第三十五話 アーサー、初めての和式便所
「これじゃあ、私、ジョバンニと一緒だわ――」
紗良は、便所前を行ったり来たりしている。
便所扉の向こう側からは、時折「んっ。むむっ」と言う声が聞こえていた。
ヴォルフは、紗良が塔裏から便所まで爆走した振動で目が覚めてしまい、朝食後のお昼寝を中断させられていた。寝ぼけ眼のヴォルフは、不機嫌そうに体を捩り、ふぎゃあと何度も泣き声を上げている。
紗良は、彼のふにゃあという声を聞くたびに「よーし、よし、ごめんね」と言って体を揺らせた。
ヴォルフを背に体を上下させながら便所の前を歩き回る紗良。時折聞こえるアーサーのいきむ声。
なんともいえない雰囲気の中、ただ時間だけが過ぎていった。
何度目かもわからないアーサーの「んっ。くっ」という声の後に、アーサーがハァーとため息を吐いた。
アーサーの大きなため息に顔を上げた紗良は、おそるおそる扉向こうのアーサーに聞いた。
「ア、アーサー、その大丈夫ですか? 何かありました? 足が痛むんですか?」
「あ、ああ、すまんな。だいじ――」
――プップープッ
ハッと息を飲む音が聞こえる。
「アーサー、大丈夫です! お、おな......いえ! 何も、何も聞こえてません!」
紗良は、慌てて声を張り上げた。
「す、すまぬ。さ、紗良や。私は、まだしばらくかかりそうだ。この厠の使い方にも、なんとか慣れた故、もう足を滑らすこともない。だから――」
消え入るような声音のアーサーに、紗良は、それでも安堵の表情を浮かべながら、
「はいっ! 大丈夫なら良かったです! 居間に戻ってます! 何かあったら叫んで――あ、おさるさんにお願いします!」
そそくさと居間に戻った――。
「はぁあ。良かった。何とかあの気まずさから解放されたわ。ジョバンニも、私がお便所でうんうん言っていた時に、あんな気分だったのかしら――」
紗良は、言いながら首を振った。
「絶対に、違うわ。奴は、確実に楽しんでいた。『クッソ、クッソなげぇ』『クッソ、クッソくっせえ』とか、嬉しそうにクソ連呼してたし、むしろ、私のさっきの心境は、カイル寄りね」
紗良は、居間の中を歩き回っていた。体を揺すりながら、背中で眠たそうに体を捩らせているヴォルフのお尻をトントンと叩きながら、彼女は、独り言ち続けた。
「でも、そうよね。やっぱり、さすがにこの世界でも和式便所って時代遅れよね。
そっか、あちらが洋式のお便所だったら、確かにね。ジョバンニだって文句たらたらになるわね。
でも、彼、足を滑らせたりしなかったわよね。はじめっから和式に馴染んでたし。案外、あの子、体幹あるのかしら。え? 待って、ちょっと嘘、あの子、もしかして羊さんの格好で用を足しているとか? え? やだぁ。考え出したら止まら――」
『紗良様』
どこからか声が降って来た。紗良は、ハッとして天井を見上げた。何もない空間からまた声が聞こえてきた。
『陛下が、お呼びです』
紗良は、上を向きながら「はいっ! 今行きます!」と、足早に居間を後にした。
紗良の背中ではヴォルフがようやく寝息を立て始めた――。
――コンコン
「アーサー、どうしました? 足、痛みますか?」
紗良は、扉に耳を近づけながら小声で尋ねた。
「いや、足は、少し血が滲む程度だが――。大事ない。大丈夫だ。それに――、あれも、もう終わった」
「ああ、そうですか! 良かった。じゃあ、あれですか? やっぱり、痛みますか? 切れちゃいました? 足の傷も、お尻のも、全部薬草でなんとかなりますよ」
紗良は、声を明るくして大丈夫ですよとアーサーに伝えた。
「いや、そのそれも、これも、大丈夫だ。問題ない――」
『便所紙です』
「え?」
突然降って来た声に紗良は、「へ?」と答え、ハッとした。
「お尻拭き......あれで確か最後なんだけど、あ、さっき棚に置いた葉っぱ、葉っぱは、ありますよね?」
紗良が尋ねると「葉っぱ?」とアーサーが尋ねた。
「そうです。緑色の手のひらくらいの大きさの葉っぱ――、便所紙の隣に、何枚か置いたはずですが――」
「こ、これか? これがどうした?」
「それ、私たちが使っている便所紙というか、便所葉っぱです」
「な、なに?! これがであるか。これは、厠の匂いを消すものではないのか? すーすーと爽やかな香りがするが――」
「そのすーすーが、いいんです。その葉っぱを少し揉んでみてください。葉っぱから湿り気が出てきて、もっとすーすーしてきますよ。
そうしたら、それで便所紙のように、お尻を拭いてみてください。
最近は、ヴォルフもこの葉っぱでお尻を拭けるようになったので、アーサーのお尻も大丈夫です」
自信満々と言った様子で、紗良は拳を握りしめた。
「よ、よし、おぬしが、そこまで言うのであれば、よし――」
アーサーの力強い「よし」という言葉に、紗良は嬉しそうな笑顔を見せた。
「むむ。これは――」
紗良は、発せられるであろうアーサーの次の言葉をじっと待った。
「――最高じゃの」
紗良は、大きく息を吐いて肩の力を抜いた。
「よかった――」
こうして、アーサーのお花摘み騒動は解決した。
この後、長い時間いきんでいたアーサーの足が痺れて便所から出られなくなり、全裸のおさるさんと紗良が、アーサーを救うべく奮闘したのは――また別のお話。




