。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

第11話では、「赦し」と「許されたい気持ち」に焦点を当てました。

言えなかった言葉は、心の奥に残り続けます。けれど、それでも花として咲いたとき、

その想いは少しだけ、やさしくなれる気がします。

次回、第12話は「さよならが言えなかった朝」。

また新たな“言葉”と出会えるように、温室の扉を開けてお待ちしています。


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