第四十話 紗良は書き溜める、ヴォルフとの日々
夜更け過ぎの居間。紗良は、今夜もテーブルに向かっていた。
彼女の目の前には、いつもの薄緑色の便所紙があった。テーブルの上に並べられた便所紙には、それぞれびっしりと細かく文字が書かれている。
紗良の隣に座ったカイルは、便所紙に書かれている文字をゆっくりと指でなぞりながら読み始めた。
「これ、ヴォルフが寝返りをした時のことが書いてあるっすか?」
「そうよ。私は足が痺れちゃって見れなかったけど、カイルが教えてくれたヴォルフの初寝返りの様子をそのまま書いておいたの。
そこの紙には、ヴォルフが初めて腹這いで移動した時のことが書いてあるわ。ずりばいのことね。
これは、初めてアーサーがヴォルフを抱っこした時――」
紗良は、便所紙を指さしながら幸せそうに目を細めた。ヴォルフとの日々を語る紗良に、カイルも楽しそうに相づちを打って彼女の話を聞いた。
時折カイルが挟むヴォルフのエピソードに紗良は、
「そんなことがあったの? 知らなかった」と、彼の話に聞き入り、便所紙にそれを書きこんだ。
紗良が真剣な表情で筆を動かしていると、ジョバンニが居間へ入ってきた。ヴォルフを背負っている。
ジョバンニを見た紗良とカイルは、ピタリと手を止め、口を閉ざした。
ジョバンニは、テーブルについている二人を一瞥するだけで何も言わずにヴォルフを背負ったままゆっくりとその歩みを進めている。
サークルまで無言で歩き続けたジョバンニは、音を立てずに柵を跨いだ。
サークルの真ん中まですり足で進んだ彼は、それから、あらかじめ敷いてあった布団に背を向けてゆっくりと腰を下ろした。
時間をかけて上半身を後ろへ反らせて、ヴォルフを布団の上に乗せる。
腰に結ばれたおんぶ紐を解いた彼は、そのまま素早く身を翻してヴォルフに正面から向き合うと彼に覆いかぶさった。
よしよしと囁きながらヴォルフの肩を叩く。
布団に乗せられたヴォルフの眉間がぴくりと動いた。ジョバンニは、ピタリと静止した。
ヴォルフがふにゃと声をあげる。
室内に緊張が走った。
紗良たちは全員――息を殺した。
部屋の中では、暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音のみが響いている。
しばらくすると、ジョバンニの腕の中でヴォルフがその姿を狼へと変えた。
ヴォルフが獣の姿に変わったことを確認したジョバンニは、はぁーと安堵のため息を吐いて、体を起こした。ぐったりとしてその場に座り込む。
紗良が眉尻を下げながら口を開いた。
「ヴォルフ、ようやく狼の姿になったわね。ジョバンニ、お疲れ様」
紗良の隣でカイルもふぅと肩の力を抜いた。
「塔のまわりを三周してやっとだよ」と、ジョバンニが体を震わせながら言った。それからゆっくりと立ち上がった彼は、大股で柵を跨いだ。
暖炉の前まで足早に近づくと、両手を火にかざしながら「あったけぇ」と、大きく息を吐いた――。
「ま、寝付きは悪いけど一度寝てくれれば、俺たちがどれだけ騒いでも朝まで起きないんだから、ヴォルフは優秀だな」
ジョバンニの言葉に、紗良とカイルがうんうんと頷く。
ジョバンニは暖炉に手をかざしたまま「――紗良の爆音寝息にもびくともしねぇし」と口角を上げた。
暖炉の火にてらてらと灯されながらニヤニヤしているジョバンニ。彼を横目に見ながらはぁとため息を吐いた紗良は、サークル内に視線を移した。
子狼は、小さな布団の上で銀色の毛を上下させて寝息をたてていた。
紗良は、彼を見て頬を綻ばせながら、
「――ぐっすり寝ると狼に変身しちゃうなんて、ヴォルフ、ほんとに可愛いすぎるわ。カイル知ってる? ヴォルフね、狼に変身する時にちょっと頬を膨らませるのよ。
ほんの一瞬だけど、ぷくって――それが、本気で心底可愛いのよ。
あ、そうだ、初めてヴォルフが自分の力で狼に変身した時のこともここに書いてあるのよ」
これよこれと紗良は、便所紙の一つを指差した。カイルは、紗良の指の先をどれどれと覗き込んだ。ゆっくりと文字を追っていく。
しばらくして、ジョバンニが彼らの方に歩いてきた。
寒そうに両手をさすりながら二人の傍まできたジョバンニは、床の上に無造作に置かれていた半纏を手に取って、それを羽織った。
テーブルの上のグラスに手を伸ばす。グラスには、果実酒が入っていた。ジョバンニは、それをくいっと飲み干すと「寒い日の果実酒、最高だわ。もう一杯」と言いながら、酒瓶に手を伸ばした。
紗良がジョバンニの手を取りながら、
「お酒は、一日一杯よ」
眉を吊り上げた。
「固いことを言うなって、今日はマジ冷えるからもう一杯、いいだろ? な? お前も一緒に飲もうぜ」
ジョバンニがぴこんと羊耳を出した。
「だめよ」
ぴしゃりと言って紗良は、
「ジョバンニ、あなた、羊耳を乱用しすぎよ。こういうのはね、ここぞって時に使うものなの。それに、私をだしに使おうとしても無駄よ。私は、お酒をやめたんだから」
酒瓶を取り上げる紗良にちぇっと口を尖らせたジョバンニは、テーブルに並べられている便所紙を眺めた。
「今度は、何やろうとしてるんだよ。時間が掛かることはやめろよ。最近、お前、夜更かしし過ぎなんだよ。ずっとテーブルに向かって、背中丸めて――風邪ひいても知らねぇからな。しっかし、果実酒一杯くらいじゃ体温まんねえよ」
ジョバンニは、半纏の袖に腕を入れて身を縮めた。
「ジョバンニさん、大丈夫っすか? そんなに寒いっすか?」
カイルが心配そうに尋ねた。俺のも着て下さいと、半纏を脱ぎ始めた彼を紗良が首を振りながら制した。
「カイル騙されたらだめよ。これは、ジョバンニの罠よ。この子、酒が飲みたくて演技をしているの。
私、知ってるんだから。あなた、羊の姿になればモフモフになって寒さにも強くなるのよね。これくらいの寒さも平気なんでしょ? わざわざ人の姿で寒そうにする必要なんてこれっぽっちもないのよね」
言い終えた紗良は、腕を組んで目を細めながらジョバンニに冷たい視線を送った。
ジョバンニは、ボンっと羊の姿に変化して、
『なんだよ。知ってたのかよ』つまんねぇと、床に横になった――。
「――揃っておるな」
体からほかほかと湯気を出しながらアーサーが居間に入って来た。彼は、頭を布で拭きながら紗良たちが囲んでいるテーブルに近づくと羊の隣に腰を下ろした。
楽しそうにテーブルを覗き込みながら、
「これはなんだ?」と、便所紙を一つ手に取った。
「ヴォルフの成長記録を作ろうと思って、今まで書き留めておいたものを整理していたんです」
「成長記録か」
「そうです。私とみんなの思い出を残そうと思って――」
そう言って眉尻を下げた紗良。普段と違う彼女の様子に気がついたカイルが、呟くように尋ねた。
「残すっすか?」
カイルの言葉に紗良は、
「うん。そう。ヴォルフが大人になった時にちょっとでもここでの暮らしを思い出してくれたらいいなって思って――」
『思い出すも何も――』羊は、体を起こした。
『何かあったのか?』と、紗良に心配そうに尋ねた。
紗良は、表情を暗くした。
「実はね。最近体の調子が悪くて――。私ももう年だし、もしもの時のために、ヴォルフに何か形に残るものを、番として、あの子に何か残したいなって――」
『調子が悪いって、風邪か? だから夜更かしするなって言ったんだ』
羊は立ち上がり彼女に近づいた。
「眠れないのよ。ずっと体がだるいの。ここ数日は、特に。さっきから節々も痛み出して――」
羊は、紗良の頬に鼻をつけた。
『――紗良、お前、ひどい熱があるぞ』
ボンと人の姿に戻ったジョバンニは、裸で紗良を抱き上げた。
「アーサーさん、特別室、使わせてもらいます」
ジョバンニは紗良を抱いて居間を出た。




