第三十九話 紗良とヴォルフの『あわわわわ』
紗良は、居間のサークルの中で腹ばいに寝そべっていた。
目の前で座っている赤ちゃんヴォルフをじっと見つめている。
「あーー」
ヴォルフが声を上げた。同時に素早く紗良の手が動く。彼女はヴォルフの口に手を当てた。
先ほどまで楽しそうに声を上げていたヴォルフが一瞬で口を閉じた。
残念そうにして手を引っ込める紗良。彼女は、またヴォルフを見つめ始めた。
「あーー、あーーー」
ヴォルフの声に、紗良がすぐその手を伸ばす。
「あっ」
ヴォルフは、また、キュッと口を引き締めた。
くっと悔しそうに声をもらした紗良は、伸ばしかけた手を引っ込めた。
『お前、まだやってたのか――』
傍で昼寝をしていた羊が口を開いた。彼は体を横たえたままで、紗良に呆れた表情を見せながら大きく息を吐いた。
紗良は、だってと頬を膨らませながら、
「せっかく、ヴォルフが『あー』って言えるようになったから、伝説のあわわをしてみたかったのよ」
『伝説ってお前。ただのあわわだろ。そんなん、伝説でもなんでもねぇよ。俺の妹なんてずっとあわわしてたぞ』
大したことねえよと言いながら羊は、その身を起こした。紗良は、羊の言葉に驚いた様子で言った。
「うそ。うらやましい。えー、ジョバンニの妹さん、あわわの達人だったんだ。いいなー。なんでヴォルフは、しないんだろ。ヴォルフ、私が手を近づけると必ず真顔で黙るのよ。ま、この真顔も普段見れないから可愛いんだけどね」
紗良は、このほっぺがたまらないのよとヴォルフの頬をつついた。羊は、寝そべっている紗良に顔を近づけて羊耳を彼女の頬に擦りつけながら言った。
『あわわばっかりしてないで、時間があるならまたババ抜きしようぜ』
羊は甘えるようにグリグリと紗良の頬に頭を撫でつけた。
紗良は、くすぐったそうにしながらも、
「えー。また? ジョバンニ、最近ずっとババ抜きじゃない。ババ抜きって二人でやるとめっちゃくちゃ退屈なのよ。
三人以上は必須。また夕食の後にでもみんなですればいいじゃない。しかも、トランプだって、ババ抜きだけじゃなくって、他にもあるのよ。
七並べとか、スピードとか、大富豪とか? まだまだ遊べるのに。
あなたずっとババ抜き、ババ抜きって。何がそんなに楽しいのよ。それに、こういう時だけそんなに甘えてもだめよ。もふもふ攻撃だって何回もされてたら、ありがたみがなくなるわ」
紗良は羊を押し退けた。彼女は、それからヴォルフに向きなおって彼のお腹をつついた。ヴォルフはやはり、くすぐったそうにキャッキャッと声を上げたが、紗良がさっと彼の口元に手をかざすと、すぐに黙りこくった。
くそっと悔しそうにしている紗良の背後から声が聞こえた。
「アーサーさんの湯浴みが終わったら、みんなで夕食にするっす」
カイルが居間の扉を開けて中に入ってきた。
紗良たちの方へと歩いてきたカイルは、ヒョイと柵を乗り越えて、笑顔で紗良の隣に座った。みんなで何してたっすか? と尋ねるカイルに羊は、
『紗良のやつ、今度は、ヴォルフにあわわわをさせたいって、ずっとかまってるんだよ』
「あわわってなんすか?」
カイルが首を傾げると、紗良は、手をついて起きあがりながら、
「あわわわはね。カイル、ちょっと、『あーーー』ってずっと言ってみて」
紗良の言葉に首を傾げたままのカイルは、それでも素直に声を出した。
「あーーー。これでいいっすか?」
「あっ。だめよ。止めたらだめ。あーーーーって言い続けて、私がいいって言うまで止めないでね」
「あーーーーー」
紗良は、素早くカイルの口に手を当てた。カイルの口を手のひらでトントントンと何度も叩いた。カイルの声が、あわわわとなる。
カイルは、口を開けたまま納得したように頷いた。
「これが、あわわっすか」
そうよと笑顔を見せた紗良はすぐにヴォルフに向き合った。
「ヴォルフ、カイルお兄ちゃんのあわわわ、上手だったね。ヴォルフもお兄ちゃんみたいにやってみようか」
あーって言ってごらんとヴォルフの頬をつついた。ヴォルフがまたキャッキャと笑う。
「ヴォルフ、キャッキャもいいけど、あああああよ。あーって、言ってみて」
『こいつ、ずっとこれなんだよ』
羊は、うんざりだという声でカイルに言った。
カイルは、羊の態度に苦笑しながら、
「紗良さんほどじゃないっすけど、俺もヴォルフのあわわわみてみたいっす」と言って、ヴォルフの頭を撫でた。
カイルの言葉に紗良は、顔をぱあっと明るくした。
「そうでしょう?! カイルもみてみたいわよね! ヴォルフのは、絶対可愛いあわわわだと思うのよ。
それに、このあわわわ。もう少しヴォルフが大きくなったら、私たちが手を貸さなくても自分の手であわわができるようになるらしいのよ。
ヴォルフがこのムチムチの手を、自分のちっちゃなお口に当ててあわわするなんて――、想像しただけで可愛すぎて、悶絶するわ。
なんなら、私の口にヴォルフのムチムチおててを当ててもらって、それで、私があわわしてもらうっていうのもできちゃうわけよ。あわわは、可能性が無限大なの」
紗良が熱く語っている後ろで獣化を解いたジョバンニは、手慣れた様子で服を着た。彼は、紗良の背後にそのまま陣取った。胡座をかきながら口を開く。
「俺、もうヴォルフのあわわしたことあるぞ」
紗良は、ジョバンニの言葉に目を見開いた。
「え? うそ!? いつ? なんで教えてくれなかったの?」
くわっと振り返った紗良は、ジョバンニの肩を揺すった。ジョバンニは、痛えなと紗良の腕を引き離しながら、
「いつだったかな。お前とカイルが塔の掃除してた時だったかな。俺とアーサーさんの仕事が早く終わって、ヴォルフが、いつもより早く起きたんだよ。そん時だな。ヴォルフ、めっちゃくちゃご機嫌でさ。ずっとあーあー言ってたから」
「え? じゃあ、それがヴォルフの初あわわってこと? いいな、ジョバンニ、うらやましい。あー、いいなー。私、ヴォルフの初めて、まだ一度も体験してない。カイルは、寝返り見たし、ジョバンニは、あわわわだし」
みんな、羨ましいと紗良は、足を投げ出した。
「あーーー」
ヴォルフの言葉に紗良は勢いよく振り返った。
「あっ。っつ!」
苦悶の表情で背中を丸める紗良にカイルが慌てて彼女の背中に手を伸ばした。
「紗良さん! 大丈夫っすか? ひねったっすか?」
どこ痛くしたっすか? と心配して紗良に尋ねるカイルに、紗良は、大丈夫よと眉間にシワを寄せながら、
「こ、ここ、脇腹が。勢いよすぎて、ちょっと、筋が」
紗良がイタタと脇腹をさすっているのを横目で見ながら、ジョバンニが口を開いた。
「ババアなんだから、そんなに急に体動かすなよ。脇腹つるくらいならいいけど、腰がやられたら何日も動けなくなるんだから気をつけろよ。うちの母ちゃんでさえもっとゆっくり動いてたぞ。ったく、見た目はババアなのに、気持ちだけは若いんだからな」
困ったモンだぜと言うジョバンニに、紗良は目を吊り上げた。
「また、人のことをババア、ババアって、ジョバンニ、あなたは、そうよね。そうね。あなたには、何度もちゃんと言わないといけないわよね。
私、ババアだけど、自分でババアっていうのは、許せるけど、他人からババア、ババアって言われるのは、ほんっと腹が立つのよ。
それなのに、あなた、私のことを、容赦なくババア、ババアって。それにババ抜きを教えてからは、『ババア、ババ抜きしようぜ』って追いババアまでして。ほんっとむかつい――」
「バッバ」
ヴォルフの声に紗良が、はっと息を飲んですぐにその視線を移した。
「バッバ」
ヴォルフが言う。
「え、ヴォルフ? バ――」
紗良の言葉に反応して、また、ヴォルフが、
「バッバ」
声を上げた。
指を咥えながらバッバと連呼するヴォルフに、紗良は目をこれでもかと見開きながら、
「そう! そうよ、私よ、私が、バッバよ!」
歓喜した。
それから紗良はずっと上機嫌だった。
夜になると「バッバとババ抜きしましょう」と嬉しそうにしながら、みんなをババ抜きに誘った。アーサーとカイルがもう寝ると言って離脱しても、ジョバンニにが飽きるまで、紗良は何時間も笑顔でババ抜きをし続けた。
翌朝、ヴォルフがご飯をくれるカイルに向かって「バッバ」というまで、紗良は、ひたすら幸せそうに頬を緩めながら、自身をバッバと名乗り続けた。




