第三十二話 紗良、夕陽に誓う
「アーサーたち、遅すぎない?」
紗良は、厨房の中をイライラしながら歩き回っていた。背中にヴォルフを背負いながら腕を組んで厨房の端から端を行ったり来たりしている。
ジョバンニは、厨房の隅に置かれた丸椅子に腰かけていた。壁に背をもたれさせて、眠そうにあくびをしている。
――ぐうう
「お前、イライラしてると思ったら、腹減ってたのか」
ジョバンニは、紗良の腹の音にニヤリと口角を上げながら言った。紗良は、眉を吊り上げながら、
「当たり前じゃない。お昼はとっくに過ぎてるのよ。これ、一応、朝ごはんよね?
カイルの代わりに作ったはいいけど、アーサーを差し置いて食べるわけにもいかないし――って、たかが風呂に何時間かかってるのよ!
朝飯前のひとっ風呂って、そんなにかかる?! こっちは、朝早くからベッド移動させたり、たっくさん動き回ってたのよ! そりゃお腹だって鳴り響くわよ!」
「もう!」と紗良が地団太を踏んだところへ、ようやくカイルがその姿を現した。
彼は、げっそりとしながら、
「陛下の――、アーサーさんの、湯あみ、終わったっす。アーサーさん、居間で朝ご飯待ってるっす。今日は初めてみんなと食べるって、うきうきしてるっす」
カイルは、ふらふらと歩きながらジョバンニと紗良の目の前まで来た。ジョバンニは、カイルの疲れ切った様子に驚いた顔をしながらあわてて彼に席を譲った。
カイルは、丸椅子に座りながら大きくため息を吐いた。
「疲れたっす」
カイルが初めて見せる表情に、紗良は困惑しながら尋ねた。
「カイル、何があったの?」
「へいか――、アーサーさんの湯あみ、大変っす。昨日、俺が手伝ったのは、湯あみじゃなかったっす。あれは、ただ、汗を流すためだけの簡単なやつだったらしいっす。
アーサーさんの湯あみ、いつもは五人でやるらしいっす。今日からは、もう体調も万全だから、いつも通りの湯あみに戻したっす。
いつもは、その湯あみを一日二回するっす。次の湯あみは、夜っす。それまで、あと――」
カイルは遠い目をしながら壁に掛けられた振り子時計を眺め、がっくりと肩を落とした。
「全然時間ないっす。湯あみに三時間以上かかったっす。それを毎日二回――」
頭を抱えるカイル。紗良は、驚きながら彼の両肩を掴んだ。
「カイル、お、お水、お水は、アーサーの湯あみにどれくらい使うの? 湧き水で足りそうなの? 冬になったら湧き水が減るとかないわよね? ――石けんだって、無限じゃないのよ。私、石けんがないと、湯あみできないと、お、お尻だって清潔に保たないと――、再発しちゃう!!」
しっかりしてカイル、ちゃんと教えてちょうだいと必死に彼に縋りつく紗良。紗良の言葉など耳に入らないほどに憔悴しきっているカイル。
ジョバンニは、紗良の肩を掴みながら「お、おい紗良、落ち着けって――。とりあえず、お前のケツのことはどうでもいいだろ。それよりお前、カイルが――」
――コンコン
厨房の壁を叩く音に三人は、がばっと勢いよく振り向いた。
視線の先にはすっきりとした顔のアーサーが立っていた。彼はその人懐っこい顔で眉尻を下げながら、
「すまぬが、腹が減ってのう――」
アーサーのお腹がぐううと鳴り響いた――。
「へい――、アーサーさん、お食べにならないっすか?」
カイルが首を傾げながらアーサーに尋ねた。
先ほど腹を鳴らしていたアーサーは、しかし、テーブルに並べられた朝食を前にしても、手を付けようとはしなかった。
湯気立つスープやパン、大皿に盛られた熱々の干し肉と炒め野菜を眺めながらアーサーは、ひたすらじっとしていた。
アーサーは、カイルの言葉を聞いて、
「これで、すべてか? 私は、パンと、スープだけか? ――私もその干し肉が食べたいのだが」と、大皿を指さした。
紗良は、ハッとして立ち上がり、大皿の干し肉を皿に取り分けた。
「どうぞ」と、アーサーの目の前に置く。「ありがとう」と笑顔を見せたアーサーは、また、静かになった。しばらくの沈黙の後、アーサーがようやく口を開いた。
「毒見は――、まだか?」
彼の言葉に、今度は紗良が首を傾げた。
ジョバンニだけが、ハッとした様子ですぐに立ち上がり、アーサーの皿からからそれぞれ少しずつ取り、自分の皿に移すと、アーサーの目の前でそれらを食べてみせた。
「陛――、アーサーさん、毒見は終わりました。――粗末なものですが、どうかお召し上がりください」と、深々と礼をした。
アーサーは、ジョバンニの言葉に目を細めながら、
「うむ」と短く答えると、ようやくスプーンを手にした。
紗良は、ジョバンニに小声で尋ねた。
「昨日も、毒見したの?」
紗良の言葉に、ジョバンニはニヤリとしながら頷いて見せた――。
「ん!」
スープを口にしたアーサーがひときわ険しい表情をした。初めて見る彼の厳しい顔に、三人は戦慄した。
「あ、アーサー、どうなさいました? お、お口に合いませんでしたか?」
紗良が、震える声で尋ねる。
「このスープ――」
アーサーは、苦しそうにして顔を歪めながら言った。
「熱すぎる故――、少しやけどをしたかも知れぬ。――しかし、案ずるな。すぐに治るであろう」
真剣な表情で顔を上げたアーサーは、今度から気をつけるようにとカイルに言った。
カイルは掠れた声で、目に涙を浮かべながら「はい、申し訳ありませんでした」となんとか絞り出して頭を下げた。
紗良は、黙って自身のスープ皿を見た。先ほどまで立ち上っていた湯気はすでに消えている。紗良は、念のためスープ皿にそっと触れてみた。
じんわりと手にぬくもりを感じる程度の皿の温かさに、紗良は驚愕の表情で顔を上げた。
紗良の視線の先には、ふうふうと息を吐きながら二口目のスープを飲もうと頑張っているアーサーの姿があった。
紗良の両隣では、カイルとジョバンニが愕然としながらアーサーを見つめている。
――キャッキャ
サークルの中で寝ていたヴォルフが目を覚ました。彼は、器用に寝返りを打ちうつぶせになると、腹ばいでずりずりと移動し始め、あっという間にサークルの縁まで移動してきた。
サークル越しに紗良を認めたヴォルフは、紗良に生えかけの小さな歯を見せながら屈託のない笑顔を見せた。
バンバンと柵を叩くヴォルフに、紗良は、立ち上がってサークルへと向かった。
サークル内から必死で手を伸ばすヴォルフに、柔らかな笑みを浮かべて彼を抱き上げた紗良は、ヴォルフを腕にアーサーを見つめた。
ようやく二口目のスープを飲み終えたアーサーは、ゆっくりとパンに手を伸ばすところだった。ジョバンニによって端っこをちぎられたパンを当たり前のように頬張っている。
紗良はヴォルフの背中をとんとんと叩きながら、次にカイルを見た。カイルはげっそりとしながら皿の上のパンを眺めている。
窓に一番近い位置に座っているカイルの横顔が、赤い夕陽に照らされ始めた。
紗良が、口を開いた。
「ヴォルフ、あなたのお父さんを、何とかしないと――、そうじゃないと、冬を越す前に、あなたのお父さんに、私たち、全滅させられてしまうわ」
夕陽に照らされている鉢植えのお尻拭き葉っぱを眺めながら、紗良は真剣な表情で話し続ける。
「ヴォルフ、あなたのためにも、私、やるわ。この冬を乗り切って、そして、アーサーを、あなたの血のつながった父親を、立派なパパに育て上げてみせる」
紗良は、そう言い終えてヴォルフをきつく抱きしめた。ヴォルフは紗良の腕の中で、キャッキャとまた、楽しそうに白い歯をみせて笑った――。




