第四話 あれをオープンしたい紗良
「ああ、頭が痛い。昨日は、泣き過ぎたわ――」
紗良は重い体を起こした。彼女の隣では、ヴォルフが寝ている。彼は、子狼の姿に戻っていた。
ヴォルフは、薄目を開けて透明なひげをぴくぴくと動かしながら、無防備に体を横たえていた。小さな狼の無邪気な寝姿に顔を綻ばせた紗良は、それから小さくため息を吐いた。
おもむろに天井を見上げた彼女は、うっすらと涙が浮かんだ目元をひらひらと扇ぎ風を送った。
「ダメね。歳をとると涙腺が――昨日あんなに泣いたのに、まだ泣けてくるわ。もう瞼がパンパンよ」
ふぅと息を吐いた紗良は、ぱちぱちと瞬きをした。よしっと小声で気合いを入れて、そっとベッドを下りる。
すやすやと寝ているヴォルフを視界の端に捉えながら、紗良はあらためて室内を見渡した。
「この部屋が、私たちの部屋ってことで良いのよね」
彼女が見渡す室内には、アレックスが昨夜侵入してきた窓があるだけで他に光を取り込むものはなかった。四方を赤茶色のレンガで覆われた室内は、常に湿り気を帯びている。
「この世界に、電気は、なさそうね。夜は、蝋燭だけか。っていうか、ここ、窓が一つしかないのよね。朝だってのにこんなに薄暗いし、でも、この子が夜行性だったら、こっちの方がいいの?」
紗良は、そう言って後ろを振り返った。彼女の視線の先には、小さく丸まったヴォルフの背中が見えた。紗良は、じっとヴォルフの背中を見つめた。息をしたヴォルフがかすかに上下させた銀色の毛並みをなんとか確認した紗良は、良かった、と呟いてふうと胸をなでおろした。
「泣くと目がかすむのよね。焦点が……
アレックスもあの後すぐに帰っちゃうし、結局この世界のことを何もわからないままだわ。
昨日の夜は何とか手探りでトイレを見つけることはできたけど――お風呂もないし……そもそも、この部屋って出入りしていいのよね?
私たち、監禁されているわけじゃないのよね。
こ、こんな薄暗い部屋に一生!?
あ、でも、ここの扉は開くわ。昨日、私開けたんだった。
何言ってるのかしら私――どうしよう、なんにもわからないわ。
アレックス、また来てくれるわよね。だって、あの子、あんなに痩せて――」
暗い表情で俯いた紗良は、それから思いっきり頭を振った。
「ダメ! これ以上、落ち込むわけにはいかないわ!! あの子は、大丈夫よ! 私がいるんだもの、アレックスもいるし、少し痩せてても、キャンキャン元気だし!! 心配しすぎよ!」
よしっともう一度気合いを入れて頬を叩いた紗良は、それからニヤリと笑顔を見せた。
「おばちゃん、切り替えが早いのよ。ぐずぐずしてるおばちゃんなんて世間では、至極面倒臭い案件なんだから、誰にも相手にされないの! めそめそしないで! 私! いくわよ! 何にもないなら……やってやる。あのセリフよ! 異世界に来たらとりあえず、試してみる! さ、オープンするわよ!!」
紗良は、ビシッと天井を指さして、
「ス、ステー……す、す、
……いや、ちょっと、これはさすがに恥ずかしいわ。おばちゃん、ちょっとまだ言えないわ。
せめて、私の外見をピンク頭の縦ロールくらいにしてくれないと……いや、無理だわ。
このおばちゃんが恥じらいなく開けるのって、毛穴くらいよ。
あのウィンドウは、さすがにね……だって、万が一開かなくって、シーンってなったら、私、それでなくても今、落ち込んでるのに、立ち直れそうもないわ……でも、あの子のためになるなら――」
――キャン
すぐに振り返った紗良は、目をぱっちりと開いたヴォルフが尻尾を振っているを見た。彼女は、起きたのねと頬を緩ませてヴォルフに駆け寄った。
ベッドの上でちょこんとお座りしているヴォルフの目の前で正座した紗良は「ヴォルフ、おはよう」と柔らかい笑顔を浮かべた。
――コンコン
紗良がヴォルフを抱き上げると同時に、控えめなノック音が響いた。
「はい、どちら様ですか?」と、反射的に言った紗良は、習慣って怖いわねと呟きながらベッドを下りた。
ヴォルフを抱きながら扉の前までくると、扉に耳を当て、もう一度「どちら様ですか?」と尋ねる。
「――ち、ちょ、朝食をお持ちしましたっす」
扉の向こうから聞こえた男性の言葉に、「朝食……」と紗良は、小さく呟いた。
扉を開こうか迷っていた紗良は、腕の中のヴォルフを見遣る。ヴォルフは、紗良と目が合うと、キャンと鳴いてはっはっと嬉しそうに息を弾ませた。
ヴォルフの姿を見て安堵の表情を浮かべた紗良は「だめね。歳をとると疑り深くなっちゃって」と息を吐いた。
小さく首を振った紗良は、それからすっと息を吸い「はーい」と明るい声で、扉を開いた――。
「――これ、朝食っす。」
白いエプロンを腰に巻いた男性が部屋に入って来た。お盆を手にしながら男性は、伏し目がちに「開けてもらってすんません」と小さく呟く。
辺りをきょろきょろと見回した男性は「すんません、これ、どこに置きましょう?」とおずおずと尋ねてきた。
紗良は、片手で扉を閉めながら「そこの隅の机にお願いします」と言って、彼に目配せした。
男性は、紗良の目線をたどり隅に置かれた木製の机を見つけると「あれっすね」と小さく呟いて、歩き出した。
男性は、机の上にお盆を乗せ、上に掛けられていた白い布を手に取り、それを丁寧に折り畳んだ。
エプロンのポケットに小さく畳んだ布をぎゅうぎゅうと詰め終えた男性は、紗良とヴォルフに、
「じゃあ、俺は、これで。また昼にくるっす――」
「待って!」
そそくさと部屋を出ようとする男性の腕を取った紗良は、必死の形相で、
「ちょ、ちょっと、お願い、待って、これ、誰の朝食? 私も食べていいの? この子の? え? この子、もう大人のご飯食べられるの? お願い! 何にも分からないの! お風呂もあるの? ここは、どこなの? 外には出られるの? 全部教えて!」
縋り付くように懇願した紗良のお腹が、ぐううううと大きく鳴り響いた――。