第九話 紗良とカイルの家族を守る決意
「カイル、ごめんね。ちょっといい?」
紗良は、厨房で仕込みをしていたカイルに尋ねた。紗良の手には、紺色のワンピースがあった。彼女のもう片方の手には手提げ籠があった。籠の中では、ヴォルフがすやすやと眠っている。
「紗良さん、どうしたっす?」
カイルは、笑顔で振り向いた。彼は、布で手を拭きながら紗良に視線を移すと、彼女の手元のワンピースを眺めながら、
「あ、その服だめっすか? やっぱり紗良さんは、俺らが来てるこんなのの方がいいっすか?」
カイルは、自身が着ているトラウザーを摘まみながら尋ねた。紗良は、首を横に振った。
「違うの。とっても可愛らしいワンピースだと思うのだけど、ちょっと、大きさが――」
控えめにそう言う紗良に、カイルは、満面の笑みで答えた。
「大丈夫っす。それ、小さいやつっす。あそこの衣裳部屋には、いろんな大きさの服があるっす。奥に行くほど、大きくなるっす。俺、そうやって並べたっす」
キラキラの瞳で答えるカイルに、紗良は「一番奥の――それが、これなの」
申し訳なさそうにしてワンピースを見せる紗良に、カイルは、一瞬、目を見開いた。
「――これ!! ぴったりだわ! カイル、ありがとう!」
紗良は、上機嫌でカイルに礼を言った。紗良は、白い長そでシャツに、茶色のベストを纏い、トラウザーを履いていた。
「良かったっす」
安堵の表情をしながらカイルが答える。
紗良に気づかれぬように小さく息を吐いた彼は、そっと胸をなでおろした。
「あ、でも、これ、カイルのじゃないわよね。だって、あなたのにしては、横幅が……」
もしかしてと目を見開いた紗良に、カイルは、ぶんぶんと首を横に振り「ちがうっす。ちゃんと俺のっす。おおきいやつっす」と答えた。
「そっか、そうよね。大きいやつ……いえ、良いのよ。通すことのできるウェスト幅があれば……誰のでも、いいのよ」
ありがとうと紗良は微笑んだ。カイルは、どういたしましてっすと言いながら、ちらちらと紗良を盗み見ている。
「カイル? どうしたの?」
紗良は、首を傾げた。
「なんでもないっす、そのなつかし――いや、大丈夫っす。こっち、仕込み終わったんで、そろそろ畑行きましょう」
カイルは、そそくさと厨房を後にした。
「カイルったら、懐かしいって、やっぱり――」
自身の服装を見て困ったように眉尻を下げた紗良は、気分を変えようと籠の中を覗き見た。
ヴォルフは、すやすやと気持ちよさそうに寝ている。紗良は、彼の寝姿に話しかけた。
「ヴォルフ、あなた本当に手がかからないのね。いっぱい食べて、いっぱい撫でてもらって、また寝て。本当におりこうさんね」
ヴォルフの背中をよしよしと撫でた紗良は、笑顔に戻って厨房を後にした――。
「――ちょっと、ここでお昼寝していてね。私、カイルのお手伝いをしてくるから」
紗良は、畑の傍らの平らな岩の上に籠を置きながら言った。彼女の後ろでは、既に、カイルが収穫作業を始めている。
紗良は、籠から手を離すと空を仰いだ。
昼下がりの陽射しが、やさしく紗良を包む。
ときおり感じる潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ紗良は「最高ね」と大きく息を吐いた。
「手伝うわ」
紗良の言葉に、カイルが笑顔を見せる。彼は、白い歯を見せながら豪快に汗を拭った。
「これ、お願いするっす。この野菜をそこの隅にある袋に入れて欲しいっす」
カイルは、畑の隅に置かれている空の麻袋を指さした。紗良は、カイルに笑顔で頷いて見せた――。
「――紗良さん、ありがとうっす」
収穫が終わり、畑を後にした二人は、散歩がてら海岸線を歩いていた。紗良に収穫の手伝いの礼を言ったカイルは、上目遣いで彼女に尋ねた。
「また、明日も一緒に畑に行ってくれるっすか?」
紗良は、うんうんと頷きながら、
「もちろんよ。あんまり役に立ててないけど、明日も、行くわ。
それにしてもカイル、あなた本当に何でもできるのね。収穫だって、手際が良すぎて、私の出番なんてほとんどなかったわ。すごいわ。
カイルも、ヴォルフも――、みんな、本当にいい子たちね。ヴォルフは、手がかからないし、カイルは、なんでもできる。」
紗良の笑顔にカイルは、そんなことないっすと照れながら、
「あ、そういえば、紗良さん、カニ好きっすか? ちいさいやつなんすけど、スープにするとおいしいっす。もし、好きならあそこでたくさん獲れるから、寄っていってもいいっすか?」
カイルが指さした先には、磯浜があった。
浜辺にはごつごつとしたいくつもの大岩がむき出しになっており、その大岩の隙間を大小さまざまな石が埋め尽くしている。
カイルの指先にそれを認めた紗良は、嬉しそうに声を上げた。
「うわぁ。懐かしい!」
紗良は、浜辺へと駆け出した。
岩の上を歩きながら、紗良は、大きく息を吸い込んだ。
「この岩浜の独特な磯のかおり。砂浜も良いけど、私は、こっちの方が慣れているのよ。こういう浜で、よく磯ガニを釣って遊んだわ」
興奮しきりの紗良は、きょろきょろと辺りを見回した。手近の大きな岩を見つけると、そこにヴォルフが入った籠を置いた。
「ここなら、濡れないでゆっくり眠れるわね」と紗良は、籠から手を離した。履いていた靴も脱ぎ捨てた紗良は、裸足で駆け出した。
「カイル! すごいわ! カニの他にもたくさん、小さなお魚まで! 全部、くっきりと見える!」
紗良は、興奮しながら屈みこんだ。
「透明度がすっごく高い!」
地面に両手をついた紗良は、目をキラキラとさせながら海中を覗き込んだ。
しばらく海中を観察していた紗良は「本当に最高の島ね」と満足そうに言って、目線を上げた。
紗良の視線の先では、カイルがひょいひょいと器用にカニを採っていた。素手で難なくカニを捕獲するカイルに目を丸くした紗良は、声を上げた。
「うそ!! カイルすごい! 素手でそんなに取れるの!? あなた、最高――」
――キャン
紗良の叫び声に応えるようにヴォルフの鳴き声がした。
はっとした紗良は、勢いよく振り返った。大岩の上に置かれた籠から、ヴォルフがちょこんとその顔を覗かせた。
遠くにいる紗良を見つけたヴォルフは、はっはっと興奮しながら、籠のへりに手をかけた。
ヴォルフの体重で籠ぐらりと傾いた。
「ヴォルフ!!」
紗良が叫び声を上げた。
大岩に乗せられた籠は、紗良の頭ほどの高さにあった。
「動かないで!」
紗良は、慌てて駆け出した。岩に足をとられながらも彼女は必死で走った。途中、何度かつまずくも、彼女は必死でヴォルフを見上げながら彼の方へと向かっていった。
「だめ!」
あと少しというところで、ヴォルフの入っていた籠が岩から落ちた。
紗良は、両足に力を入れて飛びあがると思いっきり手を伸ばした。
空中でヴォルフを何とか抱き寄せた紗良は、バランスを崩したまま仰向けになった。
「じいじ!!! 危ない!」
カイルの叫び声とともに、ドンという音が響いた。
「いててて」
ぎゅっと目を瞑っていた紗良の背中からカイルの声が聞こえた。
はっとして紗良が振りむいた至近距離には、苦痛で顔を歪めているカイルがいた。
カイルは、紗良の下敷きになるようにして彼女を後ろから抱きかかえていた。
「うそ、カイル、ごめん! 大丈夫?」
慌てて立ち上がった紗良は、腰をさすっているカイルに尋ねた。
「大丈夫っす。ちょっと、腰を打っただけっす。すぐ治るっす、でも、よかったっす。間に合った」
カイルを呆然と眺めていた紗良は、それからかたかたと震えだした。腕の中にいるヴォルフとカイルを交互に見ながら、紗良は、大粒の涙を流し始めた。
「ごめんなさい。本当に、私、人の命預かってるのに、赤ちゃんいるのに――なんであんな高いところ、なんで、目を離して、私、ごめんなさい。
番なのに、ごめんなさい。こんなに、こんなに、恐ろしいこと――家族なんて、口ばっかり、カイルにも迷惑をかけて、怪我させて」
ヴォルフを腕に抱きながらそう言って肩を震わせている紗良に、ヴォルフは、心配そうにして彼女を見上げた。
カイルは、立ち上がりながら「だいじょうぶっす」といって、紗良に手を伸ばした。
ヴォルフごと紗良を抱きしめたカイルは、泣きじゃくっている彼女の背中をぽんぽんと叩いた。
なおも泣き続ける紗良に、カイルは、眉尻を下げながら彼女の額にこつんと自身の額をぶつけた。
「紗良さん、大丈夫っす。ちょっと危なかったけど、ヴォルフ殿下大丈夫だったっす。それに俺も、気がつかなかったっす。俺も、悪かったっす。カニを獲るのに夢中になって。
――でも、これからもっと気をつけるっす。
紗良さんも気をつけて、俺も気をつけて、二人で気をつければ、大丈夫っす。もうこんなこと起きないっす。俺も二人のこと守るっす」
カイルの腕の中で紗良は、うんうんと何度も頷きながら、そして何度もごめんなさいと繰り返した――。
「――本当にごめんなさいね」
夕日を背に浴びながら紗良が口を開いた。彼らは、塔に向かって歩いている。紗良は、ヴォルフが寝ている籠を両手で抱えていた。
紗良の隣を歩いていたカイルが「大丈夫っす。もうどこも痛くないっす。ヴォルフ殿下も無事だったし、全部平気っす」と、笑顔を見せながら答えた。
それにと、いたずらな笑みを見せたカイルは、
「紗良さん、ふかふかだったから痛くなかったっす。痛いのは腰にあたった岩だけだったっす」と紗良の顔を覗き見た。にやにやしている彼の頭からぴょこんと、黒いうさ耳が現れる。
もうと眉尻を下げた紗良は、ありがとうと小さく呟くと、
「私! 決めたわ! ダイエットをする! それで体を鍛えて素早く動けるようにする。体力もつける! これからあなたたちがピンチになったらしっかり助けられるように! 今日から頑張るわ! まずは、早くウエストを絞って、このじいじの服を卒業するわ!!」
紗良は、元気よく拳を握った。
カイルは、笑顔で「協力するっす」と答えた。
それからあっと思い出したように俯いたカイルに紗良は、
「だって、この服着ていたら、あなた、私のことじいじって間違えて呼んじゃうでしょ?」
紗良のいたずらな笑みにカイルは、「もう絶対間違えないっす」と照れくさそうに答えた。