第三話 紗良と番の運命
『行っちゃったわね――』
紗良は呆然として、呟いた。強引に子狼を紗良に抱かせた老人は、それからそそくさと部屋を後にしていた。
ベッドにぺたんと座っている彼女の傍らでは、銀色の子狼がすやすやと寝息を立てていた。老人が部屋を出てからかなりの時間が経っている。
昼間から薄暗い室内にさらなる闇色が浸食していった。先ほどからずっと子狼を眺めていた彼女の背中を月明かりが照らし出す。
「あなた――子犬じゃなくて狼だったのね」
紗良は、柔らかい笑顔を浮かべて子狼にやさしく囁いた。おもむろに子狼を撫ではじめた紗良は、その感触に首を傾げた。
「――あなた、ちゃんと食べてる? 子犬なら、もっと――もちもちとしているはずよ、成犬よりも脂肪があるはずじゃない? あれは犬だから? 狼は最初からこんなにあばらが触れるものなの?」
おかしいわねと、何度も確かめるようにして子狼の身体を擦り続けた。薄明りのなか、心配そうに全身を擦っている紗良をよそに、子狼は、もぞもぞとくすぐったそうにしていた。
「へぇ。あんたが、ヴォルフの――」
突然響いた男性の声に、紗良ははっとして子狼を抱き上げると、素早く振り向いた。窓の外から満月を背にして、一人の男性が入ってきた。
「あ、あなた。え? 窓から? え!?」
紗良は、驚きながら男性を見上げた。
「ふうん。みんなが太ったおばさんが召喚されたって騒いでいたから見に来たけど、ふうん。」
男性は、驚きながら固まっている紗良に不躾な視線を上から下へと何度も這わせては、ふうんと繰り返した。月明かりに照らし出された彼の表情は冷ややかだった。
「な、なんなの、あなた。勝手に入ってきて」
絞り出すように声を上げた紗良は、男性から隠すようにしてぎゅっと子狼を抱き寄せた。男性は、そんな紗良の行動に初めて口角を上げた。
「ふうん」と一転して嬉しそうな笑顔を浮かべると、飛ぶようにして、ベッドに腰かけた。男性は、隣をポンポンと叩いて紗良に座るように促した。
紗良は、訝し気な表情を浮かべながら辺りを見回した。部屋の隅に浮かび上がる影に目を凝らした紗良は、小さな丸椅子を見つけた。彼女は、そっと子狼を片腕に抱きかかえ、空いた手で椅子を持ち上げた。
男性の目の前に椅子を置き、ずりずりとそれを引いて男性から十分な距離を取ると、紗良はようやく安心した様子で椅子に腰かけた。
相変わらずすやすやと寝息を立てている子狼を笑顔で眺めた紗良は、それからまた両手で包み込むようにして子狼を抱きかかえた。
「――運命の番って、そんな感じなんだ」
納得した様子の男性が、よかったよと小さく呟いた。先ほどの軽薄な態度から一転、慈愛の表情を浮かべながら子狼を眺めている男性に、紗良は、態度を軟化させて尋ねた。
「この子、ヴォルフっていうの? それで、貴方は?」
「そうだよ。彼の名前はヴォルフ。もしかして、こいつの名前も知らなかった? なんだよ、あのタヌキじじい、一体、何してたんだよ。」
不満をあらわにした男性に紗良は肩を竦めた。
「あ、ごめん、悪いのはあんたじゃない。気にしないでくれ。俺は、こいつの叔父なんだ。アレックスって名だ――俺は、こいつの母親の弟なんだ」
声音までやさしくなったアレックスに、紗良は驚いた表情をしながらも質問を重ねた。
「叔父さんですか。でも、なんで窓から? ん? この子の叔父? もしかして、皆さんって、この子が第七王子ってことは、本当で、やっぱり――貴方たち――獣人?」
アレックスは「あのタヌキじじい」と大きなため息を吐いた。
「そうだよ。ここは獣人が暮らす世界だ。こいつは、この獣人の世界で一番大きい国、ディープブラーハ帝国の王位継承第七位、ヴォルフ王子だよ。そして、あんたは、こいつの運命の番で、まあ、結婚相手ってことになるかな」
「獣人、帝国、王子――結婚相手、婚姻、嫁?!」
紗良は、オウム返しのように呟いた。それから、はっとしたように顔を上げ、
「ご、ごめんなさい。異世界とは思っていたけど、番って言われてたけど、あ!? そうよね! あの白タキが人間の姿だったから、すっかり、そうよ!
え? 私、この子と結婚するの?! だめよだめ! この子が可哀そうよ! だって、この子まだ赤ちゃんよ? この子が大人になったら……私、しわくちゃ老人っていうか、死んでるんじゃない?!
――やっぱり、あの枝毛召喚士さんに元の世界に戻してもらう!!」
がたっと立ち上がる紗良に子狼が目を覚ました。紗良は、きゅんと鳴く子狼に「ごめん、起こしちゃった?」と慌てた様子で言った。
よしよしと、子狼をあやしている紗良の手を取ったアレックスは、立ち上がりゆっくりと子狼を抱き寄せた。
子狼を抱きながら窓辺へと移動したアレックスは、子狼を窓の外へと勢いよく突き出す。
「危ない!!」
叫び声をあげて手を伸ばす紗良に、アレックスは、大丈夫だから見ててと言って、子狼を高く掲げた。
満月の光を浴びた子狼は、みるみるうちにその身体を変化させた。
「――え?」
呆気に取られている紗良の腕に、アレックスは人間の赤ちゃんを乗せた。紗良は、小さな男の子を抱きながら、
「この子――」
男の子を抱いている紗良の手は、小刻みに震えていた。彼女の瞳には、涙があふれ出た。
「そうだよ。こいつが正真正銘あんたの運命の番だ。こいつ、こんなに小さいのに、こんなに痩せているんだ。こいつ、今まで、あのじじい以外誰も受け入れなかったんだ。誰の腕の中でも寝ないで、誰にも懐かなかった。でも、見ろよ。こいつのこの顔――」
――本当に、幸せそうだ。掠れた声でそう言ったアレックスの目からも大粒の涙があふれた。