第十二話 紗良とひつじの執事ジョバンニ
「すっごく愛想のいい人ね――」
紗良は、籠を抱えたまま海を眺めていた。
ボートに乗っている男性は、紗良とカイルが手を振り返すと、両手を上げて先ほどの倍以上の勢いで手を振り始めた。
「あんなにボートも揺らしちゃって――ん? あのボート、なんか傾いてない?」
紗良は、首を傾げながらボートを見つめた。
目を細めながら彼女は、
「沈んでいるように見えるんだけど、私の気のせい?」
カイルも紗良のように首を傾げながら目を細めた。
「気のせいじゃないっす。沈んでるっす」
「――あっ、海に飛び込んだわ!」
紗良は、目を見開いた。不安そうに水面に視線を這わせて男性を探した。ぎゅっと籠を抱きしめる。
「あ、いたっす! あそこ」
カイルが指さす先に男性の頭が見えた。男性は海面から顔を出すと紗良たちの方へと首を回して、また、ぶんぶんと手を振って見せた。
紗良は、胸をなでおろしながら笑顔で手を振り返した。カイルも、安堵の表情を浮かべながら手をぶんぶんと振っている。
「こっちに泳いでくるっす」
「彼、泳ぐのうまいわね。ところで、あの人誰なのかしら、大丈夫よね。彼、安全よね? あの人、あんなに笑顔なんだし――まさか、この子を狙う刺客とかじゃないわよね?」
カイルは、紗良の言葉にはっとした様子でうさ耳を露わにした。ピンと伸ばしたうさ耳は、すぐにせわしなく動き出した。
「だ、大丈夫っす。多分、あの人なんかぶつぶつ言ってるっすけど、なんか喜んでるだけっす」
「え? あの人泳ぎながら喋ってるの? うそ?! すごくない? しかもそれ、カイル聞こえるの?」
驚いた様子で紗良はカイルを見た。カイルは、耳をぴくぴくと動かしながら、何か考えるようにして視線を漂わせた。
「とぎれ、とぎれ……だけど聞こえるっす――えっと、うれしいとか、つがいのでんかだ、とか、しゅっせだとか、めがみにあえるとか言ってるっす」
「殿下って、ヴォルフのこと? あの人、ヴォルフに会いに来たってこと? でも、しゅっせ? しゅっせってなにかしら? だって私たち、ここに監禁されているのよね。
出世っていうより、むしろここは、左遷先よ? それにめがみって、なに? あの人も言い間違いが多い人なのかしら?」
紗良は、頬に手を添えた。首を傾げながら男性を眺めている。
「――まあ、私たちを抹殺しに来たわけじゃないのは、わかったわ。彼の機嫌もよさそうだし、じゃあ、ここでしばらく彼が着くのを待ちましょうか」
カイルは、紗良の言葉に「はいっす」と答えて笑顔を見せた。カイルの耳がぴょんと跳ねる。
紗良は、カイルの頭上を眺めながら、
「それにしても、あなたのうさ耳、すごいわね。なんでも聞き取れちゃうのね。カイル、すごいわ。すごい助かる。ありがとう」と微笑んだ。
カイルは、へへへと頬を染めた――。
それから二人は、仲良く浜辺に座りながら男性の到着を待った。
遠くから必死で泳いできた男性は、浅瀬までくるとがばっと豪快に立ち上った。巨体を揺らしながら水を払っている。
「――あ、彼、もう着いたわよ。すんごく背が高い。あんなに服も濡れてて重そうなのに、あんな軽々と――あれ? なんかあの人変じゃない? 急に怒ってる? さっきの笑顔はどうしたの?」
紗良は、困惑した表情で立ち上がり、思わず後ずさった。カイルも立ち上がりながら表情を強張らせている。
カイルは、心配そうな表情で紗良の肩に手を置くと、彼女とヴォルフを守るようにして抱き寄せた。
視線の先では、先ほどのはち切れんばかりの笑顔をすべて消し去った男性が、紗良たちに向かって無表情でずんずんと突進してきていた。
男性は紗良たちの目の前までくると仏頂面で、
「なんだよ。てっきりヴォルフ殿下と番様が出迎えてくれているのかと思ったら、ばあさんと――お前はなんだ? 庭師かなんかか、それにしても二人ともきったねえ格好してるな」
男性は、蔑むような目つきで二人を見下しながら「早くお前らのご主人様のところへ案内しろ」と、汚いものを払うように手を振った。
「え? あなたは? 誰なの?」
理解が追いつかない様子の紗良が尋ねた。カイルは、紗良の肩を抱き寄せたまま男性を睨みつけている。
「なんだ、面倒くせえな。俺は、殿下から命じられてここに来たヴォルフ王子の執事兼護衛だ。ばあさんの相手してる暇はねぇんだよ。早く殿下に会わせてくれ」
「殿下から命じられたって、どの殿下?」
「あ? そんなのお前に関係あるのか? ――ったく、ばばあは、いちいち面倒くせえな」
男性は海水に濡れた頭をぐしゃぐしゃと掻きながら、「第三王子のフランツ殿下だよ」と答えた。
「第三王子――そう、あの白タキ……あ、いや、そ、そのフランツ殿下が、あなたを?」
「そうだよ、なんか文句あるか?」
眉をこれでもかと吊り上げている男性に、紗良はぶんぶんと首を横に振って否定し、それから、おそるおそる彼に尋ねた。
「それで、あの、そのヴォルフ殿下に伝えなければいけないから聞きたいのだけれど、あなたの、あなたのお名前と、それと、えっとあなたは一体――何獣人なの?」
男性は、紗良の質問にうんざりといった様子で、
「俺は、ジョバンニ。羊獣人だ」
言いながらにょきにょきっと生やした彼の二本の角を見上げた紗良は、
――ま、魔王
はっと息を呑んだ。