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【第10話】名前のない想いの種

自分の気持ちに名前をつけるのって、思っている以上にむずかしいことかもしれません。

今回訪れたのは、「何がつらかったのか」すら分からないまま日々を過ごしてきた青年。

彼の胸の奥に沈んでいた“ことばにならなかった想い”が、やがてひとつの花として芽吹きます。

 その青年は、花を見ても、まったく表情を変えなかった。


 日が傾きかけたころ、ひとりの来客が店の扉を開いた。背は高く、黒のパーカーを着た無表情の青年。年の頃は二十代前半くらいだろうか。細い目元には疲れの色がにじんでいたが、整った顔立ちはどこか中性的で、話しかけづらい雰囲気をまとっていた。


「いらっしゃいませ」


 詩織が声をかけると、青年は軽くうなずいたきり、何も言わずに店内を見てまわりはじめた。棚の花々に目を向けては、ただ立ち尽くす。その姿は、まるで“なにかを探している”というより、“なにも見つからないこと”に慣れているようだった。


 やがて彼は、静かに口を開いた。


「……ここ、変わった店ですね。話せない人の言葉が、花になるって……ほんとうに?」


 千尋は笑ってうなずく。


「ほんとうですよ。でも、“話せない”って、いろんな意味がありますよね」


 青年は少し考えてから、ぽつりと答えた。


「ぼくは、話せるけど……自分の感情が、よくわからないんです。喜んでるのか、悲しいのか、それともただの無関心なのか……感情って、みんな当たり前にあるものなんですか?」


 その言葉に、詩織の手がわずかに止まった。


 千尋は静かに視線を下ろす。


「むずかしいですよね。名前のない気持ち、どこにも当てはまらない想いって、あります」


 青年は少しだけ目を伏せた。


「小さいころから、よく“なに考えてるかわからない”って言われてきました。親にも、先生にも。最近じゃ、自分でも“わかろう”としなくなってて……でも、なんとなく、ここに来てみたくなったんです」


 その声に、ほんの少しだけ熱が混ざっていた。


 詩織は、やわらかく問いかける。


「なにか、残っている気持ちがあるんですね」


 青年は、黙ってうなずいた。その仕草は、たしかに“ことばにならない想い”があることを示していた。


 千尋は棚の奥から、小さな鉢を一つ取り出す。そこには、まだ何も植えられていないふかふかの土が詰まっていた。


「よければ、植えてみませんか。名前がつけられなかった気持ちでも、きっと種になることがありますよ」


 青年はしばらく迷っていたが、やがて静かにうなずいた。

 青年は鉢を受け取ると、じっと土を見つめた。


 千尋がそっと銀のスコップを手渡す。「ことばの種」を植えるための道具だ。その先端は陽に透けるような銀色をしていて、見ようによっては、スコップというより匙のようにも見えた。


 青年はそれを手に取り、迷うように、けれど静かに土の表面をなぞった。スコップが土に触れると、ふわりと優しい香りが立ちのぼる。そこに名前はない。けれど、たしかに“何か”があった。


「……なにを植えればいいんですか」


「決まりはありません。ただ、心に残っていることがあれば、それを思い浮かべてみてください。名前がつけられなかった気持ちも、ここでは種になります」


 千尋の言葉に、青年はしばらく黙っていた。


 詩織がそばでそっと記録帳を開く。まだ咲いていない想いの花たちが、ページの間に押し花のように描かれている。見えない種の気配が、そのひとつひとつに宿っているようだった。


 青年の手が、わずかに震えた。


「子どものころ、友達に……笑ってほしくて、ふざけたことを言ったことがあるんです。でも、うまくいかなくて。その子、泣いちゃって。謝ろうとしたのに、どうしても声が出なくて。結局そのまま、距離ができて……」


 彼の声はかすれていたが、そのひとことひとことが、確かな“想い”として千尋の胸に届いた。


「それが、ずっと、心のどこかに残ってて……」


 詩織がそっと言った。


「それは、きっと優しさから出た言葉ですね」


 青年は驚いたように彼女を見た。けれど、否定はしなかった。


 そして静かに、両手で鉢を抱えなおす。


 その指先には、少しずつぬくもりが戻りはじめていた。何も咲いていない鉢の中に、たしかに“なにか”が根づこうとしていた。


 千尋は、小さなスプーンほどのサイズの種を取り出し、青年に手渡した。それは透明な殻に包まれており、ほんのりと光をたたえていた。


「これは、“ことばにならなかった想い”から生まれた種です。過去に誰かが抱えていた気持ちの、余韻みたいなもの。今のあなたの想いと重なったら、きっと咲いてくれると思います」


 青年は両手で種を受け取り、そっと鉢の中央に置いた。土が、かすかに揺れる。 透明な種がそっと土に置かれると、店内の空気がかすかに変わった。


 青年が見守るなか、鉢のなかでゆっくりと土が呼吸するように動いた。しばらくして、まるで何かを確かめるように、小さな芽が顔を出した。それはごく薄い青色をした、繊細な双葉だった。


「……咲いた」


 青年がつぶやいた。声は小さいが、そこにはたしかな驚きと、どこか懐かしいような温もりが宿っていた。


「これは……」


 詩織が記録帳に記す。花はまだつぼみのままだが、芽吹きのかたちは新しく、それでいてどこか懐かしい。不器用なやさしさの色。


 千尋は小さな木札を取り出し、鉛筆でそっと記した。


「“なにもうまく言えなかった日の芽”──名前のない想いの、最初の姿です」


 青年はその言葉を見つめた。ゆっくりと目を閉じて、深く息を吐く。


 長い間、どこにも居場所がなかった気持ちが、ようやくひとつの形になった。それはまだ言葉にならないけれど、たしかにここに咲いた。


「……ありがとうございます」


 彼の声は少し震えていた。けれど、それは花の揺れにも似たやさしい震えだった。


 詩織がにっこりと笑った。


「また、気持ちが芽吹きそうになったら、いつでも来てくださいね」


 青年は黙ってうなずくと、鉢をそっと抱えなおし、静かに店をあとにした。扉の鈴が、春の風のようにやわらかく鳴った。


 それから数日後、青年はひとりでふたたび店を訪れた。手に抱えた鉢のなかでは、小さなつぼみがひらきかけていた。淡い青と白が混ざったその花は、言葉にできなかった時間の記憶のように、静かに揺れていた。


「この花、名前をつけていいですか?」


 青年は照れくさそうに笑いながら、言った。


「“ごめんねのあとに残った光”……そんな感じがします」


 千尋も詩織も、微笑んでうなずいた。


 言葉にならなかった想いが、ようやくひとつ、名前を持った瞬間だった。


最後に彼が自分の言葉で花に名前をつけてくれたとき、

「名前のない想い」にも、ちゃんと意味があったのだと思えました。

あいまいな気持ちを否定せず、そっと置いておける場所を、

この花屋でこれからも咲かせていけたらと思います。

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