第十話 紗良の受け止める覚悟
「やばい。おしりが――」
紗良は、寝室のベッドに腰かけながら頭を抱えていた。
「やってしまったわ。あんなに気をつけていたのに――便秘がダメだったわ。水分、もっと取ればよかった」
紗良は、ベッドの上で尻をさすった。
「ジンジンする。あーどうしよう。じいじの服に、いびき――これ以上、カイルに醜態はさらせないわ。ばばあにも意地がある。絶対に、彼には、相談しないわ」
紗良は、どうしたものかと部屋を見回した。紗良の膝にヴォルフが乗ってきた。
「あら、かわいこちゃん、どうしたの? 怖い夢でも見た? 甘えたさんかな」
目尻を下げながら紗良は、ヴォルフの首筋に手を添えた。彼の頬を撫でる。ヴォルフは、気持ちよさそうにして目を細めながら紗良の手に頭を擦り付けた――。
紗良がヴォルフを撫で続けていると、ようやく彼は安心した表情を見せて、ゆっくりとその体を横たえた。
しばらくヴォルフの寝顔を眺めていた紗良が、ふいに顔を上げて言った。
「あ、そういえば、忘れていたわ。私、あの鞄もこっちに持ってきてたんだ」
ヴォルフを抱きかかえながら、紗良はゆっくりと立ち上がり、寝室の隅に向かった。
「私なんで、こんな大事なもの何日も放置していたのかしら。あ、もしかして――携帯も持ってきてる?」
紗良は、鞄の方へと近づくと、よっこいしょとしゃがみ込んだ。ヴォルフを自身の傍らにそっと寝かせる。ヴォルフの背中を撫でながら「ちょっと待っててね」と伝えた。
「――携帯は、無いか。そっか、玄関の棚に置きっぱなしかしら、あ、鍵も無いわ。これは、確実に玄関に置き忘れたのね。はぁ。残念。でも、薬なら、あるはずだわ。便秘の薬か、もしくは――」
「――紗良さん」
「ぎゃあ!!!」
突然聞こえたカイルの声に、紗良は、驚いて飛び上がった。
「すんません!!」
カイルの慌てた声が背後から聞こえた。
紗良は、おそるおそる振り返りながら、
「か、カイル、あなた、いつからそこに?」
開けっ放しになっている扉の前で、申し訳なさそうにたたずんでいたカイルは「結構前からいたっす」と答えた。
「終わったわ……」と、遠い目をしている紗良に、カイルは、慌てた様子で言った。
「すんませんっす。紗良さん、ずっと後ろの俺に気がつかずに話してたから、話しかけにくくて――」
「いいのよ、いいのよ。家族だもん、気にしないで、もういいわ。おばさん、変な見栄はらないで、開き直る。そうなのよ、私ね、薬を探していたのよ。ちょっと切れちゃって――」
「切れったっすか? えと、昨日の岩浜で転んだときっすか?」
カイルは、首を傾げながら尋ねた。カイルの不思議そうな表情に紗良はそっと胸をなでおろした。
「そう、そうよ。足を切ってしまって――」
「切り傷によく効く薬草が、裏の畑にあるっす。それ、俺今から取ってくるっす」
満面の笑みのカイルに、今度は紗良が驚いた様子で尋ねた。
「裏庭で、薬草も育ててるの? カイルすごいわね。それも、じいじから?」
「そうっす。じいじ、侍婆様が王妃様だった頃に、城で薬師をしてたっす」
「薬師?」
「そうっす。昔のお医者さんみたいなもんだって、じいじは言ってたっす。じいじ、侍婆様と仲よかったっす。この塔も侍婆様が建てた婆様の別邸っす」
「え? そうなの? 王妃様の別邸? そうなんだ。あ、だからトイレが和式?
――ま、まあいいわ。わかったわ。じゃあ、その薬草を一緒に採りに行きましょう! 私も是非、ついていくわ。実はね、昨日ちょっと夜更かしして、あるものを作ったのよ」
紗良は、嬉しそうに頬を緩めながら寝ているヴォルフを抱き上げた。
「あるものっすか」
カイルは、興味津々と言った様子で、紗良の背中を追った。紗良は、机の上にある籠を指さした。
籠の中にそっとヴォルフを入れると、紗良は、籠に縫い付けられた細長い白い布を頭からかぶりながら説明を始めた。
「手提げ籠の持ち手のところを切り取って、代わりにこの布を縫いつけたのよ。この布の部分、肩掛け鞄の紐くらいに長くしておいたから――見て!」
紗良は、籠を斜め掛けにしていた。胸元の高い位置に籠がある。
紗良は、ヴォルフを抱っこするようなしぐさで籠を抱きかかえながら、
「腰に下げるのと違って、この胸の位置なら、揺れないで安定して籠を支えられるし、ヴォルフが落ちることもない。両手も空くし、ヴォルフと安全に外に出られるわ。
この子――まだ、外で歩くのを怖がるし、当分はこれでお散歩して外に慣れさせようと思うの」
どうかしらと笑顔を浮かべる紗良に、カイルは「最高っす」と笑顔で答えた。
カイルを眺めて肩の力を抜いた紗良は、籠の中に視線を落とすと、ヴォルフを撫でながら話し始めた。
「昨日ね、これを作りながら考えたのよ。私、異世界に来てちょっと浮かれちゃってたわ。今も、まだ、ずいぶん浮かれてるけど、
でも、私、ちゃんと、二人と向き合おうと思ったの。カイル、あなた、じいじが、いなくなって寂しいでしょ。
私、あなたの寂しさにもちゃんとこれから寄り添いたいと思うわ。だから、あなたが行くところにはできる限りついていくつもり。あなたが、来るなって言っても、どこへでも、とことんついていくわ。まずは、裏庭からね」
覚悟してちょうだいと微笑む紗良に、カイルは、照れながら小さく頷いた。
カイルを見つめていた紗良は、それから決心したように真剣な表情になると、
「――それに、ヴォルフとも、この子とも向き合わないといけない。彼のことを全部受け止めて、それで、この子をしっかり育てようと思うの」
紗良はそう言って顔を上げた。真っすぐとカイルを見つめる紗良に、カイルは姿勢を正す。
「この子、ヴォルフの母親のことなんだけど、この子の母親は、やっぱり――」
紗良は、暗い表情で頷くカイルを見た。
「そう、わかったわ。教えてくれてありがとう」と言った紗良の頬に、一筋の涙が伝った。