【第1話】ことばをなくした日、花の香りがした
はじめまして。「言葉を植える花屋さん」は、うまく言えなかった想いや、心に残っていた言葉を、花にしていく物語です。
第1話は、主人公・真叶がその場所に出会う“始まりの夜”を描いています。
静かな気持ちで、そっと読んでもらえたらうれしいです。
ブラック企業で働いていた頃の記憶は、正直もうぼんやりしている。
だけど、ひとつだけはっきり覚えているのは、「もう、何も言いたくない」と思ったときの胸の重さだ。
怒鳴られたり、無視されたり、謝り続けたり。
朝から深夜まで働かされて、やっと帰っても家に帰るだけの力もなく、職場近くのカプセルホテルに倒れこむ日々だった。
昼夜の感覚も、季節の移り変わりもわからなくなっていた。
朝はいつも、吐き気とともに目が覚めた。
ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗り、職場の扉の前で呼吸が浅くなる。
昼休みもまともに休めず、冷めたおにぎりを口に押し込み、誰とも目を合わせなかった。
夜は電車の中で立ったまま眠りかけ、終点で駅員に起こされた。
気がつけば、声が出なくなっていた。
医者にはストレス性の失声症だと言われた。
それを聞いたとき、少しだけほっとしたのを覚えている。
――ああ、やっぱり、もう喋らなくてもいいんだ。
それからの生活は、言葉のない日々だった。
文字で会話をするアプリを使ったり、メモ帳を持ち歩いたり。
スーパーのレジでも、役所の窓口でも、最低限のやり取りだけをして、誰かと笑いあうこともなく、ひとりでいることが当たり前になった。
SNSもほとんど開かなくなった。
画面越しに見える楽しそうな言葉が、遠くの世界のものに思えたからだ。
それでもたまに、誰かが自分のことを思い出してくれていないかと、タイムラインを遡ってはすぐ閉じる。
家にいる時間は増えたけれど、何かをしたいという気持ちは消えていた。
テレビの音がうるさく感じられて、ラジオも止めた。
部屋の中で、時計の音と冷蔵庫のうなりだけが響いていた。
心も体も、まるで水底に沈んでいるようだった。
そんなある日の夜だった。
眠れなくて、ふらっと外に出た。
人気のない公園。いつもなら真っ暗なはずのベンチのあたりに、かすかな光が見えた。
近づくと、そこに咲いていたのは、見たこともない白い花だった。
夜の中でふわりと浮かぶように咲いていて、香りが、妙に懐かしかった。
どこかで嗅いだことがあるような、でも思い出せない、優しい香り。
その香りに引き寄せられるように、俺は手を伸ばした。
指先が花びらに触れた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
頭がぐらりとして、立っていられなくなった。
何かに包まれるような感覚。
冷たくも熱くもない、ちょうどよい水の中に沈むような、やわらかな感触だった。
気づけば、知らない天井を見上げていた。
木でできた、あたたかみのある天井。
鼻をくすぐるのは、あの花とよく似た香りだった。
体を起こすと、周囲はガラス張りの温室のような空間だった。
大きな鉢や棚が並び、ところどころに植木鉢が置かれている。
つやのある葉、虹色に透けるような花弁、見たことのない植物が並んでいた。
中には、小さなランプのように光る草や、風が吹いていないのに揺れている不思議な花もある。
青に金が混じった花、音のように揺れる葉、ひとつひとつに、意味が込められている気がした。
一番奥の壁には、棚があって、古びた本や瓶が並んでいた。
棚の隅に置かれていた日記のようなノートには、いくつもの花のスケッチと、それが咲いた人の想いが綴られていた。
夢じゃない。
そう思ったのは、目の前のテーブルに置かれていた手紙のおかげだった。
『この場所を継ぐ者へ。あなたが“ことば”を失ったのは、決して無駄ではありません。ここでは、想いが花になります。』
達筆な字でそう書かれていた。
意味はわからなかったけど、不思議と胸にすとんと落ちた。
何かが始まる予感がした。
立ち上がって温室の奥へと歩くと、中央にひときわ大きな鉢があった。
周囲のものよりも古く、重厚な雰囲気を放っている。
鉢の縁には、誰かが残した指の跡のような汚れが残っていた。
吸い寄せられるように近づくと、鉢の中には小さな芽がひとつだけあった。
芽を見つめた瞬間、胸の奥にしまっていた感情がふいにあふれてきた。
あのとき、言えなかった「ごめん」や「ありがとう」。
無理をして笑っていた自分。
言い返したかった怒り。
泣きたかった夜。
声にできなかった、たくさんのこと。
思い出したのは、職場で唯一、俺のことを気にかけてくれた年上の女性のことだ。
何度も「無理しすぎるな」と言ってくれていた。
でも俺は、ただ笑って「大丈夫です」と返していた。
本当は、しんどくてたまらなかったのに。
あのとき、もう少し素直になれていたら。
そんな思いが胸を締めつけた。
それらが胸の内で波紋のように広がっていくと、鉢の中の芽がふるふると震え、青白い光を放ちながら花を咲かせた。
光が消えたあと、そこには淡い水色の花が咲いていた。
小さくて、けれど凛としていて。
香りを吸い込んだとき、なぜだか涙が出た。
それはまるで、ずっと言えなかった言葉を、誰かが代わりに受け取ってくれたような気がしたからだ。
言葉にならなかった想いが、花になる。
それが、ここで起こることらしい。
温室には名前がついていた。
入り口の扉に、古びた看板が掛けられている。
『ことのは温室』。
俺は声を出せないまま、小さく笑った。
この場所なら、俺にも何かできるかもしれない。
人の心に寄り添って、咲いた花の意味を伝えることができるかもしれない。
ここでなら、言葉がなくても、人の想いに触れられるかもしれない。
そう思った。
ここから始まるのだ。
“想いを花にする”物語が。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
想いを言葉にすることが難しいとき、花のように“そっと伝わるもの”があったらいいな、と思いながらこの物語を書いています。
次回は、真叶の店に初めて訪れる誰かの物語を描く予定です。どうぞ、お楽しみに。