第四話 あれをオープンしたい紗良
「ああ、頭が痛い。昨日は――泣き過ぎたわ。」
紗良は重い体を起こした。彼女の隣では、ヴォルフが寝ている。彼は、子狼の姿に戻っていた。
ヴォルフは、薄目を開けて透明なひげをぴくぴくと動かしながら、無防備に体を横たえている。小さな狼の無邪気な寝姿に顔を綻ばせた紗良は、昨夜の事を思い出した。ヴォルフの頭を撫でながら鼻を啜る。小さく震える息を吐いた。
抑えのきかない感情を追い出そうとして天井を見上げた彼女は、うっすらと浮かんだ涙を乾かすため手でひらひらと風を送った。溢れそうになる涙と格闘しながら、
「ダメね。どんなことしたって……全っ然、止まんない。る、涙腺がガタガタ――昨日だって、あんなに泣いたのに……」
ふぅと息を吐いた紗良は、何度も瞬きをした。胸を膨らませながら大きく息を吸うと「よしっ」と気合いを入れて、ベッドを下りる。
ベッドの上ですやすやと寝ているヴォルフを視界の端に捉えながら、
「この部屋が、私――と、ヴォルフ? 私たちの部屋ってことで……良いのよね。」
改めて見渡した室内は、紗良が召喚された際に目にした雅やかなホールと同じ世界に存在するとは思えないほど、おんぼろで質素なものだった。
「あなた、本当にここの王子――様なのよね……」
紗良の言葉は、静寂に消えた。ヴォルフは、相変わらずすやすやと寝息を立てている。
「ま、あの金切り声に責め立てられるよりは――ここにいた方が平和かもね。」
仕方ないわと、大きく息を吸い込んだ紗良は、体内に取り込んだ馴染みのない香りに、自身が異世界に来たことを改めて実感した。
大丈夫よと自分に言い聞かせるようにして呟き、また子狼に視線を戻し、彼の寝顔に微笑みかけた紗良は、両手を腰に当てながら、四方の壁と天井を眺めた。
「ここに、電気らしきものは一切無し」
やっぱりねと紗良は、その視線を部屋の隅に置かれた小さな四角いテーブルへと移した。テーブルの上には、小綺麗に磨かれた燭台に生成り色の蝋燭が立てられている。
テーブルの方へと歩みを進めながら、
「夜は――あそこの蝋燭で何とかしろと……はいはい。了解。」
独り言ちながら隅へとたどり着いた紗良は、テーブルに顔を寄せた。
「ここにある家具って、とことん古いけど……でも、よく見るとつやつやしてて良い味出してるのよね。部屋も、じめじめしているけど埃っぽくないし、そういえば、シーツも――」
紗良は、そう言って後ろを振り返った。彼女の視線の先には、小さく丸まったヴォルフの背中が見えた。ヴォルフが呼吸とともにかすかに上下させる銀色の毛並みを目を細めて確認した紗良は、大丈夫ねと呟いて胸をなでおろした。
浮かびあがる涙に気づかないふりをしながら目をしばたたかせた。努めて明るい声音で、
「歳をとるとだめね。急に遠くを見ても、焦点が……全然合わない」
ごしごしと両目を擦りながら、紗良はとりとめもなく話し続けた。
「――アレックスもあの後すぐに帰っちゃうし、この世界の人たちって、案外勝手よね。自分の言いたいこと言って、怒って、泣いて――で、すっきりした顔で、じゃーねっていなくなって……私、結局この世界のことを何もわからないままだわ。納得のいく説明を受けるまで、一晩かかっても強引にでも引き留めた方が良かったのかしら。」
全くと腕を組みながら紗良は、頬を膨らませた。悲しみを怒りに置き変えながら、紗良は捲し立てるように一人喋りつづける。
「そもそも、この部屋って出入りしていいのよね? 私たち、監禁されているわけじゃないのよね? こ、こんな薄暗い部屋に一生!? うそ、嫌よ! あ、でも、この部屋の扉、鍵かかってなかったわ。昨日の夜、私、扉を開けたんだった。何だかんだで階段を下りて……トイレに行って、で、私、クソ真面目に、またここに戻ってきたんだわ。何も考えずに。闇に紛れてここから脱出してやるなんて、微塵も思い浮かばなかったわ。怖いわ。平和ボケってやつね。」
紗良は、苦笑しながらベッドに腰かけた。傍らの子狼を撫でながら、
「でも不思議ね。あんなに暗かったのに、どこにあるかもわからない階段を見つけて、すんなり降りて、トイレ見つけて――私、この世界、初見なのに? マップ無しで? トイレを秒で攻略? すごくない? これって、なんかのスキルゲットしちゃったってこと? じゃあ、ここを脱出することも――でも、この子は、どうするのよ……置いてなんて、行けないわよ。」
暗い表情で俯きかけた紗良は、はっとして顔をあげた。
「ダメ! 落ち込むわけにはいかないわ!! ぐずぐずしてるアラフォーなんて世間では、至極、クソ面倒臭い案件なんだから! めそめそしない! 私! いくわよ! やってやる。トイレも攻略出来たんだし、楽勝よ! 異世界召喚された者の、特権――あのセリフよ! 異世界に来たら、そうよ。とりあえずビール的に、試してみる! さ、オープンするわよ!!」
紗良は、ビシッと天井を指さして、
「ス、ステー……す、す、
……いや、ちょっと、これはさすがに恥ずかしいわ。おばちゃん、ちょっとまだ言えないわ。せめて、私の外見をピンク頭の縦ロールくらいにしてくれないと……いや、無理だわ。このおばちゃんが恥じらいなく開けるのって、毛穴くらいよ。あのウィンドウは、さすがにね……だって、万が一開かなくって、シーンってなったら、私、それでなくても今、情緒不安定なのに、立ち直れそうもないわ……でも、あの子のためになるなら――」
――コンコン
扉を控えめに叩く音が聞こえた。
「え? うそ、誰?」と、紗良はヴォルフを抱き立ち上がった。
「――ち、ちょ、朝食をお持ちしましたっす。」
扉の向こうから聞こえた男性の言葉に、「朝食……」と紗良は、小さく呟く。
扉に耳を当て様子を窺うも、男性はそれっきり言葉を発することはなかった。
扉を開こうかどうかと迷っていた紗良は、腕の中のヴォルフを見た。ヴォルフは、扉の方を向きながらはっはっと嬉しそうに息を弾ませている。
ヴォルフを見つめながら紗良は小さく首を振り、意を決したように息を大きく吸い込むと「はーい」と扉を開いた。
「――これ、朝食っす。」
白いエプロンを腰に巻いた男性が部屋に入って来た。お盆を手にしながら男性は、伏し目がちに「開けてもらってすんません」と小さく呟く。
辺りをきょろきょろと見回した男性は「すんません、これ、どこに置きましょう?」とおずおずと尋ねてきた。
紗良は、片手で扉を閉めながら「そこの隅の机にお願いします」と言って、彼に目配せした。
男性は、紗良の目線をたどり隅に置かれた木製の机を見つけると「あれっすね」と小さく呟いて、歩き出した。
男性は、机の上にお盆を乗せ、上に掛けられていた白い布を手に取り、それを丁寧に折り畳んだ。
エプロンのポケットに小さく畳んだ布をぎゅうぎゅうと詰め終えた男性は、紗良とヴォルフに、
「じゃあ、俺は、これで。また昼にくるっす――」
「待って!」
そそくさと部屋を出ようとする男性の腕を取った紗良は、必死の形相で、
「ちょ、ちょっと、お願い、待って、これ、誰の朝食? 私も食べていいの? この子の? え? この子、もう大人のご飯食べられるの? お願い! 何にも分からないの! お風呂もあるの? ここは、どこなの? 外には出られるの? 全部教えて!」
縋り付くように懇願した紗良のお腹が、ぐううううと大きく鳴り響いた――。




