第十八話 紗良と気持ちのいい昼下がり
「あー。どうしよう、ぜんっぜん出ないわ。これ切れたらまたじいじの薬草にお世話にならないとだめじゃない。でも、あの薬草禁止されているのに、使ってもいいのかしら。でも、あ、で、出るかな。ぐっ。あー、だめだ。めっちゃくちゃガンコ――」
「ぶつぶつ言ってないで、早く出ろよ!」
紗良の背後からジョバンニが声を上げた。紗良は驚いた表情で振り向きながら、木の扉を見た。
固く閉じられている扉に安堵したのもつかの間、紗良は、はっとして、
「ジョ、ジョバンニ!! あなた、いつからっ!?」
「さっきから、ずっとだよ! お前、クソなげぇんだよ! 早く、出ろ! 後ろがつかえてんだよ。出ねえもんは、出ねえんだから、諦めろ!」
ドンドンと扉を叩くジョバンニに、紗良は、顔を真っ赤にした――。
「――カイル、お前のじいじの薬草畑だかに、便通をよくする薬草はないのか?」
居間で朝食をとっていたカイルと紗良は、頭を掻きながら気怠そうにして部屋に入って来たジョバンニを見上げた。
ジョバンニは、ふんと口角を上げて紗良を見下すと、それから彼らの正面にドカッと座った。
「こいつ、朝からずっと、便所にこもって――」
「ジョバンニ、私たち食事中よ!! それ以上は、し、失礼よ! あなた! 勝手にカイルにぺらぺらと、余計なことを喋らないでちょうだい!!」
紗良は、鬼の形相でジョバンニに叫んだ。
ジョバンニは、ニヤニヤとしながら皿の上のパンを掴んで、
「食事中だろうが、何だろうが、お前には緊急事態なんだろ? 何を今さら俺らに見栄を張ってるんだよ。
――明日も出なかったら、また切り傷に効く薬草をじいじの庭から調達する羽目になるって言ってただろ。便所で一人で、ぶつぶつ言って――」
クククと肩を震わせた。
目を吊り上げてジョバンニを睨む紗良。
カイルは、二人の間でおろおろとしている。
「だ、大体、あなた、いつからあそこにいたのよ!! お、おべ、お便所の前で、人の話を盗み聞ぎするなんて――プライバシーの侵害だわ!」
顔を真っ赤にしている紗良は、ビシッとジョバンニを指差した。
ジョバンニは、ニヤニヤとしながら紗良を揶揄うように自身の尻をさすってみせた。
「あー、痛い痛い」と紗良の声音を真似する。
ジョバンニ! 許さないと叫びながら、テーブルに手をかけて立ち上がろうとする紗良に、カイルは必死で縋り付きながら、
「さ、紗良さん、落ち着いてくださいっす。大丈夫っす。今の、全部、俺、聞いてないっす。それに、苦いけど便秘の煎じ薬なら、あるっす。大丈夫っす。お尻も、もう切れないっす」
「いや、カイル、お前――」
全部聞いてるだろと腹を抱えて笑うジョバンニに、紗良は、また顔を真っ赤にした――。
――グルグルグ
「紗良さん、薬草、効いてきたっすか?」
「そうみたい。さっきから、お腹が鳴りやまないの。ふふふ。カイル、あなたの煎じ薬のお陰でやっと、この頑固だった私のお腹も動きを見せ始めたわ」
紗良は、遠くの海を眺めながら答えた。カイルも満足そうにして頷いている。
紗良を挟むようにして、カイルと子狼がいた。
子狼は籠の中でお座りをしながら紗良を見上げている。カイルは、膝を抱えながら紗良と同じように海を眺めていた。
三人の少し後ろには、ジョバンニが仰向けになって空を眺めている。
彼ら四人は、塔と海辺の間にある開けた芝生にいた。
彼らの周りには木の板が張り巡らされている。ジョバンニの提案で、ヴォルフのサークルは、塔裏から表側へと移動することとなった。
元々日当たりのよい開けたこの場所に大きなサークルを作った彼らは、今、サークルの中で昼下がりの柔らかな日差しを受けながら思い思いにくつろいでいた。
「よし、それじゃあ。始めましょうか!」
元気にそう言った紗良は、籠の中から子狼を抱き上げると、彼をそっと芝生の上に置いた。
芝生の上で、子狼はせわしなく何度も体をぶるぶると振り、あくびを繰り返している。
紗良は、子狼の隣で四つん這いになった。
子狼に顔を近づけて彼の目線の高さにまで合わせた紗良は、そのまま床にひれ伏すように地面すれすれで辺りを観察していた。
「お前、今度は、何やってんだよ。ケツ上げて這いつくばって――」
横向きになったジョバンニは、片肘をつきながら紗良を眺めた。
紗良は、地面を凝視したまま、
「ヴォルフの目線で、このサークルの中を見ているのよ。お散歩デビューの基本よ。ヴォルフ目線でヴォルフの脅威を見つけるの。
こうやってヴォルフと同じ目線になると、立ったままと違っていろんなものを発見することができるようになるのよ。子どもにとっては、マンホールも、側溝の隙間も脅威なのよ」
「そのマンホールだかってのは、よく分からんが。ヴォルフ目線っていうなら、そこの兎に獣化してもらえばいいだろ。そいつの目線の方が、ヴォルフに近いんじゃないか?」
ジョバンニの言葉に、カイルは大きく頷いた。紗良が目を見開いてカイルに視線を移すと、そこにはもうカイルの姿はなく、カイルが着ていた洋服だけが残っていた。
服の下から、小さな黒耳がぴょこんと飛び出る。
「うはっ!! はわ! カイル、あなた、そ、それが、あなたの完全なうさちゃんバージョンなの?! はわわ! めっちゃくちゃ可愛いじゃない!」
こっちへおいでと紗良は両手を広げた。『はいっす』と声を上げた黒兎カイルは、嬉しそうにぴょこぴょこと歩いて正座している紗良の膝に飛び乗った。
興奮しながら兎の黒い背中を撫でた紗良は、隣で小さくなっている子狼を抱き上げ、彼も膝の上に乗せた。
仲良く寄り添う兎と子狼を眺めながら、紗良は、
「本当に可愛いわ。二人とも、毛がつやつやでふかふかで、はぁー何てこと、こんな幸せなことってある? 最高すぎるわ」
心底幸せそうに彼らを撫でまわしている紗良を見たジョバンニは、つまらなそうに仰向けになった。
二人を撫でながらジョバンニに視線を移した紗良は、彼の頭の角を見ながら少し照れくさそうにして、
「――ジョバンニ、あなたも、ちょっとでいいから、その――ひつじさんになってくれない?」
紗良の不意の言葉に、ジョバンニは驚いた顔をして紗良を見た。紗良は、頬をほんのりと染めながら、
「あなたのひつじさんの、そのふかふか? それ触ってみたいなって、ずっと思ってたのよ。私、ひつじさんの毛並みって一度も触ったことがなくて、すっごく興味があるの。せっかく、みんな獣化してることだし――あなたも、ちょっと、だけ、ね?」
お願いと手を合わせる紗良に、ジョバンニは満更でもなさそうに、
「ま、まあ、たまには、獣化して日向ぼっこもいいかもしれないな。でも、お前、俺のことあんまりべたべた触んなよ。
俺の毛並みは、あいつらと違って一級品だからな。手入れだってかかしてないし――」
ちょっと後ろ向いとけとジョバンニに言われた紗良は、頬を緩めながら顔をそむけた――。
「はぁあぁあわわ。なんなの、このもこもこのふわっふわは。あなたの毛並み、本当に一級品だわ」
紗良は、羊を両手で抱きしめながら、恍惚の表情で言った。
『だろ? ふっかふかだろ? 実はな、俺の毛の中でも、この腹の所が一番柔らかいんだ。ちょっとお前、お前の頭をこの腹の上に乗せてみろ』
うきうきとしながら羊が芝に腰を下ろした。得意げに腹を見せる羊に、紗良は目をキラキラとさせた。
「失礼します」と羊の腹に頭を乗せ――、
「あああああああ、これ、最高。ふかふかすぎて、もう――あ、ジョバンニ、私の頭重くない?」
紗良が心配そうに尋ねると、羊は柔らかな笑みを浮かべながら、『大丈夫だ』と答えた――。
『――大丈夫だとは、言ったが。俺、こいつに居眠りしてもいいって言ってないよな』
羊の腹に頭を乗せたまま紗良は寝息を立てていた。紗良の腹の上では子狼が丸まって気持ちよさそうに目を瞑っている。
「紗良さん、最近、夜遅くまで頑張ってたからしかたないっす。ジョバンニさん、もうちょっと頑張ってくださいっす」
カイルは、服に袖を通しながら眉尻を下げた。服を着終えて紗良の近くに来たカイルは、紗良の腹の上の子狼を抱き上げた。
「――ん? あれ、ごめん、あたし――」
目をこすりながら起き上がった紗良は、横で不満そうに目を細めている羊を見た。
『お前、誰がすやすや寝ていいって言った』
「ご、ごめんなさい」
しゅんとする紗良に、羊は、ふんと言うとそれからゆっくりと立ち上がって、『獣化を解いて服を着るから、ちょっと後ろ向いとけ』と言った。
紗良は、大人しく後ろを向くとばつが悪そうにしながら膝を抱えた。紗良の後ろで、服を着替えながらジョバンニは、
「そういえば、お前、昼寝しながら――」
「え? また、私、いびきかいちゃった?」
背中を向けたまま恥ずかしそうに答える紗良に、ジョバンニは、
「いや、すっげえ、ぶっぶか、おならしてた」
「うそ!?」
反射的に振り返った紗良は、ジョバンニを見て顔を真っ赤にした。
「バカっ!! 振り向くな!!」
ジョバンニの言葉に慌てて紗良は、膝を抱えて背を向けた。
顔を真っ赤にしながら焦ってトラウザーを引き上げたジョバンニは、急ぎすぎて裾に足をとられた。
ドシンという音にびっくりした紗良は、また、振り返り――
「だから、こっち向くなって!!」
ひっくり返ってもがいているジョバンニの叫び声が島中に響き渡った。